NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#13

    *

 日東テレビの二十四階に昇り、エレベーターを降りて響生は案内されるまま専務室に向かった。案内の女性がノックをして応対をしたあと、中にいた秘書が出てきて響生に会釈をする。響生が中に入ると、入れ替わるように秘書は出ていった。
「ご無沙汰しています」
 響生が一礼をすると、秀朗はゆっくりと椅子にもたれていた躰を起こして立ちあがった。そうする間、秀朗の目はじっと響生に注がれ、それは響生がなぜ訪ねてきたか、その理由をすっかり承知しているように見えた。

「座ってくれ」
 秀朗はデスクの前方にあるソファを指差した。
 座って話すより自分の足で立っていたほうが落ち着けるだろうが断るわけにはいかず、
響生は、失礼します、と秀朗に倣(なら)って正面に座った。
「こうやって会うのは久しぶりだな。君が売れだした頃……およそ十年ぶりか」
 秀朗はゆったりとソファに背中をもたれて響生を眺めやった。
 もうすぐ六十歳になるだろう秀朗の容貌は、いい意味で歳月を感じさせる。その地位もあってか、相手にほどほどに重圧を与える貫禄があった。かといって近寄りがたいだけの威張りくさったところは見られず、だからこそ、奥沢京香も大胆な行動に打って出られたのだろう。

「はい。専務から声をかけていただいて、仕事も順調すぎるほどこれまでやってきました。ありがとうございます」
「礼を云うわりに、一年後の私の昇進時には電報ひとつですまされたと記憶しているがな。二十四年前もそうだったが、いつも君は唐突に現れては音沙汰なしになる」
 それは皮肉か、からかわれているのか、さすがに秀朗は立場のある人間で巧みに本意を隠して判断はつかない。
 二十四年前に縁が切れたことを秀朗がどう美帆子から聞かされたのか。響生にしろ唐突でしかなかったのだ。響生は苦笑いをした。

「九年前のことは、まだまだ駆けだしでしたから、僕が出向くにはおこがましいと思っていました」
「……理由はそれだけだったのか?」
 なんらかを慮ったのち、秀朗は響生を見据えて首をひねった。
 そのことで、秀朗がいつからか確信しないまでも察していることがはっきりした。
 そのほうが話は早い。覚悟ができているようでできていないなか、自分をなだめるように内心でそう思いながら響生は曖昧に首を横に振る。
「今日は環和さんのことでお話にあがりました」
 響生が出し抜けに切りだすと、秀朗の首がかすかにかしぐ。そのしぐさは、うなずくようでもあり挑むようでもある。

「結婚すると環和から聞いた」
「そのつもりでした」
「……“つもりでした”? どういうことだ?」
 探るようだった眼差しに咎めたような様が加わる。
「結婚できないとわかったんです」
「なぜだ」
「美帆子さんの娘だからです」
「結婚できない理由がどこにある? 母親から反対されただけで身を引く程度の気持ちしかないのか。あんな写真を撮っておきながら」
「……すみません。環和さんは……あなたの娘ですか」
「……どういう意味だ」

 怒りも驚きもしない、ただ悟りきった口調だった。いつから秀朗は気づいていたのだろう。探り合う応酬のなか、云いたいことがあるなら云えと促すように秀朗はわずかに顎をしゃくった。
 秀朗と対面して、万が一でも勘違いがあるかもしれないという響生の悪足掻きに終止符が打たれた。響生は目を瞑り、そして長いため息をついて意を決した。

「環和さんの父親は僕でした。散々お世話になっておきながら、あなたを裏切るようなことをしていました。申し訳ありません」
 まっすぐに目を合わせたまま、互いが微動だにしなかった。
 耐えられなくても耐えるべきだ。響生は自分を奮い立たさなければならなかった。子供だったゆえという云い訳が立とうと善悪の判断は充分つく年だった。だからこそ、何事もなかったように黙して振る舞ったのだ。

「環和が私の子でないことは十年前に知った。だが、だれの子かまでは見当もつかなかった。私は妻の浮気にさえ気づかない自分の不甲斐なさと屈辱と、闘わなければならなかった。先月、環和と十年ぶりに会って君と結婚すると聞いた。わかったのはそのすぐあとだ。まもなく二十四歳になる環和を見て、うちに来ていた頃の君を思いだした。君は年齢よりはずいぶんと大人びていたからな、十年前は気づかなかったが……というより、思いもしなかった」

「当然です」
 秀朗はこれ見よがしにため息をつくと、すっと立ちあがった。
「君の話はそれだけか。仕事がある。帰ってくれ」
「水谷専務……」
 呼びかけながら立ちあがったとたん、秀朗の右手が上がった。直後、響生の右頬が手の甲で払いのけられるように叩(はた)かれた。
 かろうじて響生が倒れなかったのは、それを無意識に覚悟していたからだろう。痛みが身に沁みる。
 歯を喰い縛って頭を深く下げ、それから顔を上げて秀朗と対峙した。

「もうひとつだけ聞いてください。お願いがあります」
「なんだ」
「環和さんも僕が父親だということを知っています。写真のことはおかしなことにならないようにするつもりです。ただ、世間が騒ぐような事態があったときに、環和さんが水谷専務の娘であることを通していただけませんか。ずうずうしいお願いだとはわかっています。身の程知らずだともわかっています。ですが、どうかお願いします」

 響生は再び深々と頭を垂らした。了承の返事が聞けるまで、いつまでもそうしているつもりだった。
 そうしながら、三日前、響生の腕に縋った環和を思いだす。響生とて引き止めたかった。その苦渋がどうか環和に伝わっていないよう――そう思うのは未練だらけだからだ。拒絶し傷つけることでしか、身を引けない。

 やがて、秀朗が短くため息をつく。
「もう私はとっくに美帆子への未練はなくしている。その証拠に再婚をしている。そうだろう? いま君を殴ったのは私じゃない。娘のかわりだ」
 秀朗は遠回しに響生に答えを示した。
「ありがとうございます」
 安堵と、そしてどうやっても消すことのできない後悔を噛みしめがら、響生はさらに頭を下げた。

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