NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

終章 ツインソウル〜愛の存在証明〜

#9

「美野さん、帰しちゃったのよね。夜ごはん、どうしようかしら」
 遠回しに自分の要求を人に呑ませるのは美帆子の最大の特技だろう。
 美野をまた呼べばすむ話だ。それをさも困ったふうに云い、人を思いどおりにしたがる。そうやって美帆子は自分の存在価値を確かめているのかもしれない。
「普通は、実家帰りの娘に母親がごはん作ってもてなすんじゃない? たまにはゆっくりして、とか」
「いつもゆっくりしてるじゃない。そうなんでしょ?」
 と云われればぐうの音も出ない。
 あまつさえ、先回りして『ありがとう』と云われたら、ため息しか出ない。
「里帰り出産してごはん作りなんてする気ないから」
「美野さんがいるから大丈夫よ」
 念のために皮肉を込めて云ってみると、あっさりとかわされた。
 そうして、夕ごはんの支度に取りかかる時間まで、環和は響生を連れて自分の部屋に引っこむことにした。持って出るものを整理したいからという環和の言葉が口実であることは筒抜けで、ごゆっくり、と美帆子は手で払いのけるしぐさをしつつ嫌みったらしく環和たちを追い払った。

「どうかした?」
 環和のあとから来ていた響生は入り口に佇んだまま、階段を軸にして環和の部屋の反対側を眺めている。
 そして、環和はその横顔を眺める。もともとシャープな感じだったが、さらに骨張って見える。少し痩せたのかもしれない。
 結婚するのだと単純に喜んで幸せだと感じていたことが、響生と美帆子が会った瞬間に不安や怖れに侵されて、そして驚愕の宣告に粉砕された。それでもまたふたりでいられるようになったことが、うれしくて、そしてやはり俄には信じられないという不安も同居している。
「響生?」
「ああ」
 しばらく待っていたが、響生の気を引く何かに取り込まれて消えるんじゃないかという心もとなさを覚え、たまらず環和が声をかけて、響生はやっと中に入ってドアを閉めた。
 響生は環和を見下ろして、曖昧な微笑を浮かべた。さみしさ混じりの郷愁。そんなふうに感じながら、響生の瞳にちゃんと自分が映っていることを確かめられて、環和は安堵した。同時に、焦れったいようなうれしさも伴う。

「この家は、外観は手を加えられてるけど、内装はメンテナンスされてるだけであまり変わらないみたいだ。おれがここに通っていたのはほんの数カ月……五カ月にも満たなかったと思う。それでも憶えてるもんだな。泊まるときにおれに与えられていたのは反対側の奥の部屋だ」
 その言葉を聞き、環和はあらためて自分よりも響生のほうがずっとさきにこの場所に存在したのだと思うと不思議な気がした。複雑な気持ちも当然ある。
 美帆子のしたことは褒められたことじゃない。けれど、環和と響生と美帆子と、否定するだけではおさまらない、メビウスの帯のように堂々巡りの関係を持っている。飽きれるだけで気にならない。そんなふうに思える日が来ることを期待するしかない。

「時間の長さなんて関係なくて……響生はここに希望を見ていたんだよね? また、疑似でも家族ができたって。だから憶えてる。そうじゃない?」
「そうだ。時間が短いか長いかなんて関係ない。おまえといたのは正味半年もない。それなのに、ずっと一緒に生きてきたような感覚になるのはなぜなんだろうな」
「わたしは……離れていたときも、思いだせばつらいとわかっていても響生とのことを考えてた。そうやって、一緒にいるときよりもずっとずっと長い時間、わたしは響生と一緒にいたんだと思う」
「そうだな」
 響生はおもしろがったふうに薄く笑うと、部屋の中央にある丸テーブルを指差しながら、座れよ、と環和を促した。
 環和は部屋の中央にあるふわふわしたカーペットの上に座り、響生は少し間を空けて、持っていたトートバッグを床に置き、腰をおろした。

