NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#19

 じっと環和を見つめる響生の目に感情は見えず、内心で何を感じているかわかるわけもない。響生はふっと笑みを漏らした。何が可笑しいのか、もしくは嘲っているのか。だとしたらだれを嘲るのだろう。
 響生はそっぽを向くように環和から視線を逸らし、京香を振り向いた。彼女ははだけた服を掻き寄せながら上体を起こしたが、ばつの悪さも羞恥心も見えない。
「こういうことをしなくても、おれは京香さんのものだ。そうだろう?」

 環和は息を呑んだ。正確に云えば、呼吸がままならずに胸の辺りで息が痞えた。
 響生はまだ服を着たままだ。けれど、やっていたことが仕事以上のことだというのは打ち消しようがない。そして、それを響生は認めた。
 環和は魂をごっそり持っていかれたような無力感に襲われる。
 響生を守れるなら過去のことが――ふたりの関係が暴(あば)かれないよう、京香の話に乗って別れたことになってもいいと思った。けれど、こんなことを見せつけられて耐えることなんてできない。
 京香の策略に乗れば、目にしないまでもこうなることは見えていたのに環和は足掻いてしまう。

 響生を捕らえた環和の目は自ずと京香の姿も捉えている。響生の言葉を受けて彼女の目が環和へと向いた。そこにあるのは挑発か、それを通り越した勝利宣言か。
 息苦しさに耐えられず、環和はくるりと身をひるがえした。すぐ後ろにいた勇にぶつかりそうになって立ち止まった瞬間、躰がバランスをくずして揺れる。
「環和ちゃんっ」
 とっさに支えた勇を無自覚のうちに見上げると、心配そうな面持ちに合う。けれど、勇だってこの現状は知っていたはず。だから、部屋に入るとき静かにするよう促したに違いなかった。
 勇を信頼していたつもりはないけれど、すべてが偽りだったり拒まれたり、何も望めない状況下、些細な不信が痛手を上乗せする。睨(ね)めつけたつもりだが、その効力は果たせたのか、環和は勇の腕を振り払った。

「話をつけてくる。あとで連絡する」
 その言葉はだれに向けられたのか、急ぎ足でドアに向かいながら環和の耳に届いた発言は響生のものだった。
 環和は廊下に出たとたん、追われるように駆けだした。何もかも壊したい衝動が込みあげてくる。
「環和、走るな!」
 その声はおぼつかない足取りをさらに心もとなくさせ、環和の足がもつれる。走っていたつもりが思いのほか、環和はのろのろとしていたのかもしれない。無意識に、あっ、と悲鳴をあげた瞬間、追いついた響生に腕がつかまれて転ばずにすんだ。
 体勢を立て直している間に響生が環和の正面にまわりこみ、両腕をつかんで支えた。

「走ったり、むちゃするな。普通の躰じゃないんだ。わかってるだろう」
 響生は少し前かがみになり、環和を覗きこむようにその首がかしぐ。
「赤ちゃんを殺せって云ったくせに……転んで赤ちゃんがいなくなったら、響生はサインしなくていいし父親ってこともなかったことにできて……」
「環和」
 批難しているつもりでもそう聞こえないほど、環和の声は頼りなく、響生は名を呼ぶだけで環和の口を封じた。
「いまおまえが云ったのは別次元の話だ」
 響生は後ろめたさの欠片も見せず、環和を直視して諭した。さっきまで京香を抱いていたくせに――そう思ったとたん、環和はぶるっと身ぶるいをした。
「触らないでっ」
 やはり囁くような声にしかならないが、響生もまたびくっとしたように肩をふるわせて、環和の腕を放した。

 おもむろに躰を起こした響生は環和をじっと見おろす。しばらくしたあと、どう気持ちを切り替えたのか、再び響生は環和の腕を取って歩きだした。
 環和の意思を無視して――いまは自分の意思も曖昧で、強引に空っぽのエレベーターに乗せられた。
 響生と最大値で離れた隅っこに立つと、響生は薄く笑う。
「おれが躰を張るってことは知ってるはずだ。おまえみたいに、きれいには戻れない」
「もうきれいじゃない」
 環和は響生の言葉尻に被せるように云いきった。響生は隠したつもりかもしれないが、振動のないエレベーターの中ではかすかなため息も筒抜けだ。
「……そうだな。おれが穢した」

 なんのために響生が躰を張ったのか。環和はふとその理由を考えさせられた。響生が環和を操り、そう考えるよう誘導しているのかもしれない。
 スイートルームを出る寸前、『話をつけてくる』と云った響生がだれとそうするのか。いま環和といることを思えば環和と話をつけるわけで、響生からの連絡を待っているのは京香だ。
 どんなに足掻いても、“ふたりの未来”はない。

「響生、慰謝料が欲しいの。云いかけたことあったよね」
 虚しさに後押しされ、そんな言葉が環和の口を衝いて出た。
 響生はつぶさに環和を見つめた。真意を探るように見えたが、環和自身にもそれははっきりとは見えていない。ただ口にしたことで漠然と考えていたことが、決心とともに形になっていく。
 それは見抜かれたのか否か、やがて響生はうなずいた。
「当然の要求だ」
 まもなく一階におりて、響生は環和の手を取った。
「放して」
「おれに会いにくるつもりだったんだろう。美帆子さんから聞いてる。それが今日で何か問題があるのか?」
 まるで一刻も早く終わらせたいと云っているように聞こえた。
 本当に最後だと覚悟を強いられている。ふるえる下くちびるを咬み、環和はかすかに首を横に振った。
「ない。……今日でいい」
「なら、行こう」
 心なしか、手がぎゅっと握りしめられたように感じた。

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