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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第1章 Cross
3.ムラサキ
気づいたときにはひっそりと生きる癖がついて、朱実は自己主張ができなければ感情をあらわにすることもない。愛想笑いやフレンドシップな笑い方はできても、自然と笑うことは稀(まれ)だ。いま、無意識で笑えたことに自分でもびっくりしている。
たぶん、ムラサキのせいだ。言葉で説明してくれればわかることを、わざわざ眼鏡を出してかけて見せるという、彼に似合わない、どこか滑稽なしぐさがそうさせた。
桔平の傍にいると緊張してどきどきしてしまう。ムラサキに対しても、気さくにとはいかない。けれど、女性たちを含めてほかの人についても感じている、住む世界の違いをムラサキには感じなかった。気取っていない、という朱実が抱いた第一印象の一部は少なくとも合っていて、なぜかはわからないが親近感みたいなものが湧く。
そのムラサキはさっきから居心地が悪くなるくらい朱実を見つめている。いや、朱実をというよりも焦点は朱実の口もとにある。そうして、くちびるから笑みを引っこめる機会を逃していた。
さっき食べたクリームパスタのソースが付着しているのかも、と朱実は急に不安になる。
「ムラサキ、飲み物は? ワインならグラン・エシェゾーあるけど」
静華がムラサキに問いかける様は甲斐甲斐しい。玄関に飛んでいったことといい、彼女がムラサキに執心なのはだれの目にも明らかだ。それとも、すでに恋人関係なのか。
朱実は、ムラサキの目が自分から離れたことにほっとして座った。のどがからからになっている。テーブルに置いたグラスに手を伸ばした。
「車で来た。長居するつもりはない」
応えたムラサキは、次には朱実を指さした。
「それ何?」
指先は朱実が持ったグラスを捕らえている。
「ポールジローのグレープ炭酸水よ」
朱実が口を開くまえに静華が答えた。
朱実が答えられないと思ったのだろうがそのとおりで、わざわざ銘柄を付け加えられたことで、普通にスーパーにあるようなジュースよりも高価なのだと教えられた。
「それでいい」
「わかった。座って」
と、静華は自分の隣を指さしてキッチンに向かった。
静華は他人の家なのに慣れたものだ。このパーティはたまにというよりもしょっちゅう開かれているのだ。
ムラサキが示された場所に腰をおろすのを眺めながら、朱実はフルネームを聞いていないことに気づいた。ムラサキ≠ェ姓ではなくファーストネームだとしたらめずらしい。恋人関係にしろ、ただの仲間内にしろ、ムラサキに限って静華が姓で呼ぶのには違和感がある。略だったり愛称だったりするのかもしれない。
そういえば、仕事が何かも聞いていない。もっとも、このなかで新参者は朱実だけで、これがプライベートの集まりである以上、詳しい自己紹介など面倒くさいのかもしれないし、仕事に触れないことはここの慣習かもしれないし、もしくは静華のことがそうだったように、名乗るまでもなく一般に知られているから自己紹介するという意識がそもそもないのかもしれない。それとも、朱実にはそこまでやる必要がないと見くびられたすえ、そんな朱実の価値をほのめかされているのか。
ただ、会話のなかで男性陣がすべてIT関係の仕事だということまでは察せられた。ここにいるということは、例外なくムラサキも同じ業界にいるのだろう。
「長居する気はないって、おまえ、いつも何やってんだ?」
「仕事してる」
ムラサキの端的な答えに、一様にため息が漏れる。
「もっと遊んだらどうなんだ」
「適当にやってるだろ」
「ムラサキは仕事がドーパミン剤なんだよ。いいアイデアが浮かべば、エンドルフィンが作用してこういうパーティよりも数段増しの多幸感が得られる。おまえらも駆けだしの頃を思いだしたらわかるだろ」
ムラサキを援助したのは進武だ。
