NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#8

    *

 七月も終盤に差しかかり、昼間はアスファルトの照り返しがきつい。太陽の光はちくちくと刺さるようだし、地上はさながら蒸し器の底に立っているみたいだ。
 梅雨時期の雨傘のかわりに日傘を差して、環和はラハザに向かった。近づくにつれ、へんに鼓動を意識してしまう。気持ちはためらっているのに、脚が勝手に進んでいく。心身はともに環和のものであるはずなのに意思疎通がなっていない。
 一カ月ぶりにラハザに来たいま、始めてここに来た日と同じように無謀なことをやっていると不安になる。通りすがりの人に不審に思われるくらい、環和はインターホンの前に立ち尽くしていた。

 一昨日の夜、恵に電話して、響生がラハザにいる日を教えてもらった。できれば友樹がいないほうがいいと云ったら、ちょうど大学の試験中でバイトは休んでいるらしい。二年前は自分もそうだったのに、大学のサイクルをすっかり忘れていた。
 響生がいるのは間違いない。だからこそ、たった一つボタンを押すだけのことをためらう。
 けれど、やっと会う口実ができて、これを逃したら本当に会えなくなってしまう。そんな強迫観念に背中を押され、環和はスイッチを押した。

 こっちの姿はモニターに映っているはず。響生はどう思うだろう。うんともすんとも答えはない。予定が変わって出かけたのだろうか。いや、それなら恵から連絡が入るはずだ。
 そんな二進(にっち)も三進(さっち)もいかないことを無駄に考えながら待っているとまもなく、ぷつっと繋がった音がした。
「はい」
 たった一語の応答は素っ気ない。それだけで環和だとわかっている証拠になる。
「響生、開けてくれない?」
 ちゃんと云ったつもりが、思った以上に環和の声はおぼつかない。これでは未練がましいと思われてしまう。実際そうだけれど、響生からすればうっとうしいにちがいなく、環和はひとつ息をつき、逆に息を呑んだ。
「話したいことがあるの」
 今度はしっかりと云えたはずだ。

 響生はすぐに応じず、それは何を意味するのだろう。響生、とたまらず発しそうになったとき――
「もうすぐ来客がある……恵が来るから帰ってくれ」
 わざわざ恵が来ると云い換えたのは、環和が恵との関係を知っているとわかったうえで、そう云えば傷ついて帰るだろうと思ってのことか。
「青田さんは来ない。わたしが頼んだの」
 インターホンは切られてしまうかもしれない。沈黙したままの時間はいつまで続くのだろう。祈るような気持ちでいると、不安と焦りのせいか、気温とは逆行して休息に体が冷えていくような感覚に陥った。
 環和はくらっとした感覚に襲われ、倒れる寸前、その場にしゃがみこんだ。

「環和!?」
 インターホンから叫ぶような声が聞こえた。
 やっと応じてくれたのに、立つ力が不足しているどころか寝転がりたいほど気だるい。ぷつっと通話が切られたことがわかっても環和はどうしようもなかった。まもなくすると、耳鳴りがしてくる。体調が悪いのだとようやく自覚したとき、ほんの傍で金属音がぼんやりと聞こえ、手に握っていた日傘が奪われる。
「環和、どうした?」
 耳鳴りは足音だったかもしれない。かがみこんで問いかけたのは響生に違いなく、けれどせっかく傍で聞けた声も分厚い窓越しに話しているようにこもっている。

「貧血、かも……」
 かぼそい返事をすると、舌打ちが耳もとに聞こえた。
「長く外にいたんだろう」
 響生は責めた声で云い、かと思うと、運ぶぞ、と声をかけた。そうして環和は慎重でいながら素早く躰をすくわれた。
 重たいだろう。そんな気遣いをする余裕もない。響生にしがみつけば、そうしたいと思っていた環和の望みが叶い、響生もらくになるだろうに、ぐったりとして躰をゆだねることしかできなかった。

 家に入って靴を脱がされたあと、響生はそのまま階段をのぼっていった。ソファにおろされ、横になったとたん、空調設備が整っていながらも煙草の薫りを感じて、環和はゆっくりと吐息を漏らす。それだけでらくになれた気がした。
「響生……」
「ちょっと待ってろ」
 響生の足音が遠ざかり、こもった音がしたあとまた戻ってくる。
 上体を抱き起こされて、水だ、とくちびるにペットボトルの飲み口が当てられた。少し飲んで、わずかに顔を逸らすとペットボトルは離れていく。環和はまたソファに横たえられた。
「響生、行かないで」
 響生が首の下から腕を抜きかけたとたん、環和は口走った。気だるい手を上げ、精いっぱいの力で離れていく手をつかんで引き止めた。
「熱中症かもしれない。病院に行ったほうがいい……」
「わたしはそんなに弱くない。赤ちゃん、いるから……」
 つぶやくように云い訳をすると、つかんでいた大きな手が環和の手を痛いほど握り返した。

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