NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

終章 ツインソウル〜愛の存在証明〜

#5

    *

 LDKの部屋に足音が聞こえるまで、恵が帰ってきたことに気づかなかった。ダイニングテーブルでパソコンに向かっていた環和は顔を上げて振り向いた。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
「ただいま」
「パーティはどうでした?」
「頬の筋肉が凝りそうな感じよ」
 恵が頬に人差し指を当ててひくひくさせ、環和はぷっと吹いた。
 クライアントの創立記念日でレセプションパーティに出席したらしいが、恵は余裕で楽しんでいるかと思いきや、愛想笑いという試練があったようだ。

 椅子にバッグと紙袋を置いた恵はコートを脱ぎ始める。十一月も半ばをすぎて厚手のコートが必要になった。朝、仕事に出かけたときと違って、コートの下はフォーマルな恰好で、恵はほぼ引っつめたヘアスタイルが多いのにいまは長い髪をサイドに寄せて艶っぽさがある。
「コーヒー淹れるね」
「ありがとう」
 恵は、キッチンに行った環和と入れ替わりに、環和が座っていた場所にまわるとパソコンを覗きこんだ。スクロールしてまたもとに戻すと、恵は環和を振り向いた。
「画像処理の勉強がこういうふうに発展するもの?」
 と、恵は可笑しそうに首をかしげた。感心したようでもある。

「いまは妊娠中でファッションが限定されちゃうし、だから欲求不満の結果かも。赤ちゃんにはファッションのほうが大事なのって責められそうだけど」
 それとこれとは別だし、と環和はコーヒーメーカーに水を注いでから肩をすくめた。
 画像処理を学ぶのも道半ばどころかまだ初歩段階だが、環和は一つお遊びを見いだしていた。ネット上の服の画像を借りて、それぞれのパーツを切り抜いてコーディネートを楽しむのだ。
「これ、いいんじゃない?」
「え、『いい』って?」
「例えば、クローゼットの管理アプリとかどう? どれを着ていくか、シミュレーションできたり、組み合わせがおかしくないか客観的に見れたり、あとは……あ、たまたま街を歩いてて欲しいっていう服に出会ったときに手持ちと合わせてみたり、似たようなのを持ってないか無駄遣いを防いだり、簡単にチェックできるでしょ」
「……いま恵さんの頭の中を覗いてみたくなった」
「何それ」
 今度は恵が吹きだす。
「恵さん、次から次にアイデア浮かぶみたいだから。アプリの開発ってでも難しそうだから、独りで楽しむ」
「わたしが開発者を当たってみてもいい?」
「本当に? 全然かまわないけど」
 目を丸くした環和を見ておもしろがったかと思うと、恵は急に真剣な面持ちになった。

「環和ちゃん、こういうことするほどファッション好きなのに、グラフィックデザインの勉強してるのって響生のためでしょ」
 普通なら話題にしないよう気を遣うところを、恵は反対側から気を遣う人で遠慮がない。ただ、最初の頃の近づきにくい印象が嘘のように、恵のことは信用していて環和も嫌な気にはならない。
 環和はシュガーとミルクの入った陶器の入れ物を持ち、キッチンを出てダイニングに戻った。
「正確に云えば、“響生のためだった”って過去形になる。響生の仕事を手伝いたかったから。もう叶わないけど」
「どうして?」
「ダメになったから」
「ダメにしたのはだれなのかな。もしも気持ちが冷めたとしても、響生がいまの環和ちゃんを知ったら放りだすとは思えないし」
 恵はいったん環和の腹部に視線を落としてから、「そういう男と友だちになったつもりはないし。京香が脅していた件なら片付いたみたいよ」と続けた。

「……え?」
「写真集、見たでしょ。あれは環和ちゃんを守るためみたいね。響生は先手を打ったのよ。写真集ができるまえに広められたらスキャンダルになるし、あとからどんなに正当な理由を出しても完全には消すことができなくなる。だから、準備する間、京香の付き纏いを黙認してたってことでしょ」
 おれに任せてもらう、と響生の言葉にそんな意味が込められているとは思ってもみなかった。
「響生はアルバム作ってやるって云ってて……だからそれだと思ってた」
 環和は呆けた様でつぶやく。
「響生は赤ちゃんを産むこと、知らないんでしょ? 教えるべきじゃない? 響生が父親なら。会ってちゃんと話すべき」