「そう云いながら進武、おまえムラサキをおだてて自分は左うちわで暮らそうって算段か?」
「実質的経営権はムラサキにある。けど、それは聞き捨てならないな」
「冗談だ」
「そうでなくちゃ困る。スポークスマンはおれに向いてない。進武がいなかったらC−BOXはネットの片隅でうずもれたままだった」
「ムラサキ、それはおだてすぎだ」
進武は呆れた様でムラサキを見やり、首を横に振った。対して、ムラサキは口を歪めて肩をそびやかした。
桔平が話した、進武の経営パートナーというのはムラサキのことで、ふたりの会社がC−BOXということまで把握した。ただし朱実には、C−BOXが何をやっている会社なのかまではわからない。
「確かにお喋りじゃないけど、ムラサキが口下手だとか内向的だとか思ったことないけどな」
「口下手じゃなくても話の上手下手はある。プレゼン力は企業を左右するってことくらい、わかってるだろ」
「まあな」
「お堅い話はそこまで。ムラサキ、久しぶりなんだから楽しんだら?」
静華は、男性達が話している間に、上品に料理を盛ったプレートをムラサキに手渡した。ムラサキは薄く笑いながら、サンクス、とそれを受けとった。
「んじゃあ、軽い話で。エンドルフィンといえばセックスだ。ムラサキ、まさか、そっちの解消も仕事ですませてるってことはないだろうな」
「やだ、もう。そこまで話が飛ぶ?」
「愛結、朱実さんがいるからってかまととぶるなよ」
「ひどい云い方!」
愛結は弄(いじ)られる役回りなのか、怒っていながらも満更でもないという印象を受ける。彼女は子供っぽく、つんとしてそっぽを向くと、そのまま朱実へと目を移した。
「朱実さんて」
と、中途半端に言葉を切って愛結は首をかしげた。
「え?」
「見た目、バージンっぽいよね」
そんなことを人から訊ねられたことはなく、ましてや大勢のまえで肯定やら否定やらできるわけがない。
「愛結、朱実ちゃんをからかうのはやめろよ」
ため息混じりで愛結を咎めたのは桔平だった。
「仲間内では笑い飛ばせることでも、はじめて会った人にする質問じゃない」
朱実がこんなふうにかばわれたことは久しくなかった。
「朱実ちゃん、根はみんないい奴だから。びっくりしてるだろうけど」
仲間のこともかばいつつ、からかうような云い方はその場を不快にすることなく、桔平は申し分なく気配りができる。
「大丈夫です」
軽くうなずいて応えると、桔平はおどけた様子で笑った。
笑顔の似合う人だ。朱実はそう思うと、笑顔がもたらす効果とはかけ離れた空虚さを覚える。
「よかったな桔平、嫌われなくて」
「おれ自身は何もしてないだろ。けど、友だちを見ればおれがどういう人間かわかるだろうって説得して連れてきた。つまり、おれの今後はおまえたちにかかってるってことになる」
桔平が云い渡すと失笑があちこちから漏れる。
「あとが怖そうだな。リブネクストのお偉いさんだ、みんな、桔平の機嫌を損ねるなよ」
進武の発言はさらに笑い声を呼んだ。
その後、朱実を差し置いて身内の話で湧いた。下手に仲間に引きこまれるより、傍観者でいるほうがらくでよかった。帰るタイミングを見計らうまでもなく、桔平はムラサキが来てから一時間もしないうちに、送ろう、と申し出た。
驚いたのは、ムラサキも同時に帰ると云いだしたことだ。確かに、長居はしないと云っていたが。
「ムラサキ、おまえがパーティに出なくなったのは静華を避けるためか?」
三人だけというエレベーターのなか、桔平は不躾に訊ねた。ムラサキはため息混じりに笑う。呆れた雰囲気だ。
「朱実さんのまえでよくそういうことを露骨に訊けるな。おまえらしいんだろうけど」
「で、どうなんだ?」
「云っただろ、来ないのは仕事のせいだ。それに、避けるも何も、おれは彼女を期待させてるつもりはない。それとも、そうしてるように見えるのか? だったら、もっと振る舞いを改めないとな」
「おまえのそういうとこ、クールなのか誠実なのか、いまだにわからないな」
桔平は首を振りつつ、ため息を漏らす。
「それは人が判断することだし、おれに云ってもわかるわけがない」
