NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

終章 ツインソウル〜愛の存在証明〜

#10

    *

 水谷家のリビングはいつもと様相が違う。ソファは取っ払われ、長方形のローテーブルが二つ、長辺をくっつけて並べられている。
 環和と美野がふたりで配膳をし、最後に響生が冷えたビールをテーブルに置いたところで――
「さあ、そろそろ始めましょう」
 と、美帆子が号令をかけた。
 そのときインターホンが鳴って美野が応対するものの、美帆子はセールスだと思っているのか我関せずで、「お母さんはここよ。友樹くんはそこね」と広島からこの日のために出てきた祖母を先頭に同席者たちに座る場所を指示している。

「環和、お料理一人分、多くない?」
 美帆子が怪訝そうに訊ねた。
「あー、それ、美野さんにも座ってもらおうかと思って」
 気づかなければいいと思っていたが、気づかないわけがなく、環和は予(あらかじ)め美野と打ち合わせしていたとおりの返事をした。美野のぶんは、あとからすぐ出せるように折詰めにして別にちゃんと取ってある。
「あら、気が利くわね」
 最近、結婚して妻になることがどういうことかわかってきた環和にとって、これくらいの配慮はもう朝飯前だが、美帆子にいちいち云ってもしかたがない。環和は肩をすくめ、すると美帆子の関心は早くも環和から気が逸れた。
 響生に視線を向けると、こっちを注視していたらしく目が合った。美帆子に対する若干うんざりした環和の心情を読みとっていたのか、口角が片方だけ上がって可笑しそうにした。

 環和と響生がアイコンタクトをとっているさなか、美帆子が今日の主役の横に行くと――
「あ、それ、わたしが……」
「だめよ。だいたい、あなたのせいで十日遅れになったんだから。日程を合わせてあげただけでもありがたいって思ってくれなくちゃ」
 恵が美帆子を引き止め、美帆子がすぐさま反論をする。
 大の大人の子供っぽい張り合いを見て、祖母が首をすくめて環和を見やった。いつもこうなの? という無言の問いに、環和はおどけた笑みで答えた。
「そうじゃなくて、この儀式は男がやるもので、しかも年長といったらおれだ」
 緩慢に口を挟んだのは響生だ。時間稼ぎにひと役買ってくれ、その甲斐あって――
「いや、その役目は私だな」
 と、待っていたゲストがタイミングよく現れた。

 大げさなため息が耳に付く。最後に到着したゲスト、秀朗を見てそうするのは一人しかいない。
「あなた、来たの」
「遅ればせながら参加させてもらうよ。初孫で、しかもたった一人の孫だ」
 いかにも迷惑そうな美帆子の云い様にも慣れたもので、秀朗はすまして応戦した。
「パパ、来てくれてありがとう。響生の隣に座って」
 美帆子の責めた眼差しを感じつつ、環和は気づかないふりをして秀朗を招いた。
「娘の招待だ。来なくてどうする。こっちこそ礼を云う。こういう儀式でも困ったことでも、何かあればこれからも迷わず連絡をしてほしい」
「うん。あ――」
 ――ありがとうと続けようとした環和は、首をひねった秀朗の、水臭いことは無しだといった眼差しに合って口を噤んだ。そのかわりに互いに笑みを交わした。
「じゃあ、そこね」
「ああ」

 そうしてそれぞれ挨拶が交わされている間に美野の席を準備して、環和は響生の左隣に座った。
 環和の左側には美帆子がいて、何気なく見るとあからさまに咎めた気配を放ってくる。さすがにここでがみがみと叱るふうではなく、環和はさり気なく視線を外しながら反対側にいる響生へと目を向けた。すると、やはり目が合い、響生もまた何か云いたそうにしている。
 秀朗が来ることを知らなかったのは、提案すれば反対しそうな美帆子だけだ。響生に責められる理由はない。ただし、もしかしたらと思い当たる節はある。
「まずは乾杯でしょ」
 あることないことを責められる覚悟は後回しにして、響生を促すと何かを振り払うように一度だけ首を振り、そしてうなずいた。

 響生がビール瓶を持ったのを合図にして、銘々でビールを注ぎ渡した。音頭を取るのは暗黙の了解で美帆子だ。
「それじゃ、始めましょう。今日は安西和生(かずき)の百日(ももか)祝いに集まってくれてありがとう。和生がすくすくと健康に、そして一生食べ物に困らない成功者になるように願いを込めて、乾杯」
 わざわざ『成功者』と云うあたり、いかにも美帆子らしい。そこはここにいるだれもが承知で、呆れること半分、興じた雰囲気だ。
 乾杯、とグラスを合わせると同時に和生が、あー、と主役は自分だと自己主張するかのように声をあげた。
 和生は意味不明のたった一語で場を和ませる。
「まだ三カ月なのに、ちゃんと自分が主役だってわかってるのね。将来有望だわ」
 と、親ばかならぬ、祖母ばかというべき美帆子の発言に笑い声が立った。

