NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第3章 恋中毒
2.おかしな会話

『起きてください。時間です』
 平坦な声と同時に、電子音の曲が流れる。
「わかった」
 返事のあと、耳のすぐ上で深いため息がそよぎ、それからわずかに動く気配がする。腹部から重みがなくなった。
 まえに似たような夢を見た。そう思うと同時にベッドが揺れて躰が弾んだ。とたん、夢のなかから振り落とされたように現実がくっきりと甦る。
「朱実」
 呼ばれるのとどちらが早かったのか、朱実はぱっと目を開いた。間近で見下ろしてくる目と目が合う。まるで天敵同士が出会ってしまったかのように身をすくんで息を詰めた。朱実だけでなく紫己もそんな雰囲気だ。少し間を置いて、「目覚めがいいな」と紫己は小さく吹くように笑った。
「八時だ。起きないと。メイクとかバッグとか、家に帰っていろいろ用意することあるだろう?」
 はい、とそれは声にならなくてうなずくだけに終わった。

 紫己はベッドからおりると裸体を隠すこともなく、デスクのほうに向かっていく。仕事で忙しいようなのに、後ろ姿を見れば背中は広くて、明らかに鍛えているのがわかる。
 何が起きているかまったく理解できなかった昨夜はともかく、早朝に起こされたとき、バスルームでその全身を見ているはずが、やはり平常心ではなかったせいで自分に起きていること以外にまで注意力がまわっていない。
 紫己は、デスクの横に立ち止まった。そこはほかの壁のようにクロス貼りではなく板戸で、横に開かれた。奥のほうにスーツが並んでかけられているところを見ると、きっとウォークインクローゼットだ。
 紫己はなかに入っていき、すると、そのあとを追って何かが転がっていく。いや、ボールのように球体に見えるけれど、少し浮いて見え、おそらくは車輪がついている。
「待機」
『了解』
 そんな会話がなされると、球体はいま入ったばかりのクローゼットを出てきて、デスクの脚もとで止まった。

 しばらく見ていたが、球体はまったく動く気配がなく、やがて紫己は服を身に着けて出てきた。昨日のスーツ姿とは違って、黒っぽいシャツにカーキ色のカーゴパンツというカジュアルな恰好だ。
「これ?」
 朱実が球体と自分を見比べていることに気づいた紫己は、デスクの下を指差した。
 朱実がうなずくと、紫己はおもしろがった様で首をひねる。
「C−BOXは知ってる?」
「はい、もちろんです」
「機能は進化させないといけない。そのプロトタイプを載せたロボットだ」
 そう云うと、紫己はロボットに向かう。
「CB10、カーテンを開けてくれ」
『了解』
 直後、窓際に目をやればカーテンがゆっくりと開いていく。
「会話モードだ」
『了解です』
「今日、天気はいいのか」
『快晴です。ひなたぼっこをするには快適ですね』
「仕事でそんな暇はない」
『それは残念。ところで、昨夜のクリスマスパーティは楽しくすごせましたか』

 どこか無邪気で、どこか生意気。そんなロボットが放った気の利いたセリフは、室内の空気を張りつめさせた。
 あったことが異常すぎて、朱実は昨夜がそんな特別な日であることをとうに忘れていた。紫己と目を合わせられないで、失言したロボットを見つめるしかない。
 紫己は、どんな意味が込められているのか、短くため息をつく。張りつめた空気が弾けることこそなかったが、ふたりの間に空気の層ができてじかに通じ合えなくなった気がした。

