NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

終章 ツインソウル〜愛の存在証明〜

#6

    *

 なんの問題もなく終えた妊娠七か月の定期検診にほっとしながら、環和は病院を出た。
 今日は天気がよくてぽかぽかだ。コートは羽織らず腕にかけたまま、花壇に囲まれた玄関先のアプローチを歩いていく。
 花壇にはプリムラやビオラが色とりどりで可愛く咲いている。これまで、花をもらえばきれいとかうれしいとか思ったけれど、こんなふうに通りすがりに見る花をあまり気に留めたことはなかった。最近になって目につくようになったのは、赤ちゃんがいるせいだろうか。
 将来を描くとき――そのときだけは響生の家で響生と環和と、そして赤ちゃんと、家族そろって暮らしていて、そこには季節を感じられるような花が咲き、水やりだったり、子供と花の成長を比べたり、家族で分かち合える時間を想像してしまう。

 会いたい。恵の恋の結末を思えば、その気持ちは日増しに募る。
 けれど、二度の拒絶が環和をとどめている。解放してくれ、と、幸せになれ、と、それらの突き放した言葉がどんな思いで発せられたのか、たぶんわかっている。一緒にいたいと同じ気持ちでいるのなら、その気持ちが強ければ強いほど、会えば離れがたくて苦しくてつらい。だから、環和が会いたいと訴えたとしても、響生の感情ではなく決意が揺るがないような気がした。
 心もとなくついたため息はふるえ、そうするとおなかの中で、自分に気づいてというように赤ちゃんがうごめく。
「大丈夫」
 環和は独り言でありながら、けっして独り言でない言葉を囁いた。
 赤ちゃんがいることで心強くいられる。そんなことを再確認しながら顔を上げたそのとき。
「環和」
 環和は耳を疑うだけでなく、目をも疑った。

 足を止めて立ち尽くした環和とは反対に、立っていた場所から歩きだした響生はどんどん近づいてくる。
 襟を立てた薄手のコートをひるがえしながらやってくる凛とした姿も、しっかりと地を踏む歩き方も変わりない。
 会わなかったのは三カ月、変わってしまうにはそもそも時間が足りないのだろうけれど、変わらない響生と会えたことを奇蹟に思えるくらい、さみしくて虚しくてたまらない時間だった。
 ただ、目の前に来て立ち止まった響生の顔は陰りを帯びている。

 ――ひびき。
 名を呼んだはずがくちびるが紡ぐだけで、かすれ声にもならない。
 響生の右手が上がって、環和の左の頬に添った。
「喉風邪をひいてるわけじゃないだろう?」
 かすかに笑みを浮かべた響生を見上げながら環和は首を横に振った。
 響生は環和を見つめ、それから下へとたどるようにおもむろに目を伏せた。一点を目に焼きつけるようにじっと見たあと、ゆっくりと視線を上げてきて、響生は再び目と目を合わせる。

「変わったな」
 環和と響生は正反対のことを思っている。それが可笑しくて思いがけず環和は笑ってしまう。
「わたしは変わってないって思ったのに」
 そう云った直後、環和の視界は濡れて滲んでいった。
「大丈夫だ」
 最後に会ったとき、響生は同じ言葉を吐いた。けれどいま、耳に届いた言葉が心底に伝わったとき、それはまったく違う意味の響きを持っていた。
 何も話さなくても溢れた涙は響生がここにいる意味を直感している。いや、響生が環和の前に現れた時点でその意味は一つしかない。
「ほんと?」
 それは確かめるための問いかけではなく、確かめ合うための、『大丈夫だ』と云う響生への環和からの答えだった。
 潤んだ視界の向こうで響生の顔から陰りが薄れていくように感じた。そうして、響生の指先が左目の涙を拭ったとたん視界は晴れて、同時に響生がふっと吐息をこぼしながら笑う。陰りは消えてなくなった。

「家出してるとは思ってなかった」
 赤ちゃんを産みたかったから。そう云いかけて環和は呑みこんだ。産みたいというのは環和の独り善がりでわがままだ。リスクや条理を考えれば産んではいけない。生まれてくる赤ちゃんも出生を知れば、そんな重荷はいらなかったと嘆いたり恨んだりするかもしれない。
「……どうしてここだってわかったの?」
 響生は肩をそびやかす。
「逆に、ここしかないって思った。人を雇って見張らせてた」
「……怒ってない?」
「怒る? なぜ?」
「赤ちゃんのこと、産むって決めてたから。響生にサインをもらいに行ったときも。嘘を吐いてた」
「いまはわかってる。だから慰謝料を要求したんだろう」
 響生はちゃんと環和のことをわかっている。
 写真集をつくるために、追わずにはいられないというタイトルそのまま環和を撮っていたように、響生はいつも環和のことを見ている。
「産んでいい?」
「だから、ここしかないって思った時点で、おれはそう望んでるってことだ。違うか?」
 込みあげてくる気持ちを名づけるのならひとつしかなく、環和はいっぱいいっぱいに溢れそうになる。答えるには声をあげて泣きそうで、うなずくのが精いっぱいだった。
 響生はほっと落ち着いたように深くため息を吐くと、しっかりとうなずき返して環和を力づけた。

「寒くないか」
 響生は腕からコートを取りあげて手を後ろに回し、環和の肩にかける。
「赤ちゃんがいるから、たぶんあったかいの」
「……不公平だな」
 環和はコートに腕を通し、独り言のようにつぶやいた響生を首をかしげて見る。響生は口を歪め、そうやって何かをごまかしているようにも見えた。
「不公平って?」
「なんでもない。だれかに世話になってるって訊いた。だれのところにいる?」
「……恵さんのところ」
 ためらったのち答えると、響生は絶句した気配で環和を見つめたまま静止する。やがて、力尽きたように笑った。
「灯台下暗しだな。この十日、おれがどんな気持ちで知らせを待っていたと思う?」
「恵さんのことは信用できるって響生が云ったから。だれかを頼るのに、恵さんしか思い浮かばなかった。それに……恵さんの口から響生の名が出るとつらくなったけど、会えなくても恵さんといたら響生と繋がっていられるような気がしたの」
 環和の心底まで貫きそうな眼差しで響生はしばらく微動だにしなかった。

「行こう」
 何かをこらえるように歯を喰い縛っていたが、やがてこわばりを解いた響生は環和の手を取って歩き始めた。
「どこに?」
 帰ろうではなく、行こうという言葉に意味があるように感じた。
「美帆子さんのところだ」
 思わず環和は立ち止まり、響生もまたわかっていたかのようにすぐさま足を止める。
「お母さんはおれが環和を探すことを認めた。それ以上に、止められないことをわかってる。もしも、まだ止められると思ってるなら改めてもらうしかない。娘を完全に手放したくないなら。おれはその覚悟でいる」
 響生は首をひねり、環和の応えを促した。
「改めてくれないなら……駆け落ちして」
「もうその一歩を踏みだしてる」
 泣き笑いという、自分の器用さを環和はいまはじめて知った。響生が環和の手をぎゅっと握りしめる。
「行こう」
「うん」

NEXTBACKDOOR