NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#9

「よくこうなるのか」
 ほんの傍で見上げた顔から心配そうな表情は窺えないが、素っ気なさもない。惠は苛々しているようだと云っていたけれど、環和からは別れる前と少しも変わらないように見えた。手の感触も変わらない。
 あえて変化を挙げるなら、少しだけ晴れやかさが薄れている。例えば、何かを憂(うれ)えた気配とでも云うべきか、それが貼りついている感じだ。
「ううん、はじめて。たぶん、たまたまこうなっただけ。仕事もちゃんとやれてるし……といっても今月でやめるけど。病院に予約するのを忘れてて予定より二週間遅れたけど、今日、健診に行ってきたの。それでいろいろ緊張してたんだと思う」
 いちばん緊張したのはラハザに来ることだった。それはおそらく響生もわかっている。少し長いため息がくちびるのすき間から漏れた。

「話したいことって健診のことか。異常があったとか?」
「異常?」
 環和は大げさな言葉に驚いて、首をかしげるかわりに問うように目を見開いた。響生は瞬きをしてつと目を逸らし、そのしぐさは都合が悪いように見えたけれど、また瞬きをした瞬間に環和に戻ってきた。
「いや……躰に負担がかかってないかってことだ」
「平気。話したいことは全然違うの。写真のこと」
「写真? なんの?」
「響生がわたしを撮ってくれたよね。その写真」
 響生は首をひねり、そうしたところで何かしら思い当たったような面持ちになった。

「欲しい? それとも消してほしい?」
「そうじゃなくて、だれかが写真を盗み撮りしてる」
「……どういうことだ?」
 響生は目を鋭くして睨むように細め、眉間にしわを寄せる。
 環和はあえて人物を特定せず曖昧に云ったのだが、この二日、盗撮がいつだろうと考えていて思い当たったことがある。美帆子が断定し、環和が疑ったとおり、京香ならチャンスがあった。
「パパにもママにも接触できる人がやったんだと思う。響生はもうパパがだれだか知ってるよね?」
 考えこんでいた響生は、俄(にわか)にぴりっとした空気を纏い――
「ああ、知ってる……」
 と云いながら、環和を観察するように見た。

「その人、パパのところにもママのところにも写真を持ってきた。服を着てるのでも真っ裸のでもなくて、きわどい写真。ママは、何かあったときのための保険にするんだろうって」
「……脅迫されたってことか?」
 環和は首を動かせる範囲でうなずき、足もとのバッグを指差した。
「写真、バッグに入れてる」
 響生は環和の手を離し、バッグを取って渡した。環和は手探りで手帳を取りだすと、挟んでいた写真を響生に渡した。
「もしこの写真が出たら、響生に迷惑かけるかもしれなくて、話しておかないとって思って来たの」
 写真を見て眉をひそめていた響生はぱっと顔を上げ、怪訝そうに首をひねった。

「おれに迷惑かけるって……?」
「だれが撮ったんだって、だれだって思うから。それが響生だったら騒がれるかもしれない。ママの写真と娘の写真、どっちも撮ったってシャレじゃすまなくない?」
 そこまで驚くことだろうかと滑稽なくらい、響生は喰い入るように環和を見つめる。そうして、顔を背けながら吐息を漏らす。呆れたようでいて自嘲するようだ。
「写真が晒されることになったら、おれのことより、おまえのことだろう、問題は。一生、消えない」
 響生は深刻な顔で諭すように云う。この件に関しては響生の感覚がおかしいのではなく、環和がのんびりしすぎなのだろう。どうしようという漠然とした不安はあるけれど、自分に関するかぎり深刻には感じていない。きっと、そんなことよりも響生と環和ふたりの関係のほうが遥かに重大事だからだ。

「わたしは……気にしない。響生が撮った写真だし……でも一つ納得いかない」
「何が納得いかない?」
「ぼやけた写真だから。きれいに写ってない」
 聞きたくなかったことを聞かされた、あるいは意味を理解できないかのようにこわばった気配は、一瞬にして吐息混じりの力尽きたような笑みに変わった。
 すると、急に環和の視界が滲んでいく。直後、左の目頭と右の目尻から同時にすっと涙が伝った。
「環和」
 切羽詰まって聞こえた。響生がどんな顔をして環和を呼んだのか、涙でぼやけていてわからない。
「たぶん、響生の笑った顔をまた見られるって思ってなかったせい」
 涙の云い訳をすると、響生は項垂れて顔を隠した。すでに笑みは消えてしまっていて必要のないしぐさなのに顔を上げる気配もない。いざそうしたときは、環和の涙も乾きかけていた。

「おれは……。……どうするつもりだ」
 はじめに何を云いかけたのか、響生の問いかけは肝心な“何を”という目的語が抜けている。消極的であることの表れで、けれどなんに対して消極的なのかはわからない。終わったことに煩わされたくないのか、子供を産んでほしくないのか、躰に負担をかけることの環和への気遣いか。
「赤ちゃんは……生まれたいから生まれたんだと思ってる。母子手帳ももらってきた」
「……父親がいなくても?」
 環和の答え方も中途半端であれば、響生の二度めの質問も曖昧だ。ただ、父親になる気はないという響生の意思表示にも聞こえた。
「わたしにはパパがいない。でも育ってる」
「……いまはそうかもしれないけど、少なくとも十四歳の夏までは父親がいたはずだ。最初からいないのとは訳が違う」

 響生の云うとおりだろう。ただ、秀朗は忙しいなかでも家にいると環和をかまってくれたけれど、そのぶん美帆子との関係が希薄だった気がする。あれこれかまうようになったのは離婚してからで、それなら片親でもやっていけないことはない。響生から授かった、たった一つの宝物で、響生との時間が確かにあったという証しだ。

「響生は赤ちゃんを殺せって云ってるの? わたしだけじゃ充分じゃないかもしれないけど、足りるくらいにちゃんとやる。響生みたいに飽きたってすぐ冷めてしまう“好き”なんてわたしはわからない。でも、響生が嫌がることをしたくないから……本当に嫌われたくないから付き纏わない。だから、わたしから赤ちゃんを取りあげないで――」
「そういう問題じゃないんだ」
 響生はやっと環和と目を合わせたかと思うと、振り絞るような云い方でさえぎった。
「じゃあ……どういう問題なの?」
 環和が訊ね、響生は飛びだしそうになる言葉を歯を喰いしばって抑制した。
 飽きたと云えたのに、そして子供を堕ろすようほのめかして残酷になれたのに、いまの問いに答えられないような何があるのだろう。いくら待っても響生の返事はない。

「ママはああいう人だから通じ合えない。わたしは素直に好きってハグしたい。響生に会ってそう思うようになった。でも……。パパは本当のパパじゃなかったの。わたしに会おうなんて思うはずなかった。響生もいなくなって、もうわたしが素直に抱きしめられるのは赤ちゃんだけで……」
 話している間に響生は驚愕の面持ちに変化(へんげ)し、環和を射貫くように見つめた。環和は尻切れになって口を噤んだ。
「知ってたのか」
 それが声になった意識はあるのか。呆然として響生はつぶやいた。

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