「待機」
『了解』
 紫己は再度ため息をついて、朱実に目を据えた。
「忘れることはできなくても、そのぶんつぐないたいと思ってるのは本当だ」
 返事はできなかった。それを理解しているように紫己はかすかにうなずき、不要なものを払うようなしぐさで肩をそびやかした。
「おれのスケジュールをインプットしていたんだ。会話モードにするとよけいなことを云ってくるから、仕事で検証するときは別として、普段はライフサポート面しか使っていない」
「……ライフサポート?」
 朱実が問い返すと、紫己は息をつきながら肩の力を抜いた。ひょっとして朱実が反応したことに、ほっとしたのだろうか。そう思うようなしぐさだ。
「ああ。言語を理解する以上に、一方的じゃない会話ができて、なお且つ生活上のサポートをスマホでできるようなプログラムを開発中だ。さっきカーテンを開けたみたいに。スマホに限らず、ペット型ロボットをつくって搭載するのも可能だ。ペットロスなんて言葉は必要なくなるだろう?」
 ペットロスなど、紫己がそんなことを考える人だとは意外だった。ITというイメージからしても、機械的なことしかやらないという印象を受けていた。
「すごいです。でも、ナマケモノになってしまいそうです」
「確かに」
 紫己はおもしろがった面持ちで相づちを打った。

「こいつにはおれの声しか認識させていない。今日は時間がないからできないけど、今度、朱実の声も認識させる。そうしたら、鍵を持っていなくてもここに入れるようになるから」
 今度とか鍵とか、紫己は本当に“つぐない”をする気なのか。
 朱実からの応えは端(はな)から期待していないようで、紫己はベッドをまわり、窓の傍に置いたカウチのところに行って上体をかがめた。そこにあったものを取りあげて、朱実のところへ寄ってくる。
 朱実はシーツで躰を隠しながら起きあがると、差しだされたものを受けとった。

 手にのせられたのは、キャミソールほか下着とストッキング、それに朱実のものじゃない女性用の服だった。
「服……」
「悪かった。これは進武から調達してきてもらった。服は今度、買い直そう」
「いいんです。あれは……レンタルだったから」
「わかった。店を教えてくれ。おれが行ってくるから、そっちのことは心配しなくていい」
「……はい。着替えます」
 そう云ったまま動かないでいると、紫己は察したようで――
「向こうで待ってる。トーストにスープでいい?」
「はい、充分です」
 朱実を残して、紫己はリビングへと消えた。

 進武の訪問にまったく気づかなかったことを思うと、朱実が眠っている間にやってきたのだろう。着てみた切り替えタイプのワンピースは、スカートの部分が短めでふわふわと揺れ、愛結が着そうな感じだと思った。
 すると、昨夜のことが甦る。
 自分がどうしていまここにいるのか、朱実の思考には混乱しか招かない。もしかしたら夢だ。むしろ、夢で終わればいい。家に帰りかけたシンデレラのように一夜が幻になればいい。そうして、自分から希望も期待も奪う。
 実際、桔平のことは、紫己との間に起きたことが信じられないほど強烈で、悲しいと浸る機会を奪われたまま薄れている。
 皮肉だけれど、そうやって人の気持ちが自分勝手で軽薄だというのは、ずっとまえから悟っていたことだ。

 リビングに行くと、トーストが焼きあがる香ばしい匂いと電子レンジが動いている音がした。
「こっち来て手伝って」
 いち早く朱実に気づき、どうしようと迷う暇もなく呼びかけられた。
「そこからカップとお皿を二つずつ。コーヒーはいる?」
「いえ……スープがあるから」
「なら、冷蔵庫にミックスジュースが入ってるから出して」
 手伝ってと云われたことは大したことではなく、朱実が手伝わなくても紫己が充分独りでできるようなことだ。朱実の性格を知ったうえで、手持ち無沙汰でいる居心地の悪さを解消してくれたのなら、紫己はけっして機械的な人ではない。一方で、昨夜の突然の変貌を思えば、穏やかなのは見せかけにすぎない。

「美味しい」
 ふたり一緒に向かい合わせでダイニング用のテーブルについて、ミネストローネ風の味付けをしたスープを一口食べると、思わず口に出た。たまに食べるインスタントのスープとはまるで風味が違う。味自体は薄いが、それを出汁の深みがカバーしている。
「プロが作ったものだから当然だな」
「プロ?」
「あー、もちろんおれのことじゃない。昼と夜は外ですませることが多い。せめて朝食はって気をつけてる。二日に一回のペースで自然食を宅配してもらってる。まあ、気分的な問題だな。胃をすっきりさせたいとか」
「毎日外食って、調味料の配合が決まってるから、飽きてそのうち食べたいものがなくなりそうです。わたしも昼も夜もレガーロで食べさせてもらうから外食になります。でも、賄い料理は毎日アレンジされてるから飽きないんです」
「なるほど……桔平も美味しかったと云ってたな」
 紫己の発言で、朱実は四人鉢合わせした日のことを思いだした。思い返しながらも、紫己のためらったような気配が引っかかる。昨夜、桔平のことを話していたときに紫己は豹変した。
「あ、それに高校のときは、大したことのないお弁当でも飽きることはありませんでした」
 桔平から話を遠ざけようと朱実は慌てて取り繕った。
 すると、紫己は何を気にしているのか、わずかに考えこむように顔を陰らせた。

