NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#20

 京香と会って企み事を探り、あるいは聞きだしたのち、響生に連絡して会うつもりではいた。けれど、本当に最後になると実感すれば、踏ん切りがつかないかもしれないとも思っていた。
 こうやって強制的に響生が事を運んでよかったのだ。
 けれど、やっぱり尻込みする。
 話すことのないまま、響生の車でラハザ兼住み処に着くと、エンジンが切られても環和は助手席に乗ったままシートベルトを外すことさえためらった。いま、環和の前で響生は煙草を吸わなくなっている。スタジオも住み処も染みつくほど煙草の薫りはしない。唯一、車の中だけが残り香を感じさせる。
 そんな感傷は、車を降りて助手席にまわってきた響生によって断ちきられた。ドアが開いてシートベルトを外される。

「おれに触られたくないんだろう。車の中でおなかの子と無理心中する気じゃないなら自分で出てこい。おれを罰するには効果的だけどな」
「……清々するでしょ」
「そう本気で思うくらい、おれを嫌えばいい」
 冗談でもなく響生の声はごく真剣だった。思わず見上げると、その顔にも揶揄した表情は一片もない。
 環和に見限ってほしい。それは響生の本音なのか。
 清々するために? それとも――。
 考えている途中で、結局は環和の意思にかまうことなく、響生は一向に降りようとしない環和の腕を取って車の中から引っ張りだした。

 外に出たとたん、くらくらするくらいの熱気が襲ってくる。
「大丈夫か」
 顔をしかめた直後、環和を見守っていた響生が声をかける。
「あんまり外に出ることがないから、暑さについていけないだけ」
 響生はやたらと長いため息をついた。その真意を見るべく環和は顔を上げたものの、ちょうど太陽の方向に当たって眩しさに目を逸らした。それを目眩(めま)いの兆候だとでも勘違いしたのか――
「具合が悪くなるまえに行くぞ」
 と、響生は環和の腕をつかんだまま歩きだした。

「友樹くんは?」
「今日は休みだ」
「休ませたんでしょ。自分だけ休みなんて心苦しいだろうし」
 響生はちらっと環和を見下ろして、くちびるを歪めた。
「心苦しいかどうかは別として、おまえが近々来るとわかってから休ませてる。邪魔されたくないから」
「……どういうこと?」
「環和に頼みたいことがある」
 そう云いながら、響生はそれ以上喋る気はないといった雰囲気を放って歩いていく。

「適当にしててくれ。シャワーを浴びてくる」
 家のなかに入って二階に上がった第一声は唐突に聞こえた。
 環和の疑問を察したのだろう、響生は首をひねり――
「躰を張ることに慣れてるからといって平気ってわけでもない。昔は平気だったけどな」
 と、云い訳じみたことを口にしてリビングを出ていき、響生はバスルームに向かった。

 バスルームにあった女性ものの――恵が置いたシャンプーやらヘアブラシやらはすべて環和の好みに差し替えていた。廊下を歩いていく響生の背中を見送りながら、それらがまだ存在しているのか、恵のものが再び置かれていないのか、もしくは――京香のものに入れ替わっているのか、望んでいることとあってほしくないことを並べ立て、いずれにしても意味のないことを考えた。
 未練だらけだ。ここにうずくまって時間を止めたい。そんなばかげたことを思い、そして断ちきるように環和はベッドルームに向かった。覗いてみても部屋は何も変化が見当たらなかった。せめて、響生のテリトリーの中で京香との関係が目に見えることはなく、環和は力が尽きそうになるくらいほっとした。

 リビングに戻ってソファに座ると、環和はバッグを開いて手帳を取りだす。挟んでいた四つ折りの紙を広げた。
 ずっと持ち歩いていたのは踏ん切りをつけるための一つの手段だった。
 まもなく響生がバスルームから出てくると、ベッドルームに行く気配がする。足音だったりドアを開ける音だったり、環和は背後に聞きながら響生が戻ってくるのを待った。
 そうして、リビングに来た響生は環和の斜め前に腰を下ろした。
 髪は乾かすことなく濡れたままで、上半身はノースリーブのシャツに、膝丈のジョガーパンツという、さっきまでのスーツだった恰好からすると砕けすぎている。気取った格好をするような他人じゃない。それが違った意味だったらどんなによかっただろう。

「これ」
 環和が指差すと、響生はローテーブルに置かれた紙を手に取る。斜めから見る顔によぎる変化はない。
 見入ったようだったのは一瞬、そのままローテーブルに戻すと、響生は持ってきたバイブル型の黒いレザーボックスからペンと印鑑を取りだした。あっさりとサインをして押印し、環和に差しだした。
 畏まることもなく淡々として悲しくなる。だれもが赤ちゃんの存在を否定して、環和までそうしたら――。
「慰謝料だ」
 書類を手帳に挟んでバッグにしまったところで、響生が何かを差しだした。

 受けとったポーチを開いてみると、通帳が三冊と印鑑とカードが入っている。環和は取りだしてみた。
 名義を見れば美帆子のものだ。通帳の中身を見ると、最初の通帳が五千万ちょうどで始まっている。金額は様々の引き出しがなされ、いちばん新しい通帳では定期的に入金があり、そして最後は三年前に五千万ちょっとで終わっている。
「これ……」
 環和が顔を上げると響生はうなずいてみせた。
「最初におれがもらった投資って云われたお金だ。返したい気持ちはあったし、けど、おれは信用を失ってるし、いまさら美帆子さんは受けとらないだろうと思った。ケジメだろうな。おれがだれかに投資するときがくるかもしれないとも思っていた。美帆子さんのものはいずれ環和のものになるし、慰謝料とは云えないかもな」

 環和は否定を込めて首を横に振った。
 響生は自分を責めているけれど、十四歳だった響生には非がない。投資というのは体(てい)よくした飾り言葉にすぎなくて、慰謝料と云ってもすぎることはない。
「ありがとう」
 こんなにもらえるとは思っていなかったけれど、響生の気がすむなら素直に受けとったほうがいいのだろう。それに、これだけあれば、きっと美帆子に頼らないで自分でやっていける。
 響生はうなずいて、それから再び通帳一式を差しだした。見ると、今度は響生の名義だ。

「……何?」
「頼みたいことがあるって云っただろう。いまからモデルになれ。最後におまえを撮りたい。これはそのモデル料だ。とりあえず一千万、用意した」
 環和は目を見開いた。
「……とりあえず、って……ほんとは五千万だって多いって思ってるのに……こんなつもりじゃなかった。こんなにいらない」
「慰謝料とは別の話だ。モデルになってほしいと云ってる。そのかわり、それをどうするかはおれに任せてもらう」
 どうする? と、響生は首をひねった。

 これが響生でなかったら、撮らせた写真をどうするかわからないのに引き受けるわけがない。いや、そんな消極的な云い方ではなくて、いまになっても撮りたいと云われたことが単純にうれしかった。写真という形に残ることで、その実、響生の中から完全に環和が消え去ることはないという保証になるような気がした。
「うん」
 自分で意識するよりも早く、環和はうなずいていた。

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