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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第1章 Cross
1.アケミ
モダンなビルのなかにありながら、カフェ・レガーロのドアは押して開けるという手動式だ。ドアの上半分は、六つに分かれた木枠に模様を施したすりガラスが嵌めこまれている。カントリー調で、その利点は温かみと手頃な美食を予感させることだろう。
ドアが開くと、軽やかでもない鈴ベルの音が鳴って、客の出入りを知らせる。
いらっしゃいませ、という男女の声が聞こえ、まえを歩く岡田桔平(おかだきっぺい)が、コーヒー二つ、とカウンターのほうに向かって注文をした。夕方の五時間際(まぎわ)、客は少ない。テーブルはいくつか空いた場所があるが、桔平は指定席でもあるのか、迷う素振りも見せずに奥へ進む。
ふたりは隅っこのテーブルを陣取った。
「わざわざおまえがコーヒーを飲みにいくって云うからどんな店かと思えばここか」
椅子に深く座って背もたれに躰を預けると、高階紫己(たかしなしき)はため息を漏らした。
「来たことあるのか」
紫己が経営する会社C−BOX(シーボックス)≠ヘ、四十階建てのこのビルの三十階から三十四階を占めている。一階にあるこのカフェ店は軽食もあり、ビル内の企業が待ち合わせやケータリングサービスでよく使う。C−BOXも例に漏れないが、紫己自身がここを利用したことはない。
「ない」
「だろうな」
含んだ云い方に聞こえ、紫己は眉間にしわを寄せながら首をひねった。
「ここに何があるんだ?」
「まあ待ってろ」
桔平はにやついた顔で思わせぶりに眉を跳ねあげた。
紫己は自ずとここ最近の桔平の言動を選別して拾いあげ、そして繋いでいく。
「入れ込んでるって云ってた女か?」
桔平は照れるのではなく、おもしろがって笑い声を立てた。
「さすが高階紫己だ。大学在席中に会社起(た)ちあげて、二十八歳という若さでいまや一流、最先端を行くIT企業の最高経営責任者(CEO)ってだけのことはある」
「おだてたってなんの得にもならないぞ。それとも褒め返してほしいのか」
「事実を云ったまでだ。おれは一企業のただの役員だ。経営者とは違う」
桔平は大手の総合インターネットサービス会社LiveNext(リブネクスト)≠フ幹部だ。ただの役員だと謙遜しているが、リブネクストの通例からすると紫己と同じ二十八歳でそうなるのは異例のことだ。
紫己の地位にしろ、桔平の言葉がお世辞ではないと自負はしている。ただ、褒め合ってもそれは自己満足と同じで時間の無駄にしかならず、効率が悪い。紫己は肩をそびやかしてすかした。
「それで、どの女だ?」
「わかると思うけどな」
その発言の根拠はなんなのか。紫己を連れてくるほど、桔平はその女にご執心ということなのか、何気なく店内を見渡した。
カウンターの向こうに五十代くらいの男性マスターが立ち、コーヒーを淹れている。ほかのスタッフはいまのところ女性一人しか見当たらない。しかもこちらに背を向けていて、制服姿では年齢さえも見当がつけられない。
何人のスタッフがいるのだろう、とどうでもいいことを考えながら紫己は視線を桔平に戻した。
「もうすぐ来るさ。今度のパーティにさあ……」
桔平は云いかけて口を噤んだ。その目が紫己から逸れ、なんらかの対象物を探し当てる。
紫己がその視線のさきを追うと、テーブルのすぐ脇に、トレイにコーヒーを携(たずさ)えた若い女性が立った。
すると、なぜか不穏な気配を察知したかのように紫己は無意識下でかまえた。
「お待たせしました」
かすかに一礼した彼女は目を伏せ、桔平、そして紫己のまえへとコーヒーを据えた。そのまま頭を下げ、顔がよく確認できない。
「ごゆっくりどうぞ」
「相変わらず堅苦しいね」
彼女がトレイを引っこめるのを待って桔平は声をかけた。
「これが普通なので……すみません」
