NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#15

 響生はゆっくりと首をひねっておもしろがって見せ、答えるまでの時間を稼いだ。
「真野さんの元夫が水谷専務だというのは知っていたけど、十年前に仕事で一緒になったときは、真野さんに子供がいるって漠然とわかっていただけで娘に会ったことはなかった。環和も写真集のことを詳しくは知らなかったし、つい最近、環和から母親が真野さんだと聞かされて、お互いに驚いたってとこだな」

 実際は驚いたどころではない。思い描いていた未来は一気に土台を失い、砂塵となって嵐のなかに消えた。
 京香は不思議そうに首をかしげる。その実、京香は響生を注意深く見ている。それをさり気なく見返しながら、響生の虚しさは濃くなる一方だ。
 そして、京香の視線はちらりと右の頬に移った。何を思ったのか表情に出さないのは演技者だからこそか、やはり火照っているのは内部だけでなく表面もそうなのかもしれない。

「環和ちゃん、なぜ云わないのかな。普通は自慢したくならない?」
「だれもがそういうわけじゃないだろう。目立ちたがったり、七光りがほしい奴はそうかもしれないけど、逆にそれを嫌がったり、コネクションとして利用されるのを避けたがる奴もいる」
「そっかぁ。だから環和ちゃん、全然違うお仕事してるのね」
 納得したふうに云ったかと思うと、京香は、あ、と何か思い当ったようにわずかに目を見開く。
「でも環和ちゃん、ミニョンもうすぐやめるって。別の仕事がしたいって云ってたけど、安西さんと結婚するんじゃないかって思ったり……?」

 かすかに顎を引き、上目遣いで響生を見上げながら京香の首がかしぐ。映像でよく見るしぐさだ。
 そう思ったところで、響生は自分が環和を撮りたがる理由がひとつわかった。
 フォトグラフィングを仕事にしている以上、俳優にしろモデルにしろ、表情がつくれるプロの人間を相手にすることがほとんどだ。風景はともかく、環和を撮ってみて、雰囲気を注文することなく人のナチュラルさを撮ることにはじめて道楽やら欲求を見いだしたのだ。
 だが、その欲求も満たされることはなくなり、道楽も潰(つい)えた。

 響生は『結婚』という京香の言葉に自嘲を込めて薄く笑った。
「おれはずっと独りでやってきて人と暮らすことが苦手だ。結婚向きじゃない」
「それって中途半端な付き合い方だし、環和ちゃんに対してひどくないですか」
 結婚はしないと遠回しに示した響生の言葉に即座に反応したのは、意外そうに目を丸くした京香ではなく勇だった。
「環和はわかってるし、結婚しないからといってだめになるならそれまでだ」
 云いながら、響生はふと勇を通り越して奥へと目を向けた。自ずと気取(けど)るのは、大女優と云われるオーラか、響生とは切っても切れない強烈な存在だからか。
「すごいドライですね。でも、安西さんのそういうところ好きかも」
「京香さん、そんなふうに冗談めかしてちゃ埒が明かないわね」
 くすっとちゃかした美帆子の声に、京香たちはハッとしたように後ろを振り向いた。

「真野さん!」
「今日はお疲れさまでした」
 京香は驚きから覚め、見せかけか本物かうれしそうに美帆子を呼び、勇はスマートに一礼をする。
 美帆子が久しぶりにドラマに出ることを人づてに聞いたが、その短い会話からどうやら京香たちと共演するらしいとわかった。
 京香たちが道を開けるようにして自分たちの間に美帆子を迎える。
「お疲れさま」
 美帆子は妖艶に彼らへと微笑みを向け、それから響生を向いた。

「こんにちは」
「あら、響生。どうしたの?」
 美帆子は歩み寄り、響生の正面に立って左手を上げた。手のひらが右の頬に添う。昔に戻ったような錯覚に陥ったのは一瞬、響生は身を引きそうになったところをどうにか堪えた。
 慄(おのの)いた理由は、怖さでも不安でも嫌悪でもなかった。ただ、環和以外に触れられたくない。出しぬけにそう思ったのだ。そんな自分に呆れること半分、ごまかすように響生は肩をすくめて、笑みを浮かべた。

