NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第1章 Cross
2.住む世界が違う

 このアパートに引っ越してきてまだ一年足らずだが、1Kの部屋は、小ぢんまりという表現すらしにくいほど狭いと感じる。壁にも天井にも、建物に染みついた汚れが浮きでて、小物を置いたり、今年の誕生日にもらったプリザードフラワーを置いたり、努力してみても反対に古びた印象を強調してしまう。
 窓にはカーテンがなく、今朝は外の景色が白んでいくにつれ、それらの染みがくっきりと現れて見え、夢を嘲笑うかのようだった。
 昨夜はあまり眠れていない。そのせいか、夢はいくつも見た気がする。
 けっして叶わないという、現実では夢見られない夢も、そして現実から消し去れない、見たくもない過去の夢も入り混じって、躰が重たく感じる。それ以上に、心的に疲れた。

 小さな卓上ミラーを見てはため息をつく。水戸(みと)朱実は、もう何回もそうすることを繰り返している。
 岡田桔平がレガーロに来たのは三日まえだ。強引にパーティに誘われて、断れないまま一方的な約束の当日に至っている。
 だいたいが、岡田個人の電話番号も何も連絡先は知らず、断ろうと思っても本人がレガーロを訪れなければ叶わない。名刺はもらっていて、会社の電話とメールアドレスはわかっている。けれど、プライベートな用事に使うのはためらわれた。
 朱実のそういう性格を察しているから、桔平は断る機会を与えないため、わざと来なかったのかもしれない。

 もっとも、普段からそう足繁く通ってきたわけではない。週に一回くらい、多くて二回がせいぜいだ。朱実がレガーロに勤め始めたのは半年まえで、単純に計算すれば二十回くらいは会っている。その間に、朱実の担当テーブルに座るようになって、それから少しずつ話すようになった。
 話すといっても、会話は少しも弾まない。桔平は何かと話題を思いついて提供してくれるけれど、朱実はほとんどはい≠ニかいいえ≠ニか、ちょっとましなところでそうですね≠ニかかもしれません≠ニか曖昧にしか応えられない。
 桔平にだけでなく大抵の人と会話が進むことはなく、時に人を苛立たせたすえ疎遠になる。
 その点、桔平は根気強い。そんな人ははじめてだった。
 ただ、はじめてというだけでそれ以上の進展も――本当なら、接点すらもいらない。

 すっぽかしてしまえばいい。
 そうしたら、レガーロが入ったビルのオーナーという大手企業の役員の機嫌を損ねたすえ、せっかく慣れてきた仕事も首になるだろうか。派遣だから朱実のかわりはいくらだって調達できる。
 首になって次の仕事が見つかるまで収入がなくなることを考えると不安だらけだ。
 行くか行かないか、しばらくぐずぐずと悩んでいるうちに、待ち合わせ場所にはとりあえず行って、そこで断ればいいという単純な結論にたどりついた。
 着替えようと思ったところで、さらに単純な問題点に気づいた。
 桔平はデートではなくパーティに誘った。そのパーティがどんなものかわからないし、どんなものにしろパーティという言葉に見合うようなお洒落感のある服は持っていない。オールマイティという意味で実用的、且つ最小限のものばかりだ。だから、派遣の仕事も外せない条件として、制服のあるところでしか働けないと要望している。
 メイク道具も持っているものは、下地のほかはファンデーションとリップのみだ。
 その必要最低限というエチケットのためのメイクをして、あとは何も考えることなく普段の服を身に着けてコートを羽織ると、朱実はバッグを持って家を出た。


 約束の十一時よりも十分くらい早く着いたのに、待ち合わせの場所が見えたときは同時に反対方向からやってくる桔平の姿も見えた。
 見慣れた仕事用のスーツ姿ではなく、緩めの綿パンツに薄手のニットシャツ、そしてカジュアル寄りのジャケットを纏っている。当然、仕事ではないのだから、スーツ姿というのはおかしいがそこに気がまわることはなく、朱実は純粋に驚いていた。
 あと一メートルほどという距離でふたりは立ち止まった。桔平の目が朱実の上を滑っていく。
 開襟シャツの上に半袖の薄いニット、そして膝丈の箱ひだのスカートという変哲のない恰好は桔平の目にどう映ったのか。
 互いがカジュアルな恰好とはいえ、朱実と桔平では明らかに質が違う。恥ずかしい気持ちが急激に上昇して居たたまれない。