「……そう云ったら、お母さんに悪いだろう?」
 朱実は訊かれてから、触れられたくないことに踏みこまれるという自分の失態に気づく。
「あの……母とは離れて暮らしてて、祖父母と一緒にいました。だから、お弁当作りは自分でやってたんです。高校を卒業してすぐ就職したところは社員食堂があって、安いからそこで食べてたけど最後のほうはお弁当を作ってました」
 紫己は食べる手を止めてじっと朱実を見つめる。気づかうような眼差しに見えた。
「おれは朱実が嫌がることを訊いたみたいだ。他意はなかった」
「……いいんです。それでいちいち気にしてもなんにもならないこともわかってます」
「朱実は頼りなく見えて、人を頼らないし、自分の境遇を受け入れる強さは持ってる。そんな感じだ」
「……強くはありません」
「おれはひどいことをした。けど、いまこうしてふたりで食事を取ってる。許すことができる人間は強い。そう思わないか」
 その声は深刻で、そして紫己が云った言葉を思いださせた。
 自由になれないことの苦しみ――と、何が紫己を縛っているのか。

「……わかりません」
 しばらく見つめ合ったあと、紫己は短く笑った。深刻ともいえる気配を滑稽なことと片づけているかのようにも取れる。
「正直だ」
 正直という言葉は臆病という言葉と紙一重だ。
「違います」
 紫己は可笑しそうにして首を振りつつ笑みを浮かべた。
「何かあったら、おれを頼っていい。……というよりも頼ってほしい」
 そうします、とは応えられず、それを承知で云ったのだろう、紫己はトーストを手に取ってバターを塗り始め、話は終わりだという気配を纏った。
 頼らない、とそんな言葉もまた云えなかった朱実の優柔不断さを見抜いているのかもしれなかった。

 朝食はそう時間も取らずに終わり、その間、会話といえばC−BOXの会社名の由来くらいだった。
 名前は、お喋りな人という意の“CHATTER・BOX”から名付けたという。最初に作ったアプリソフトではないというが、C−BOXの開発はずっと視野に入れていたようで、紫己はいまになっても進化を常に求めるほどこだわりが見える。
 考えてみれば、朱実にはそう云ったこだわるものも何一つない。生活するために生きているという、なんの生産性もなく、だれのためにもならず、そして自分にとっても存在は無意味だ。

 ――人を不幸にしておいて、幸せになれると思うの? 一生、不幸なわたしを忘れないようにしてあげる。

 彼女の望みどおり、朱実は忘れられない。
 彼女の望みどおり、期待をしても叶わないようにできている。
 期待すれば壊れるだけにとどまらず罰が下る。桔平のことが壊れたすえの昨夜の結末のように。
 朱実は幸せになれないようにできている。
 彼女を不幸にしたのは朱実のせいだけではない。けれど、朱実が手に入れた時間のかわりに、その時間を手放した人がいる。
 忘れてはいけない。
 それは紫己が云った、自由になれない苦しみと似ている。けれど、似ているだけであって、違う。朱実が自由になれないことを苦しみと捉えることさえ、彼女は許さないだろう。当然と思うことを当然と思っている。
 いま紫己の車に乗って信号機で止まれば、友だち同士だろう、女の子たちがまえの横断歩道を渡りながら笑っている。
 うらやましいと思うことすら、きっと分不相応だ。