 和生が生まれたのは予定日より二週間早く、二月七日だった。およそ二五〇〇グラムと出だしは少し遅れ気味だったけれど、元気で食欲も旺盛な男の子だ。一年もしないうちにほかの子に追いつくだろう。
 響生との間に置いた籠の中におさまっている和生を抱き起こそうとすると、笑顔を見せて手足をばたばたとさせる。和生の素直な反応は素直に可愛いと思う。子育ては初体験ということもあって、心配したり眠れなくて苛々したり疲れたり、可愛いですむことばかりではないけれど、こういう瞬間があって環和も報われるのだ。
 いまは五月も終わりかけ、暑い日もあるほど温かくなって、和生が寒くないだろうかという心配はしなくてすんでいる。生後二カ月の頃、ぐずっていた理由があまりに着込ませていたせいだとわかったのは、微妙な気温が続いた春先のことだ。響生は、和生が背中に汗を掻いていると気づき、環和はそう云われてはじめて不快感からぐずっていたのだとわかったのだ。

 和生が生まれてから響生も急速に父親らしくなっている。いや、環和よりも断然、余裕があって“らしく”という以上にできすぎた感はある。たぶん、逆子だったために出産が帝王切開になって、環和が思うように動けなかったぶん響生が世話をやいていたせいだ。
 和生が生まれるまでにもいろんなことはあった。

 今日はなんのわだかまりもなく、招待したことにお礼まで云った秀朗は、環和と響生、ふたりそろって仕事中に訪ねたとき、環和のおなかを見るなり訪問の理由をおよそ察したらしく、なんとも云い様のない表情をしていた。
 憮然としつつ呆れ果てていることまでは読みとれ、それがどう発展するのか、環和はとっさに『響生を殴らないで』と口走った。
 秀朗は渋い顔で響生を見やり、『当然、自分が何をしたかわかったうえで責任は取るんだろうな』と詰め寄るように責めた。
 もちろんです、と響生が秀朗に渡したのは写真集と婚姻届けだ。美帆子の名が綴られている欄に目を留めると、秀朗は再生中のビデオを一時停止したように静止していた。待ちくたびれるほど時間がたったあと、秀朗は一時停止を解除して大きく息をついた。
『保証人になれと?』
 秀朗は呆れきり、なお且つあきらめた様子で響生に問うた。
『環和を守りたいと思っていただけるのならお願いします』
 響生は断りにくい云い分で秀朗に迫った。
『君のずうずうしさには呆れるよ』と秀朗は鼻先で笑い、そうしてまた一つため息をつくとこう云った。
『考えれば考えるほど心境は複雑だ。それなら、いっそ考えないことのほうがらくなんだよ。それが人間の賢さだろう。私は運命という言葉を逃げ道だと思っている。使ったことはないが、それがいい意味でも悪い意味でも、君と環和にはしっくりくるな』
 特に負担にしかならない必要性皆無の思考は、確かに不毛で時間の無駄遣いにしかならない。秀朗の言葉は環和をらくにしてくれた。

 友樹もまた環和のおなかを見てびっくりしていた。
『何があったか知りませんけど、環和さんがいないことで先生から覇気が欠けるんなら、いてもらわないと困ります』
 と、あくまで響生のことに重きを置いた恋敵のような発言をしたすえ、響生にとって不必要な存在にならないよう精々努力するべきだという挑発も含んでいた。

 そして恵はふたりが落ち着いたことを喜んでくれたものの、環和と響生のどちらにとっても、小姑みたいにかまってくるようになった。
 さっき、お食い初(ぞ)めでだれが和生に食べさせるか、美帆子と恵のお箸の争奪戦が始まりそうだったことも、小姑根性――といえば恵は立腹するかもしれないが、あまり大げさではなく――その延長だろう。
 そんなふうに、恵も友樹も、そして美野も、本当の環和と響生の関係は知らないけれど、今日ここにそろっただれもと家族のような身内感覚があって、それは即ち、血の繋がりなど関係ないという証明のようで、環和は後ろめたさもなく幸せだと感じさせられている。

NEXTBACKDOOR