「あの……」
「桔平でいいよ」
 気楽にさせようとしているのか、あるいは朱実の意思を察して逸らそうとしているのか、桔平はすぐさまさえぎった。
 このままでは、今日の約束を取りつけたときのように云いくるめられそうな気がする。
「そうじゃありません。やっぱりわたしは行けません」
「まさか今時、住む世界が違うとかなんとか云うわけじゃないだろう? 昼のメロドラマだったらいまでもウケるんだろうけど……あー、勘違いはやめてくれよ。おれはそういうの見てないから。放送中は仕事中だし。仲間の奥さんたちが集まるたびに話題になって盛りあがってるんだ。女は結婚していても恋に夢を見るらしい」
 桔平は、朱実が応えるまでもなく彼女のぶんまで喋り、独りで会話を完結して、明らかに口下手な朱実を説得しにかかる。
「……いいですね」
 未来の夢はさることながら、恋するという夢も叶うことはない。ついそう考えてしまって虚しさと対面すると、朱実は表情を覗かれないように目を伏せ、わずかにうつむいた。

「ドラマティックな恋バナが好きなら、話を合わせられるだろうしパーティも居心地悪くないよ。今日は畏(かしこ)まった場所じゃないから」
 桔平はおどけたように手を広げて、自分の恰好をひけらかした。
 確かにシャンパングラスを片手に持ってうろうろするようなパーティではなさそうだ。
 けれど、それとこれとは違う、というほどの断りたい理由は別にある。朱実の身上調査をしないかぎり桔平には見当もつかないだろう。

「どこにいても居心地が悪いし、そうなるのはわたしのせいです。苦手だから……気が進みません。誘ってもらったのに、本当にごめんなさい」
「謝るくらいなら、今日だけ付き合って。もうパーティ参加するって云ったから。この次は、ふたりきりにするよ。そっちのほうが大丈夫なんだろ?」
「そうじゃなくって……」
 云いかけるとまた桔平は、「そこからさきは」と朱実をさえぎった。
「今日、一緒にすごしたあとの判断でいいだろう? 行こう」
 桔平は一方的に云い募り、さり気なく朱実の手をつかむと駅のほうへと向かった。

 桔平が云ったとおり、パーティは畏まった場所ではなく、マンションの一室という個人の住まいだった。
 ただし、畏まった場所ではなくても、畏まってしまう場所だ。
 1Kしかない朱実の部屋と違い、リビングだけで優に十人を超える人がいても少しも狭苦しくなく、まるでサロンのようなゴージャスぶりだ。
 家主、丸井進武(まるいすすむ)は大学時代からの友人で、その人は別の友人の経営パートナーでもあると桔平は教えた。桔平と同じように、二十八歳という若さで成功している。この家はそのステータスの一つだろう。
 ふたりに限らず桔平から紹介されるたびに、朱実はやはり住む世界が違うと思わずにはいられなかった。
 男女半々くらい集まるなか、桔平と同年代の男性たちはみんな自信に満ちている。一方で女性たちは、朱実とあまりかわらない二十歳そこそこから三十代までと年齢に開きがある。加えて、セレブに見える人がいれば無邪気にはしゃぐ人がいて様々だ。男性と同じように自信たっぷりなしぐさが目につき、そんな彼女たちは煌(きら)びやかだ。

 いつもは目の隅にも留まらない朱実の地味さがかえって目立っているのではないだろうか。その危惧は間違っていなかったようで――
「朱実さんて仕事は何をしてるの?」
 と、あちこちでなされる話し声のなかから一人の関心が朱実へと向いた。
 飲み物を口にしたり、プレートにピザを取り分けたりしながら、次々と視線が朱実に集まってくる。質問は大したことでもないのに、一瞬パニックに陥るほど、朱実は慌てふためいた。学生でなくなってから、こんなふうに大勢と行動をともにするのは仕事くらいで、およそ朱実に一斉に関心が向くなどない。

「あ、カフェで働いてます。あの……ネクストHQ(ヘッドクォーター)ビルのなかです」
 話しかけた女性は確か川合(かわい)静華だったはずと思いながら、朱実は答えた。
 人付き合いを疎(おろそ)かにしてきたぶん、人の名前も顔も憶えるのはまったく不得意になった。ましてや、今日一回きりで会う人たちだ、憶えようという意思にも欠けている。
 いまここで顔と名前が一致しているのは、桔平と進武と、この静華くらいだ。