 信号が青に変わって車が発進する。もうすぐ駅だ。降りる準備といっても持ち物はバッグだけで慌てることはないが、朱実はそわそわと落ち着かない気分で身動(みじろ)ぎをした。
「今度の休みはいつ?」
「……え?」
 いきなりで簡単な質問にすぐ応えられない。紫己はちらりと朱実を見やって、呆れたのか、首を振る。
「仕事、今度はいつが休み?」
「あ……えっと木曜日、大晦日です。そのまま三日まで正月休みになります。基本は五日出たら休みという感じです」
「休みはいつも何してる?」
「家の掃除して……本を読んだり……それくらいです」
「じゃあ、時間は都合つくわけだ。木曜日、午後からおれに付き合って。迎えにくる」
 朱実はパッと紫己を見やった。運転中の紫己は一瞥してまた正面に目を戻した。その横顔から可笑しそうな笑みが覗ける。
「デートの誘いだ」
「……でも」
「つぐない、させる気にもならない?」
 すぐさま朱実の拒絶をさえぎった声は、真剣な様に変わっていた。
「それは……もういいんです。罰だから」
「……罰?」
 怪訝そうな声に、朱実はうなずいた。

「わかってたんです。岡田さんとうまくいくことはないって。昨日のパーティで岡田さんと個人的に会うのは最後だと決めてました。高階さんが云ったこと……だれかとだれかの世界が融合することはないって云われました。ただでさえそうなのに、生活レベルの違いが世界のごく一部だとしても、高いレベルの人に比べたら、そのぶんだけわたしにはハンデがあるということです」
 朱実が云ったことは刃向かっているように見えるだろうか。そんな不安に感じるような沈黙が狭い空間に蔓延する。
 息の詰まるような時間がすぎていくなか、紫己は会話に気を取られていたのか、駅の場所を勘違いしているのか、駅に寄らずに通過してしまった。
「高階さん、この辺でいいです!」
 朱実は慌てふためいて座席にもたれていた躰を起こした。
 対して紫己は慌てることもなく、それよりは何も動じることなく、思わず漏れてしまったというような笑みをこぼした。

「積極性が皆無で、自分の意思もはっきり云えなくて、朱実のことは受動的だなって思ってたけど、そうでも頭は働くみたいだ。いい切り返しだった。しかも、器用に話の論点をずらした」
「え……そんなことありません」
「確かに、高いレベルのだれかと張り合えば、その部分はハンデになるだろう。だからといって罰を受ける理由にはならない」
 紫己が罰という言葉に気を取られるとは思っていなかった。朱実にとってはあたりまえのようになっている言葉でも、人からするといびつに聞こえたかもしれない。
「罰って云い方が違ってました。教訓とか、警告とか、そんなものです」
「おれは罰を与えたつもりはない。教訓も警告も違う。云っただろ。嫉妬だ」

 紫己のことがやっぱりわからない。距離があるとはあまり感じないけれど――少なくとも桔平よりも近いところにいる気はするけれど、ためらいなく嫉妬を口にするほどに情熱を持った人とは想像していなかった。
「高階さん、だからそれはもういいんです」
「そうやって閉めださないでほしい。家はどっち? 道案内して」
 朱実に応える隙を与えない紫己のほうがよっぽど論点をずらすのがうまい。もしくは誘導できるほど器用だ。休みの件にしろ、最初から誘うのではなく、ただの話のネタとして切りだし、誘うまえに朱実から断る口実を奪った。少なくとも忙しいとは云えないし、その日は出かけるともいまさら云えない。

「……わたしが案内しなくても、高階さんは知ってますよね? ……岡田さんはわたしのあとをつけたって……高階さんが送ってくれたときのことでしょ?」
 桔平が、わざわざ朱実の家を突きとめるだけに別の日に時間を取ったとは思えなかった。
「やっぱり朱実は侮れないな。昨日は動揺してたはずなのに、ちゃんとそういうことを考えられてる」
 紫己に指摘されると、自分でも気づかなかったことに気づかされる。もしかしたら自分を守るために、一線を引いていつも客観的でいようとしているのかもしれなかった。桔平のことはいま、冷静に見えつつある。
「自分のことを云われてるのに、そんなにすぐには忘れられません。そのときは何も考えられなかったけど……いま、だんだんわかってきたんです」
「自分のことだから憶えている。そうかもしれないな。あの日は……確かに、朱実を降ろしたあと、駅近くの駐車場に車を止めて桔平をすぐ降ろした。無理やり付き合わせて悪かったってちゃんと謝罪するとか云ってたな。おれはあとをつけてない」