「おなかがおっきくなってから、床に座ると動くのがよけいに億劫になってる。赤ちゃんはまだ一キロもないと思うんだけど三キロも体重増えてるし、おへそも伸びてきてる。あと三カ月たって生まれる頃になればもっとすごくなるし、見られるのは恥ずかしいかも」
「堂々と裸でうろうろしてたくせに、いまさら恥ずかしいはないだろう。それよりも、おれはもったいないことをしたって思う」
「もったいないって?」
「最初で最後だ。赤ん坊が成長して、おまえが変わっていく過程を、写真じゃなくてもおれの目に焼きつけておきたかった」
「こんなふうに目立つくらいおなかが出てきたのは九月の終わりからだし、いまからのほうがずっと変化していくよ。五カ月くらいまでなら、くびれがなくなったり胸が大きくなったり、普通に太ったって感じだったし」
 環和がおどけて首をすくめると、響生は首を横に振った。

「そうじゃない。環和は自分を否定してただろう。それを隠すのにとんがって攻撃的に見せてた。けどいまは、そういう強がりじゃなくて本当に強さが見える。母親になるってそういうことなんだろうな。そんな変化が傍で見られなかったことが残念だって云ってる」
 どんなふうに環和が見えているか、響生の言葉には驚きつつも自分で考えて行動できるようになったことは確かだ。どうしても美帆子がだめだと云えば、云いなりになっていた頃とは違う。響生の赤ちゃんを守りたかった。その気持ちがあったからできたことだ。
「逆に、離れてたからわかるのかも。いま響生に云われるまで自覚なかったし。それか、離れていたから強くなれたかもしれない。家を出て、いろんなこと独りで考えなくちゃならなくなったから。恵さんがずっといていいって云ってくれて、甘えてた部分がまったくないわけじゃないけど」
 響生はうなずき、それからため息をついた。吐息に紛れこんでいるのは情けなさと安堵とちょっとしたさみしさみたいなものだろうか。

「恵には功労賞やるべきだな」
「あ、恵さんにも連絡しておかないと……」
「まだ仕事中だろう。定時をすぎたらおれが電話する」
「びっくりするよね。恵さん、わたしと赤ちゃんがいてくれたら家族がいるみたいって云ってたから……さみしくならない?」
「環和とのことでおれを焚きつけていたのは恵だ。いることがあたりまえになっていれば、当然さみしくないはずはないけどな」
 恵のことだけではない、響生はおそらく自分のことに鑑みて云ったのだろう。
 環和とて、響生と会う以前は響生がいなくても普通に生きていけていたのに、響生の存在があたりまえになると、不在という喪失感は底のない空間を落ちていくようだった。
「わたしも恵さんから会うべきだって急かされてた。恵さんが結婚するはずだった人のことを話してくれたの。それで……響生に会いたくてたまらなくなった。でも、響生は……」
 環和が云い淀むと、響生はわかっていると云ったふうにうなずいた。

「おれは立ち向かわずに、拒んでばかりいたからな。きれい事を云えば、会うことはなくてもそれが環和のためで、父親としてあるべき節制だった。本音を云えば、父親でいられない自分を抑制しなきゃいけない苦痛を避けた。……矛盾してるな」
 自嘲めいて響生は笑う。
 環和は否定するように首を横に振った。
「それだけわたしのことをちゃんと考えてくれてたってことだから……。それに、いまこうなって、わたしは単純にうれしいって思えるの」
 響生は納得いかないといった面持ちで首をひねった。
「ちゃんと考えれば考えるほどおれは後悔する」
「それは過去のことを考えたらってことでしょ? 過去のことは難しく考えたくない。変えられないから」
「単純だな」
「それがわたし。響生はわたしを見てると大人でいることがバカらしくなるって云ってたよね? わたしといるときは大人にならないで。単純に幸せだって思うほうがずっとお得な感じがしない?」
「確かに。子供っぽい発言も役に立つらしい」
「強くなったって、さっきは云ったのに」
「大人だからといって強いわけじゃない」

 もっともだ。年を重ねるにつれて強くなるというのなら、それほどらくなことはない。大人然としていようと努力してもままならないことはたくさんある。いまの響生の言葉で環和は話しやすくなった。溜めていた息を吐いて口を開いた。
「ホント云うと、ママのことも恵さんのことも嫉妬してる。でも、恵さんにはお世話になって応援してもらって、複雑だけどこんなお姉ちゃんがいてくれたらいいなって思うし、ママがわたしを生んでくれなかったら響生とも会うことはなくて、だったら響生はわたしのパパじゃなくちゃダメで……複雑」
「複雑なことばかりだ」
「だからよけいに単純でいたい。嫉妬なんてしたくない」
「おれは、おまえが相手にしてないとわかっていても、ちょっかいを出す奴がいれば自分で呆れるくらい嫉妬する。だからお互いさまだ」
「ちょっかいって、だれかそういう人いた?」
 響生は呆れたように、そして気に喰わなそうに顔をしかめた。
「琴吹勇はあからさまだったはずだ。それに友樹も」
 そう云われて、勇は確かにちょっかいを出していたように見えただろうと思ったが、友樹の名前が出たことにはさすがに環和はびっくりした。

