NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#12

 環和は思考力を奪われ、まっさらになった脳裡には響生の言葉だけが浮遊している。
 響生が……父親……?
 呆然と見上げた響生はただ環和をつぶさに見ているだけで、いくら待っても冗談だと笑い飛ばしてくれない。
「意味がわからない……」
「知ったときは、おれも同じだった。おまえと出会うことがなかったら、一生わからないままだっただろうな。……けど、会った」
「響生が父親って……どうして……そうなるの?」
 取り消してほしい。嘘だと云ってほしい。冗談だとすませてほしい。
 環和の思いはきっと届いている。けれど、響生は環和の頬に当てた手を力が尽きたようにおろして意を示し、求めた答えは得られなかった。

「これが投資だった。美帆子さんは子供が欲しかったらしい。水谷専務との間にできなかったから、水谷専務とできるだけ似ているおれに照準を定めたんだろうな。おれには似てるかどうかなんてわからなかったけど……」
 響生はふと環和から目を外すとそこに何かがいるかのように宙を見て、そうしてからまた環和に目を戻し、「そういや、おまえも云ってたな、おれと父親が似てるって」と力なく笑った。
「つまり、そういうことだ。おれへの投資は子作りのためだった」
「……ひどい……」
「そうだな。快楽に負けたツケだ」
 響生は自嘲して笑った。
「違う、響生のことじゃない」
 環和は首を横に振りながら否定したが、その主張は囁き声にしかならなかった。

「いろんなことを後悔してきた。あの日、キャンプじゃなくて遊園地がいいって云ってたらとか、たとえ誘惑に負けたとしても、水谷専務がいながらこそこそやるよりもその一度きりにして、水谷家に出入りするべきじゃなかったとか、思い上がって会社を辞めたこととか……。けどいま、おれは……環和と会ったことほど後悔したことはない」

 どういう意味だろう。鈍い思考力ではまっすぐにしか捉えられず、環和の目は潤んでいく。
「わたしは後悔なんかしてない。響生が本当のパパだなんて信じない!」
 強く叫んで訴えても否定する言葉は返らず、濡れて滲んだ視界のなか、響生の表情も読みとれない。もう何度めだろう、沈黙がはびこった。
 理解などできない。認めることもできない。父親という存在がなんなのか、そんな基本的なことまでが曖昧になっていった。
 秀朗と会ったこと、説得しようとしても口論にも発展しない美帆子への苛立ち、そして響生からの拒絶とたったいまの告白、それらが取り留めなく巡るだけで何も纏まらない。

 そうして、静けさが長引くなかで、その沈黙に意味があると気づいた刹那、インターホンの呼び出し音が沈黙を破った。
 さっき響生が電話をしていたことを思いだす。環和と響生を引き裂くのは美帆子しかいない。
 環和はとっさに両手を伸ばして響生の腕をつかんだ。
「環和、おれたちはもうどんな家族にもなれないんだ」
 響生は、引き止めようとした環和の手を剥がして立ちあがった。

 響生の声には苦悩が滲んでいる。そう思うのは環和の幻想だろうか。
 どんな家族にもなれない。結婚もできなければ、親子になれるはずもない。
 やっと素直になれて、素の自分が受け入れられたと思わせてくれる人に出会ったのに、その居心地のよさも好きという感情も、すべて響生が響生であったせいなのか。

「環和、帰るわよ」
 いつもと同じ口調で美帆子は平然と現れた。
「ママは人間じゃない。ママがやったことはおかしいよ。響生にもパパにも謝ったの!?」
 環和は背中を向けたまま、もやもやした感情をぶつけた。
「少しもおかしくないわ。それに、わたしは子供が欲しかった。ただの動物なら欲しいという感情なんてないでしょ。水谷は美しい妻というステータスが欲しかっただけだし、あなたと響生が出会わなければ何も問題にならなかったことよ」
「ママは子供が欲しかったんじゃない。きれいな自分の分身が欲しかっただけじゃない! わたしは分身じゃない。もうママと一緒にいるつもりはないから!」
「ここに置いていくつもりはないわ……」
「環和」
 美帆子をさえぎり、響生が環和の前に戻ってきた。しゃがみこんで環和の目線までおりてくる。

「響生、戻りたくない。ここに――」
 ――いたい、と最後まで云えなかった。
 響生が「環和」と呼んで、環和までをもさえぎってしまう。
「美帆子さんが子供を欲しがったのは償いかもしれない」
「……償い?」
 思いもしない言葉だった。響生はうなずくと顔を上向け、環和の背後に視線を向けた。
「あの話は嘘ではありませんよね?」
「なんのことかしら」
 美帆子は素っ気なく応じた。
「いま、あなたの返事でわかりました」と、響生は環和に目を戻した。

「美帆子さんはずっとまえ……たぶん、いまのおまえより若いときに子供を産んで亡くしてる」
「よけいなこと……」
「よけいなことではありませんよ」
 環和の思考に響生の言葉が浸透するまで短い応酬がなされた。
「環和、おまえはやっぱりお母さんにも似てる。美帆子さんはおまえと同じで素直じゃない。美帆子さんが自分の娘じゃないふりをしろと云ったのは、たぶんおれのせいだ」
「響生の……?」
「ああ。おれは云ったとおり、仕事を取るために女を利用してた。十年前、美帆子さんは、もしおれがおまえの存在を知ったとしたら、それをネタに脅したすえ、おまえにまで害が及ぶかもしれないと考えたんだろう。おれは、美帆子さんが妊娠してるって知らないまま追いだされたから疑うこともなかったんだ」

 なぜこんなふうに響生が美帆子をかばうのか――
「わからない」
 環和が漏らした言葉を響きはどう捉えたのか。
「おまえにわかってほしいのは、母親は母親だってことだ。けど、おれはおまえの父親にも、おまえの子供の父親にもなれない。おまえといるとつらい。後悔からおれを解放してくれ」
 父親になってほしいなんて思っていない。
 環和が訴えるよりも早く――いや、云わせまいとするかのようにすっと響生は立ちあがった。

「環和さんは僕が車まで運びます。ここに来たとき倒れそうになっていたんです。貧血を起こしたって云ってますが、念のため病院に行ってください」
 環和は軽々とすくいあげられたまま、拒まれるのが怖くてしがみつくこともできなかった。
 後部座席に乗せられたあと、響生が最後に発したのは、失礼します、という美帆子への言葉だった。

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