 朱実は迷った。住まいを見られて桔平のような反応をされることが怖い。
 けれど、何を怖がる必要があるのだろう。
 嫌われたくないから? これっきりにしたくないから?
 彼女に植えつけられた罪の意識が朱実自身を責め立てる。
 祖父母と暮らしているときは気づかわれることに疲れていた。だれも自分のことを知らない場所で独りでいることを望んでいたのに、いざ独りになると、さみしいのではない、ただ怖い。

「朱実、どっちだ」
 沈黙に痺れを切らして紫己が急かす。
「……通りすぎました」
 紫己は、朱実のつぶやくような声を漏らさず聞きとり、一瞬よりは、運転は大丈夫かと口を出したくなるほど長く朱実に目をやった。
 それから短くだったが、紫己は声を出して笑った。
「知ってるか知らないか、おれを試してたとしたらお手上げだな。攻略のし甲斐がある。おれが嘘を吐いたかどうかははっきりできただろう」
「……はい」
「はっきりしたところで教えてくれ」

 朱実が説明すると、紫己はUターンすることなく道を選びながら方向を変え、遠回りをしてアパートのまえに着いた。
 降り立った紫己は古ぼけたアパートを眺めた。
 この辺りに照らし合わせていえば充分に住宅街といえるが、その響きからイメージされるれっきとした家の数々が並ぶような場所ではない。朱実の住み処のようにどこかしなびたアパートが圧倒的に多い。
 桔平がそう思ったように、紫己もまた朱実が不釣り合いだと結論づけただろうか。
 無論、朱実はそうなればいいと思い、住み処を教えたのだ。
 アパートから朱実へと眺める対象を変えると、紫己は促すように顎をしゃくった。
 要求に従って、朱実は一階の真ん中にある部屋に行って、鍵を開けた。

「なかに入っていい? それとも外で待たせる?」
 そう云われると、外で待たせることがひどく礼儀知らずのような気にさせられた。
「……どうぞ」
「気が進まなそうだ。レンタルものを預かったら出ていく。襲ったりしない」
 紫己は軽くホールドアップした。
「……そんなこと思ってません。ちょっと待ってもらえますか」
「オーケー」

 朱実は部屋のなかに入ると、着替えを適当に出して玄関から死角になる場所に行った。手早く着替える。レンタル店の紙袋にバッグを入れ、借りたワンピースは別の袋に入れて玄関に持っていった。ワンピースを預け、靴を箱に入れて紙袋のなかに入れると、渡すより早く紫己が取りあげた。
「すみません、お世話かけます」
「謝るのはこっちだ。じゃあ、また」
「はい、ありがとうございました」
 紫己はため息とも笑みともつかない吐息を漏らした。
「おかしな会話だな」
 その言葉を残して紫己は出ていった。

 紫己の部屋みたいにオートロックではないから、鍵は手動で閉めなければならない。鍵を閉める手はけれど、ためらうように止まった。
 ドアをそっと開けてみた。紫己が視界に入る。その背中は一度も振り向くことなく車のなかに消えた。
 紫己の家を出るまえ、家でシャワーを浴びたいからと通勤の同行は断った。それでも本当は、朱実の支度を待ってまた送っていくと云いだすんじゃないかと思っていた。けれど、紫己はそうしなかった。
 すぐに出発したのは紫己にも仕事があるからで、紫己はアパートを出た時点できっと気持ちを切り替えたのだろう。
 そんな云い訳をつけたがるなんてどうかしている。朱実の住み処を見れば、係わりを断ちたくなるだろう。それが本来の希望のはずなのに。
 おかしな会話。
 紫己の云うとおり、どう振る舞っていいかわからないから普通に装っているだけで、こんな異様な関係はあり得なかった。

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