桔平は降参だとばかりに手を広げ、それから朱実を見下ろした。
「ムラサキって変わってるとこあるけど、俄(にわか)の成功者にしては自分を見失ってない奴だ」
「変わってるのは桔平、おまえのほうだ」
「おっと。それ以上、いまは云うなよ。朱実ちゃんを口説いてる最中だからさ」
「だってさ」
ムラサキは朱実に目を向けた。今度、お手上げだと云わんばかりなのはムラサキのほうだ。
朱実は戸惑うことしかできない。けれど嫌な気にはならなかった。緊張も鼓動が慌ただしいのも変わりないが、そういう状態にも慣れてきて、ふたりといると自分が普通という日常に溶けこんでいる気がした。
ただ、そんな気分は長続きせず、エレベーターはまもなく一階に到着した。
「岡田さん。ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
「家まで……いや、家の近くまで送るよ。強引に誘ったのはおれだし、無事を確認する責任がある」
「でも、愛結さんが……」
進武の家を出るとき、愛結が、戻ってくるんでしょ、と訊ねていたことを思いだしながら朱実が云いかけると、桔平は「そこは誤解しないでほしい」とさえぎった。
「送ったあとはまたここに戻るよ。今日が終わるにはまだまだ時間がある」
ということは、パーティは夜まで続くのだろう。
「じゃあ駅まで……」
「おれが一緒に車で送ろう。持ってくる」
またもや朱実はさえぎられた。今度そうしたのはムラサキだ。
「いえ」
と、断りかけたが、すでにムラサキは背を向けて外に出ていた。
「あの……」
戸惑って桔平を見上げた。とたん、その顔がクローズアップしたかと思うと、焦点が合わなくなって、くちびるがふわりとした感覚に襲われる。その感触を確かめる間もなく、桔平の顔は離れた。
「嫌だった?」
朱実は無自覚に何度か首を横に振った。
「びっくり……した、だけです」
朱実は目を伏せ、痞えながらつぶやくと、頭の上で吐息が漏れる。笑われているのかおもしろがられているのか、顔を上げる勇気はなかった。
「行こう」
エントランスを出ると、グレーがかった淡いパープルの車が正面に止まった。眼鏡と同じ色で、すぐにムラサキの車だと見当がつく。ラインがなだらかな車は外車だ。桔平は朱実を運転席の後ろに乗せ、自分は車道をまわって助手席に乗りこんだ。外観はともかく、車内は木目調のパネルが使われたり、シートは革張りだったり、朱実でも高級だとわかる仕様だ。物珍しさにあちこち見ていると、桔平から住所を訊ねられた。答えたのはいいが、家が知られてしまうという、すぐさま自分の不注意さに気づいた。
帰路中、桔平が気づかってくれているのか、ムラサキとふたりで話して朱実を放っていた。その間、斜め後ろから桔平を見ては目を逸らすことを繰り返していた。キスとわからないうちに終わったキスははじめてで、何がなんだかわからなかったぶん、夢だったような気がしてくる。
「朱実さん、どの辺?」
小金井市内に入ると、ムラサキが訊ねてきた。無意識にまえを見るとルームミラー越しに目と目が合う。
「あの、駅の近くに止めてもらえますか」
「オーケー」
ムラサキがあっさりと応じてくれたことにも、桔平が家まで送ると云い張らなかったことにもほっとした。
みすぼらしい自分の住み処を見られたくなかった。その気持ち自体が朱実にはふさわしくない。わかっていてもつかの間の夢を選んだ。
車はやがて駅の傍で止まった。
「ありがとうございました」
どういたしまして、と応じるムラサキの言葉に被せるように、桔平が運転席のほうへ上体を乗りだして、また明日、と呼びかけた。
朱実は、なんの気もきかなければ、お喋りすらまともにできていない。それなのに桔平は少しも気にしていない。
うれしいという素直な気持ちがくちびるに現れる。朱実は一礼して二歩さがった。
顔を上げ、車が発進する寸前、ムラサキとまた目が合う。その端正な顔に笑みが浮かぶまでの一瞬、だれ? と内心でつぶやいてしまうほど別人に見えた。