NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#16

    *

 八月に入って一週間、嫌いな雨はめったに降らないけれど、そのかわりに真夏の日中は閃光の連続で、眩しい熱線が痛いほどに降り注ぐ。タクシーを降りた瞬間、環和の躰は汗の膜に覆われた。
 仕事をやめるととたんにやることがなくなって、何も手につかなくなった。無気力でぼんやりとベッドに寝転がっている。そんな毎日の繰り返しのなか、今日は久しぶりの外出をして、快適な温度に慣れた躰にはきつい。
 体調自体は、妊娠している実感はあまりないけれど、やたらと眠たくなるという変化が現れている。本当なら眠れないほど虚しいのに、妊娠していることが救いになっている。赤ちゃんが、延いては響生が守ってくれている。そう思いたい。

 環和はアーチ型になった水谷家の門扉をくぐり、アプローチを進んだ。もう少しで涼しい場所にたどり着くという家の玄関前まで来たとき、着信音が鳴った。
 画面を見て環和は眉をひそめた。
 出ようかどうしようか迷ったけれど、相手が電話番号を知っているかぎり環和が出るまで逃してくれないような気もする。
 それに、あまりに衝撃を受け、すっかり忘れていた写真のことを思いだした。
「はい、環和です」
 物心ついたときからあたりまえにある文明の利器は便利な反面、厄介だと思いながら環和は応じた。

「京香よ。久しぶりだけど元気?」
 陽気な声がうっとうしいと思うのは、それが京香のものだからか、一向に晴れない環和の気分のせいか。このまえ京香と会ったのは先月のことで、久しぶりと云うほど話していないわけでもない。
「元気ですよ」
 環和が応じたあと、京香はそれ以上の言葉を待っているのかちょっとした沈黙になった。まもなくくすっとした笑い声が不自然な間を断ちきる。
「相変わらずって感じね。環和ちゃんがやめるまえにもう一度くらいミニョンに行きたいって思ってたんだけど、スケジュールの都合がつかなかったの。ミニョンのお仕事お疲れさま」
「わざわざ、ありがとうございます」
 迷惑だと示すのに、“ご丁寧に”とは云わず『わざわざ』と云ったわけだが、京香は気づいていないらしく、「ね、そういえば」と切りだした。ついでのような云い方だが、きっとこれからの発言が本旨なのだ。

「一週間前だったかな、日東テレビで安西さんと会って話してたときに、環和ちゃんのお母さんと一緒になったの。それで、なんだかすごく親しい感じだったから、ちょっとびっくりしたんだけど?」
 京香は問うように語尾を少し上げた。
「昔からの知り合いだから」
「そうみたいね。真野さんて高いところにいる感じで、ボランティアやってるなんてイメージなかったのよね。あ、ごめんね、お母さんのこと、こんなふうに云って」
「わたしはよく知っててもそう思うから気にしないでください」
「そう? いい意味で驚いた。でもね、安西さんが施設にいた頃はともかく、写真集のときはけっこう親密だったんじゃないかって一瞬、疑っちゃった」

 京香が何を意図して響生と美帆子が男女関係にあったようにほのめかすのか、けれど、そのことよりも施設で知り合っていたことまで京香が知っていることに驚いた。環和と響生の本当の関係がいつか見破られるかもしれない。そんな不安のあまり、環和の鼓動が浮かびあがって痛いほどざわつく。
「……何かあったとしても昔のことで、不倫でもないし、ふたりとも大人だったから責められません。気にならないと云ったら嘘になるけど」
 本音を云えば受け入れられない。取り繕うことが精いっぱいだった。
「環和ちゃんてオトナ。安西さん、付き合ってても結婚するつもりはないって云ってたけど、環和ちゃんはそれもやっぱり了解してるんだね」

 ひょっとしたら環和にダメージを与えようとして、響生に結婚の意思がないことを告げ口している気なのかもしれない。すでにそれ以上のダメージを受けて、響生との間にはなんの展望もなく、環和は空虚さを通り越して滑稽で笑いたくなった。
 けれど、笑うことはかなわず。
「一緒にいられるんなら、それで充分じゃないですか」
 心底から環和は云った。きっとその貴重さは伝わらないだろう。そう思ったとおり――
「わたしはすべて手に入れたいかな」
 京香は簡単に、そして当然のことのように口にした。

「……わたしから見たら、京香さんはすべて手に入れてるように見えますけど」
「たぶんね、人から見たらそうなんだろうけど、環和ちゃんを見てたらやっぱりひとつだけ足りないって思うのよね」
「何が足りないんですか?」
「安西さん」
 京香は露骨に響生を指名した。
「……それをわたしに云ってもしかたないと思います」
「だから譲ってくれないかなって思ってるの。真野さんは、安西さんが欲しいなら環和ちゃんから奪いなさいって云ってたけど? なんだか不思議ね。娘の恋人なんだから、普通なら手出ししないでって云うところじゃない?」

 環和は二重の意味ですぐには応えられなかった。
 とっさに思ったのは、渡したくない、ということ。
 もうひとつ、どういう経緯でそんな会話になったのかはわからないが、響生も美帆子も別れたとは云っていないらしく、つまり黙っている理由があるということで、それなら環和がもう別れたと云うわけにもいかない。写真の問題が関係しているのかもしれなかった。

「わたしが譲ると云っても、結局は響生の気持ちの問題になると思います」
「だったら、区切りをつけられるように安西さんを追いこんだらいいんじゃないかな」
「意味がわかりません」
「いい考えがあるの。今度、一緒に食事しない? そのときに話すから」
 なぜ京香は環和が譲ってくれるということを前提に話すのか見当がつかない。途方にくれながら、断る口実を探した。
「……いまは実家にいるから母の面倒でたいへんなの。都合が取れないからごめんなさい。じゃあまた」

 自分で云いながら『また』ということはないと思いつつも当たり障りのないよう付け加えて、環和はさっさと電話を切った。
 そうしてしばらく立ち尽くす。
 譲りたくない。別れても譲りたくない。京香にだけではない。だれにも譲りたくない。
 呼吸することもおぼつかないほど苦しくなった。

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