「道具を担(かつ)いだスタッフを避けきれなかったんですよ」
「せっかく綺麗な顔してるんだから大事にしないと。あなた、昔から美貌に無頓着よね」
 わざと見せつけているのか、美帆子は頬を軽く叩くようにして親しげに振る舞う。
「昔って、写真集のときの話ですか」
 京香が口を挟み、美帆子は響生の頬から手を離して彼女に向き直った。
「いいえ、もっと昔からの話。響生はね、わたしがサポートしてる施設にいたのよ。だから子供のような感覚かしら。写真集も響生の出世に貢献したかったから協力したのよ。ね?」
「そのとおり、出世作になりました」
 どういうつもりで美帆子がそこまで話すのか、意図を測りかねながらも響生は同調した。
 京香も勇も、演技ではなく純粋に驚いている。

「そうなんですか。そういう縁があるなんて、環和ちゃん、運命かもなんて思うかも。結婚に漕ぎつけるまでたいへんそうだけど。でしょ、安西さん?」
 さっき、響生が結婚しないと云ったことをほのめかしているのだろう。
 京香にしろ、思わせぶりで、どういうつもりなのか響生には判別できない。だいたいが、なぜ環和のことにここまで干渉しようとするのか、その根本もわからない。
 ただ、京香にはそのつもりがなくても、その発言は響生と環和の関係を如実に突いていた。
 響生は肩をそびやかして返事をやりすごした。

 美帆子が、「京香さん」と首をかしげて自分より背の高い京香を見つめる。
「あなた、まどろこしいアピールしても無駄よ。鈍感な響生には直接、好きって云わないと伝わらないんだから。響生が欲しいなら、環和から奪うつもりで響生が好きだって叫んでみたら?」
 さすがに京香も顔を引きつらせる。刹那的なものだったが、ドラマでしか見せることのない不機嫌さが現れて消えた。
 それは美帆子の云い分が正しいという証拠なのか。寄ってくる女がそう絶えることはなかったがまったくの受け身であり、美帆子が云ったように響生にそういった思い上がりも関心もない。京香から甘えるような言葉だったりしぐさだったり、向けられたことは確かにある。だが、ほかのスタッフなどに対するものと同じで、京香特有の処世術だと解釈していた。

「真野さん、冗談でも焚(た)きつけないでくださいよ。京香のいまの恋人はいちおう僕で、逃げられないよう必死なんですから、これでも」
 勇が取り繕うと、美帆子はそれに乗ってくすくすと可笑しそうにした。
「そうだったわ。恋人同士ってどこまでがドラマティックなのか知らないけど、共演したらますます混乱しそう。お手柔らかにね」
 引き際だと思ったとき、美帆子さん、と遠巻きにしていた美帆子のマネージャーがタイミングよく入ってきた。
「車が来ました」
「わかったわ。響生、見送ってくれるかしら」
「わかりました」

 早くも立ち直っていた京香と勇と簡単に挨拶をすませると、響生はエントランスに向かう美帆子を追った。マネージャーが先立ち、響生がすぐ追いつけるようにゆっくりした歩調だ。
「響生、京香には気をつけることね」
 美帆子は斜めに顔を上げて、追いついてきた響生を一瞥する。
「何もありません。写真の問題以外は」
「あの子、バカなのかお利口さんなのか、へんに勘繰らないといいけど」
 その言葉から、美帆子の京香への挑発はけん制だったとわかった。
「あのふたりについてはいろいろ疑ってるんです。さっき水谷専務に会ってきました。何かあったとき、環和さんのことを娘だと通していただけるそうです」

 美帆子は唐突に足を止めて響生を振り仰いだ。その視線がふと響生の右側へとわずかに逸れる。
「もしかして殴られたの?」
「環和のかわりだと云われました」
 その真意は伝わったのだろう。かすかに顔をしかめていた美帆子は、彼女らしい冷ややかな微笑を見せるとまた歩きだした。
「美帆子さん、写真のことで考えていることがあります。あらためてご相談させてください」
「考えていることが固まったら教えてちょうだい」
 美帆子は取り付く島もないように云い、それから歩調を速くして車に向かった。
 そうして車が発進するなり、響生は背中を向けて駐車場に向かう。
 環和は元気ですか。そんなことさえ口に出せなかった。

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