 静華は、紹介で一見したときは桔平と同じ年くらいかと思った。が、会話を聞いていくうちに、あまりにも落ち着いているから、もっと上なんじゃないかと朱実は判断を改めた。もしかしたら年長かもしれない。
 その証拠に、静華が話しかけるまで朱実は蚊帳の外だった。普通なら、どこのだれか、それは紹介のときに訊ねていいことだ。けれど、だれ一人として訊こうとしなかった。こういう集まりでは必ず絶対の仕切り役がいる。それが静華なのだ。

 静華はわずかに目を見開いて、朱実から桔平へと視線を転じて問うように首をかしげた。
「そうなの? 桔平の会社の子かと思った」
「おれは社内恋愛はしない主義」
「それって、別れること前提に付き合ってるって宣言してるようなものだと思うけど」
「ひどい!」
「まあまあ。愛結(あゆ)、桔平がやたら狩りを……」
 本気で怒ったらしい愛結を男性がなだめるなか――
「憶測でおれのことを決めつけるなんてやめてくれよ。朱実ちゃんは新参者だ。誤解してもらっちゃ困る」
 と、桔平はそれをさえぎった。

「誤解されたくないの?」
 静華はおもしろがって片方の眉を跳ねあげる。
「されたい奴がいるんなら教えてほしいね」
「あー、いつもみたいにストレートに云わないのって本気ってこと!? ひどい」
 愛結は朱実と同年代だと思うが、子供っぽく頬をふくらませて顎をしゃくった。やはり本気で抗議しているようで、もしかしたら、と朱実はやっと気づいた。
 ここに来たときから、愛結からは尖った気配を感じていたが勘違いではなかった。原因は、年が近いことから起こる張り合いではなく、桔平を間に挟んでのライバル心なのだ。最初の『ひどい』というタイミングを推し量れば、彼女はリブネクストの社員だ。
 桔平は愛結の気持ちを知ってか知らずか、口もとに皮肉っぽくも取れるような笑みを浮かべた。

「朱実さん、美味しいコーヒーは淹れられるのかしら?」
 気を利かせて話を逸らしたのか、静華は再び朱実に焦点を合わせた。
「あ、いえ、ただのウェイトレスなので……コーヒーはマスターがやっていて、わたしは全然できないんです」
「そうなの。お願いしたかったのに残念ね。こっちの彼女、理沙はイタリア料理店をやってるのよ。職場を変えたくなったら相談に乗ってくれるかも」
 おちゃらけた発言をジョークとしてストレートに受けとっていいのか、朱実には見分けられなかった。理沙へと目配せするような静華のしぐさが、わざとらしく見えなくもない。
「はい、そのときはよろしくお願いします」
 どう云い様もなくて朱実はそんな答えしか返せない。くすくすした笑い声はやはりどう捉えていいのかわからなかった。

「静華さんはお仕事されてるんですか」
 朱実がその場しのぎに訊ねたとたん、だれもがそれぞれに顔を見合わせる。まずいことを云ったかのような雰囲気だ。
「ほら、こういう子もいるのよ。みんなも思いあがらないことね」
 静華は仲間たちを見渡しながら、興じて、なお且つおどけた面持ちで忠告した。
 理沙が呆れたふうにため息をついたが、その実、静華の反応にほっとしたのかもしれない。そう思うのは考えすぎだろうか。知らないのがおかしいとしたら、静華の仕事は世間に広く知れ渡っているのだ。

「あの、……」
 すみません、と続けようとした言葉はドアホンの音にさえぎられた。
「もしかしてムラサキが来たの?」
 いち早く反応したのは静華だった。返事を待たずに、「いいわ、わたしが出るから」と、家主の進武を制して立ちあがった。
「岡田さん……」
 静華がいなくなると、囁くように呼んで隣を振り仰いだ。にっこりした笑顔がおりてくる。
「気にすることないよ。テレビとかネットとか、画面の向こうに興味のある人間ばかりじゃないことはわかってる」