「友樹くんて響生が好きなんだよ?」
「はっ。意味が違うだろう。とにかく、そういうことだ。おれの前で男と接するときは気をつけておくべきだな」
 暴君まがいの忠告に環和は目を丸くする。次には吹きだした。
「うれしいかも」
 鼻先で笑ってかわし、そうして響生は生真面目に戻った。
「環和、水谷専務のことだ」
「パパが……じゃなくて……」
 他人行儀に――いや、れっきとした他人なのだけれど、パパと呼ぶことに戸惑って環和はごまかすように首をかしげた。そんな環和の心境をわかって、それ以上はいいと云うように響生はうなずいた。

「こうなって水谷専務に会いにいって、おれが父親だったと打ち明けた。おまえ、結婚するって報告したんだろう? それで想像はついてたみたいだけどな。そのとき、娘のかわりだと云って殴られた」
「殴られたって……」
「問題はそこじゃないだろう。娘のかわりにって水谷専務は云った。秀朗さんも、おれや環和のようにショックを受けただろうし、離婚して距離を置く間に、会ってもどう接していいかわからなくなってそのままになったかもしれない。世間を騒がせるようなことが起きたとしても、水谷専務は娘だと通してくれる。おまえはずっとそうしてきたように“パパ”と呼べばいい」

 環和は秀朗から呼びだされたときのことを思いだした。
 秀朗は写真のことを脅迫だと認識していたが、無関係だと突っぱねることはなかった。父親ではないと聞かされて、それは迷惑をかけられたくないから打ち明けたのだろうと思っていた。秀朗はけれど、困ったことはないか、とまず訊ねた。あのとき、もし環和の父親が響生だと気づいたとしたら、結婚すると聞いた秀朗は血の繋がった父親ではないことを云わざるを得なかったのかもしれない。

「……うん。パパはまた会ってくれると思う?」
「というより、結婚の報告はするべきだ。相当の覚悟は必要になる」
「……殴られる?」
「どっちをかばう?」
「殴られてほしくない! 目の前で……殴ってほしくもないけど」
 付け加えると、響生はわざとか本気か責めるように環和を見やる。
「やっぱり環和はファザコンだ」
「わたしは究極のファザコンだって思わない? 無意識でホントのパパを探し当てて恋いしてる」
 完全に開き直った環和の発言に、横目で睨むようにしていた響生は笑いだした。
「そうだな」
「そう! ファザコンが絶対にできない夢を叶えてるんだから。……本当に一緒にいられるよね?」
 云っているうちに、涙もろくなった環和の目が急激に潤んでいった。響生がどんな表情をしているかもわからない。ただ――
「ああ」
 と答えた声には笑みが滲んでいた。

 響生はトートバッグを開いて中から大判の本を取りだした。
 環和はティッシュを取って涙を拭い、見てみると“ツインソウル”の写真集だ。
「任せてもらうって云ったモデルの件だ。おまえを晒すことになるけど、なるべく特定できないように隠した」
「見た。恵さんから見せてもらったの」
 響生は思い当たったような面持ちになり、薄らと笑った。
「そうだったな。どうだ、おれの腕は? きれいに撮れてるはずだ」
「もとがいいから!」
 響生は吹くように、且つやられたといったように笑った。
「そうだ」
「わたしの腕もよかったみたい」
「おれの遺伝だな」
「そうかも。写真集、ずっと見てるよって云ってる感じ。ストーカーだったら怖いけど、恵さんはモデルだけじゃなくて撮ってる人の存在が見えて語り合ってるみたいって云ってた。だから独りで写ってる写真にも見えない魂がもう一つ寄り添ってる感じ? ツインソウルってタイトル、そういう意味もあるのかなって思った。最後の二枚はちゃんとふたり見えてるけど」