彼女はどう穿(うが)っても普通の女性にしか見えない。強(し)いて云えば、桔平がからかうように笑いかけても、大抵の女のように喜んだり媚(こ)びたりしないというのはめずらしい。それどころか困惑しているという気配にも見えた。加えて、桔平にしては対象が若い。横顔の線は細く、二十歳前後の雰囲気だ。
「そこがいいんだ。で、どう? デートの話」
「あ……いえ、そういうことは……」
明らかに彼女は口説かれることに慣れていない。しどろもどろで云いかけ、結局は尻切れで終わった。
「おれとふたりっていうのがだめだって云うんなら、今度、仲間内でパーティやるからさ、そのとき来ればいいよ」
「いえ、わたしは……」
「友だちを見れば、おれがそう悪くない人間だってこと、わかってもらえると思うな」
「岡田さんは悪い人じゃありません。リブネクストの上のほうの人でしょ。悪いはずありません」
紫己は傍聴しながら、悪い人ではないと二度も繰り返されたことがふと気に留まった。もしかしたら彼女が見せる困惑は、断れなくて困っているというよりは、どうしようという戸惑いなのかもしれない。
「よかった。それなら安心して参加できるね。今度の日曜日、休みだって云ってただろう? 家をいきなり知られるのも不安だろうから、このビルの西口で待ち合わせだ。時間は十一時。待ってるからね」
桔平は、エリートの仮面をまるっきり取っ払って人懐っこい様を装っている。彼女が口を挟むまもなく強引に話を進めた。
「あの……」
いまははっきり困惑だろう。ただ、やはり彼女は返事をためらい、その隙に――
「朱実(あけみ)ちゃん、こっちのコーヒー頼むよ」
と、カウンターからマスターが声をかける。
「あ、はい」
彼女は後ろを振り向いて慌てて返事をすると、桔平に向き直って頭を下げる。その間に、マスターが桔平に向かってウィンクをしてみせた。桔平の軟派に加勢をしたのだろう。
いつもなら興じるところだが、紫己はこのとき違うことに気を取られた。
アケミ?
内心でつぶやきながら、紫己は彼女に目を戻した。その声が聞こえたかのように彼女は、うつむいた顔でも横顔でもなく、正面から紫己のほうを向いた。
桔平に対してと同じように一礼した彼女はすぐに席を離れたから、それは一瞬のことだ。
だが、その一瞬にして紫己の過去は否応なく掘り返された。
視力が悪いわけでもないのに勤務中は必ずかけている眼鏡を外し、彼女の姿を追いたくなる衝動に駆られた。
ただ、パープルグレーの色付き眼鏡が幻影を見せたのか。
「ムラサキ、どうだ?」
桔平は、大学時代に定着した呼び名で問いかける。紫己はゆっくりと首をひねり、平常心に戻る時間を稼いだ。
いや、動揺しているわけではない。朱実を最後に見たのはもう何年もまえ――朱実が小学生だったときだ。何も確かではない。下の名前が同じで、雰囲気が似ているだけだ。
「どうだって、何が?」
紫己が問い返すと、桔平は薄く笑いながら首を横に振った。
「なんだ、おまえの好みかと思ったんだけどな」
「おれの?」
紫己は顔をしかめた。やはり衝撃はあって、桔平になんらかの異変を感じとらせてしまったのか。
「ああ。けど勘違いだったらしい。なあ、ムラサキ、おもしろいと思わないか」
「何が」
「おれと、おれのステータスをもってしても彼女は乗ってこない」
「つまり、狩猟本能を刺激されたってことか」
桔平は肩をすくめて嫌らしくニタリとして返事をかわした。
いまの桔平に企業人としての顔は皆無で、大学時代のように軟派と化している。中性的で、整いながら童顔という、彼からは親しみやすい印象を受けるだろう。トークスキルも申し分なく、女にはもてる。
落とせない女はいないと思っている節があり、彼女は桔平の目新しいターゲットなのだろう。あるいは。
「本気なのか?」
紫己が訊ねると桔平は可笑しそうに笑う。肯定か否定か、判断はつかない。
「どう思う?」
「いいんじゃないか」
紫己は肩をそびやかし、桔平はにやりと口を歪める。
「じゃあ今度のパーティ、参加しろよ。ムラサキは来ないのかって、静華(しずか)がうるさい」
「考えておく」
店を出るまで、露骨に眺めるわけにもいかず、彼女の顔を再び確認することはできなかった。