 響生が父親なら。何気ない言葉には二重の立場が含まれている。恵は知らないはずなのに、どこか悟っているような声音に聞こえた。
「……会ったら……歯止めが利かなくなりそうだから……駆け落ちしてって云うかもしれない」
「すればいいじゃない」
 挑むように恵の首がかしぐ。
「でも……」
「環和ちゃん、わたしには仕事しか残ってないの」
 ためらう環和をさえぎるようにして恵は唐突に話しだした。
「恵さん?」

「幼稚園で出会った男の子の幼なじみがいて、なんの腐れ縁か、高校は離れたけど大学で偶然一緒になった。中学生になってからなんとなく話さなくなってたんだけど、大学で会ってからまた話すようになって、幼なじみから恋人っていう関係に変わったの。卒業してから彼の勤務地が大阪に決まって遠距離になったけど、いつか結婚したいってお互いに思ってたと思う。少なくとも、わたしはそう思ってた。仕事が忙しいのもお互い様だったし、連絡は取り合っても会える時間はなかなか取れなくて……。会おうっていう日にわたしに大きな仕事が舞いこんできたわ。ずっと夢見ていた、響生と一緒の仕事よ。会うのは三カ月ぶりだったけど、彼は仕事を優先するべきだって云ってくれて、わたしはその言葉に甘えた。プランナーの仕事はきつくても好きでやり甲斐を感じてるってことを彼は知っていたから」

「いまもそう見えてます」
 いま聞かされる話と、ちょっとまえに結婚しないと云っていたことをリンクさせれば、その恵の恋は叶わなかったのだ。そう考えながら環和が云うと、恵は口もとに笑みを浮かべてうなずいた。
「一生懸命だったぶん、わたしは彼が病気と闘っていることに気づけなかったのね。ずっとわたしには黙ってて、わかったのは亡くなる三日前だった。彼のお母さんから東京に帰ってるって連絡があって……。お母さんから連絡があった時点でよくないことだとわかったけど。彼、付き添うわたしに仕事に行けって云うのよ。行けるわけないじゃない。付き添ってる間、ずっと手を繋いでいた。でも、その温かさを忘れたくなくて最後の最後に仕事に戻ったわ。仕事をしているかぎり、彼がどこかで待ってくれているような気がしてる」

「恵さん……」
 環和は名を呼ぶだけで、何を云うべきか何を云いたいのか、言葉が出なかった。
 恵ならまただれかが現れてもおかしくないのに。そんな身勝手なことを思う一方で、忘れられないほどの幸せがあったぶんだけ、不在というさみしさは計り知れず、環和は自分だったらと置き換えて途方にくれる。

「でも現実は、けっして会えないのよ。温かさも忘れていくというよりは、わからなくなっていくの。だから、ときどき思いだしたくて響生を借りてきた。一年たった頃、急に彼がいないことが身に沁みてぼろぼろになって、だれかに話したくなった。それが響生。孤独な人だと思ってたし、通じるような気がして。そしたら、響生も家族の不幸を打ち明けて、すごく身近に感じた。でも、恋とは違うのよ」
 恵は考えこむような素振りで宙を見つめる。
「響生は恵さんのこと、同胞って云ってました」
「そう、それ。人の体温てどんな温かさとも違う。かといって、だれとでも分かち合える温かさでもない。響生もそれは知ってるはずなのにね。環和ちゃんもわかってるでしょう?」

 恵はできるなら心に大事にしまっておきたいであろう話を環和に打ち明けた。
 環和はけれど、自分と響生の秘密を打ち明けることはかなわなかった。けれど。
『環和ちゃんは真野美帆子には似てないけど響生と似てる』
 コーヒーを飲んでいるとき、恵はそう云った。
 いまの美帆子が生まれつきの顔立ちではないことは恵も知っているし、環和が似ていなくてもおかしくない。そのうえで、あえて響生と似ていると云ったのは、見当をつけて、どのような形であれ血の繋がりがあることをわかっているからかもしれない。

 ベッドに座った環和は、枕もとに置いている写真集を取った。そこに写る環和はカメラ目線ではなく、横顔だったり顔が隠れていたりするシーンばかりで、なお且つ裸であっても胸先と中心は隠れている。サブタイトルにある『追わずにはいられない』という言葉を表すように、つい本を傾けて覗きこみたくなるような演出がされていた。
 最後から二番めの見開きのページにはオーガンジーの磔刑(たっけい)シーンが環和と響生それぞれに写り、そして最後の見開きのページだけが正面を向いていた。首もとからアップで写った環和と、そして響生と、ふたりの顔が半分でひとつになっている。
 響生が父親だとわかっても自覚したことはなかったけれど、ふたりはやっぱり似ていた。

 響生――
「会いたい」
 無自覚につぶやいていた。

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