 ということは、静華はテレビに出るような有名人なのだ。真っ先に浮かんだ仕事は女優だ。その職業に見合うほど、顔立ちはメイクを落としてもくっきりとしてきれいなのだろうと察せる。背も高くてスタイルもいい。
 静華とは正反対に、二重でも大きくもない目、それに薄幸を表すかのような薄いくちびるは、朱実の顔を地味にしている。背も百五十五センチしかなく、スタイルは細いのではなく貧弱だ。唯一の共通点は髪が胸の下まであることだ。けれど、緩くカールしてふわりとした静華の髪型と違って、ぺったんこのストレートで品も何もない。比べてみること自体、身の程知らずもいいところで、これまでなら仕方ないとさっさとあきらめてしまうのに、朱実はいまいつになく落ちこんだ。
 気を紛らせるように、静華の職業をアナウンサーとかキャスターとかあれこれと想像してみた。そうしながら桔平が教えてくれるのを待ったが、静華についてそれ以上に明かす気はないのか、喋る気配がない。そのかわりに、ほかの男性が口を開いた。

「たまに世界はここだけじゃないってことを忘れることあるな、確かに。ネットの裏を操ってると、こいつバカなことやってんなーって云いたくなるときがある。そうなると、世界を牛耳(ぎゅうじ)ってる気になるんだよな」
「もしかして覗いてるの!?」
「覗きじゃない。不適正防止のためのパトロールでチェックしてるだけさ」
「ほんとに?」
 と、怪しんだ問いかけが愛結の口から飛びだすと同時に静華が戻ってきた。
 背後には背の高い男性が控えている。
「よお、ムラサキ。パーティに顔出すの、久しぶりだな」
「ああ。桔平につつかれた」
 ムラサキと呼ばれた男性はそう返事して、ゆっくりとリビングを見渡した。
 その間に、朱実はムラサキを眺めた。

 薄めのセーターを着ていて、首回りは下に着たシャツの襟を無造作に出すという、シンプルな恰好なのにお洒落だ。緩めのカーゴパンツがスマートに見えるということは脚が長いのだ。顔立ちは桔平のように端整で、バランスは文句のつけようがない。そうしたら贅沢だ。ただし、人に与える印象が違っている。桔平は、人を笑わせるピエロのようにおどけた雰囲気で、近づきやすい。対してムラサキは、気取ってはいないけれど感情的に淡泊な印象を受けて、どこに近づく接点を見いだすか難しいタイプに思えた。
 もとい、朱実はだれに対しても接点を見いだすつもりはない。なんの足枷もなく、むしろ堂々と誇るべきものを手にした人たちが集まる、こんな場所にいることがそもそも間違っている。

 帰る口実が何かないだろうか。桔平にはきっちり三十分とか一時間とか約束しておけばよかったと後悔した。
 目で訴えられるか、桔平へと視線を移すなか、ちょうどムラサキの目が朱実へとめぐってきた。目と目が合うと、朱実はどこかで会ったという感覚に捕らわれる。
 どこ?
 朱実が不安になる片方で、ムラサキは少しも表情を動かさず、桔平へと目を向けた。
「桔平、紹介してくれ」
「ああ。水戸朱実ちゃんだ」
 朱実はとっさに立ちあがって一礼した。
「はじめまして」
 顔を上げると、わずかにしかめた表情に合い、そうしてムラサキは薄く笑って首を横に振った。
「はじめてじゃない」
「……え?」

 どこかで会った、とその感覚は間違っていなかったらしい。ほっとするよりも、朱実に宿ったのは怯えだ。また仕事を失うかもしれない。そんなことを思いながら、ムラサキの言葉を待った。
「ムラサキ、知り合いなの?」
 静華のしかめた顔が朱実へと向かってきた。何を咎める必要があるのか、彼女の眼差しはそんな雰囲気を宿した。
 ムラサキは、「知り合いってほどじゃない」と静華に云いながら、朱実へと目を転じた。
「桔平と一緒にいるときにレガーロで会った」
「そういうこと」
 静華が納得したようにつぶやく傍らで、ムラサキはカーゴパンツのポケットに手を突っこみ、そして長方形の入れ物を取りだした。二枚貝のように開くと、なかから出てきたのは少し色味のついた眼鏡だった。
 ムラサキがそれをかけたとたん、朱実は思いだした。あのとき、名前と同じ、少しパープルがかった色の眼鏡をしていて、人相も表情もよく見えなかった。

「あ、すみません。わかりました。憶えてます」
 ムラサキはまた眼鏡を外してケースにしまいながらうなずいた。
「よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
 どこかで会った、というのがこのまえのレガーロでのことであれば、なんの懸念もいらない。
 ほっとして思わず笑みがこぼれてしまった。

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