 響生は微笑を浮かべ、環和の頬に手を当て、涙を拭うようなしぐさをする。
「上出来だ」
「自画自賛?」
「魂込めた。これに関しては流通には乗せるけど大々的な宣伝はしないし、人の評価なんてどうでもいい。環和がわかってくれれば」
 と肩をすくめ、響生は「最後のページを開けてみろ」と環和を促した。
 環和は写真集を手に取って、云われたとおり最後のページを開けようとすると、そうするまでもなく自ずとそこが引っかかるように開いた。環和と響生の半分ずつの顔の間に紙が挟まっている。四つ折りの紙を取りだして開くと、環和は目を見開く。
「響生……」
 手にした婚姻届けにはすでに響生の名がかかれていた。

「環和を探し始めて、まだ病院だって思いつかないうちに書いた。願掛けだ。環和が引き寄せられて現れるんじゃないかって……」
 女々しいな、と響生は肩をそびやかした。
「そんなことない。全然ない!」
 環和は意気込んで云い、響生は可笑しそうにくちびるを歪めた。続けて――
「わたしも書いていい?」
 時間が立てばサインが消えてしまう。まるでそんな魔法がかけられているかのように環和は勢いこんだ。
「ほかにだれが書くんだ」
 呆れ顔でいながら、ペンを差しだした響生は環和がサインするのを見守り、終わったときには並んだふたりの名を不自然なくらい長く見つめていた。環和もまたそうで、これからずっと一緒にいられる、そんなことを噛みしめた。

「響生、証人てあるけど?」
「一人は当然、美帆子さんだ。もし断られたら、今日の夕食はお預けだって援護してくれ」
「今日?」
 目を丸くした環和を見て、響生は首をかしげた。異議があるのか、と無言の問いかけに、すぐに環和は笑顔で答えた。
「子供のためにも届け出るのは早いうちがいい」
「うん」
「赤ん坊は大丈夫か」
「大丈夫、順調だって」
「おまえは?」
「わたしも大丈夫。響生は?」
「おれ? 大丈夫だ」
 なぜおれまで? とおもしろがった様で響生は応じたが、環和は異議ありと今度は反抗的に顎を上向けた。

「真面目に訊いてるんだけど。心配なの。響生とは歳が離れてるから、そのぶん長生きしてもらわないとわたしがさみしい」
「年寄り扱いか?」
「オジサン扱いしてる。本当は煙草もよくないって思うけど、響生から煙草の薫りがするのは好き」
「だったら吸わせろ」
「でも吸いすぎないって約束して」
「おまえが約束してくれたら」
 響生は条件を出した。しかも目的不明の約束を迫ってきて、環和は首をかしげた。
「意味のわからない約束はしない主義」
「主義も何も、普通にそういう約束を交わすな」
「響生が云う? さっき何を約束するか云ってくれてないのに!」
 響生が百も承知といった笑みを見せたことからすれば、わざと約束の目的を云わなかったのだ。

「響生」
 覗きこむように首をかしげると、ふいに響生が前のめりになって、そして環和の肩を抱きこむようにして引き寄せた。環和はされるがまま――違う、むしろ自分から進んでそうされた。広い肩に顎を預け、背中に手をまわし、大きくなったおなかまで響生の躰に環和はしっくりとおさまった。
「やっとくっつけた。ずっとこうしてほしいと思ったのに響生は知らないふりしてるから」
「知らないふりができるなら苦労はしない」
「苦労してる?」
「させられてばかりだ」
「退屈したり飽きたりしないですむよ、たぶん」
「簡単に云うな。たぶん、おれの干渉はおまえのお母さん並みにひどくなる。おれと結婚したことを後悔するかもな」
「そんなはずない!」
「約束成立だ」
「……そこ?」
「そこだ。子供のためにって口実にしたけど、本当はおれが早く環和に手もとにいてほしくてたまらないんだ」
「同じだから」
「ああ。環和、結婚しよう」
 いまさらのプロポーズに環和はくすくす笑う。そうしながらやはり涙がこぼれる。
「響生と結婚する。一生、そうしてるって誓う」
「……ありがとう、環和」
 響生はたったそれだけのことを詰まらせたようにつぶやいた。

NEXTBACKDOOR