NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第4章 ミスリード〜恋いする理由〜

#6

 爪先立ちが限界になって環和が踵をおろすと、必然的にキスは終わる。
「あとで話そう」
 響生は昨日と同じことを云う。きっと、今日会えて変わらない気持ちを確かめ合えたように、今度もそうだと保証してくれたのだ。
「うん」
 響生はなんらかを刻みつけるように環和を見つめる。そうして小さなため息をつくのと同時に、彫刻像が息を吹き返したように響生は一歩下がった。そうすれば環和がついてくることを知っているかのようで、響生は背中を向けたあとは振り向くことなく出ていった。

 玄関に立ち尽くして、リビングに戻るまでどれくらいたったのか。
「いま何カ月なの」
 再びソファに座って本を開いていた美帆子は、振り向くなり環和に問いただした。その面持ちには頑固さがくっきりと表れていた。
「……もうすぐ三カ月」
「娘を疵物(きずもの)にするなんて」
「結婚するんだから疵物じゃない」
「結婚は許さないって云ってるでしょう」
「だって赤ちゃんがいるし……」
「堕(お)ろしなさい」
 淡々とした声で信じられない命令が放たれた。
 環和が目を見開いて、その衝撃的な言葉を理解している間、美帆子は一寸も視線を逸らさず受けとめていた。命を絶てと云った重みも感じられなければ、少しの後ろめたさも感じていない。

「わたしの赤ちゃんで、わたしが産むの! ママには関係ない! 許してくれなくってもいい……」
「響生の赤ちゃんでもあるわ。響生が産むなと云っても独りで勝手に産むの?」
「響生はそんなこと云わない!」
「いまはそうでもわからないわよ、一週間後は」
 美帆子はわからないと云いつつ、響生が心変わりすると決めつけている。そんなふうに感じた。響生から保証をもらったはずが、そんな環和の力の素(もと)は早くも萎(しぼ)みそうになる。
「……響生が知らないことって何?」
「あなたが知らないことよ」
 美帆子とはいつも会話にならない。噛み合わせが悪ければ顎が軋み、放っておけば歪んで土台ごと砕ける。いま土台が崩れかけているんじゃないかと環和は思った。

「スマホ、返して」
「預かっておくわ」
「響生はちゃんとママの言い付けを守るよ」
「そうかしら」
 少しも信用していないといった気配が声に滲みでている。昨日の今日で響生が環和と会ったことを云っているのだろう
「今日は、ママの言い付けよりもわたしと話すことを優先してくれただけ。今度は、ふたりでいられるようにママの言い付けを守るつもりなの。それもわたしのため。そうわかるくらい、わたしはママよりも響生のことをわかってる」
「環和、それは奥手な子がはじめての恋に舞いあがってるときの発言そのままよ。巧みな男の手のひらの上で転がされてる。早く目を覚ましなさい」
 美帆子の云う男が例えば、勇だったら疑心暗鬼になるかもしれない。けれど響生は、会ってはじめの頃は受け身でいた。期待させることはなかったし、嘘も吐かない。いまみたいに不安になっても疑ってはいない。

「表面上の付き合いしかしなくて、人を好きになったことのないママにはわからない」
「表面上? それはほとんどの人がそうだと思うけど。環和、あなたが不細工な子だったら、響生はあなたを選ぶかしらね」
「ママ、不細工とまではいかなくてもわたしは平凡で詰まらない顔をしてる。顔で選ぶんだったら響生は奥沢京香と付き合ってる。京香も響生を好きみたいだから」
 昨日、京香が云った“わたしじゃなくて環和ちゃんだった”という言葉は、好きという前提のもと発せられたに違いない。いま頃そんなことを確信しながら環和が呆れつつ一笑に付した次には、美帆子まで呆れたように首を横に振る。
「環和、鏡を見てないの? あなたは醜いあひるの子でもなんでもない。そうしないために水谷秀朗を選んだんだから」

 環和は二重の驚きを持って美帆子を見つめた。
 自己卑下率が高い。響生は環和のことをそう云った。そのとおりで、どれ一つを取っても自慢できることがないままこれまでやってきた。思えば、そう考えるようになったきっかけは美帆子だ。美帆子が自分の娘であることを隠すよう云ったとき、否定されたように感じていたかもしれない。その美帆子がいまになって環和を肯定するようなことを云う。
「ふざけないでよ。ママはいつも周りを振りまわしてばっかり! そういうの、もううんざり。わたしはもう云いなりにはならないから」

 環和はぷいっと顔を背けた。
 キッチンに行って冷蔵庫を開けると、憶えのないラップをかけられたプレートやらプラスチック容器が入っている。
「そうそう、美野(みの)さんに来てもらって夕食を作ってもらってるわ」
 美帆子が自分でするはずもなく、わざわざ家政婦を呼んだらしい。
「わたしはスパゲティの残りでいい」
 子供みたいな反抗だろうがかまわず、環和はスパゲティの残りを取りだして電子レンジの中に入れた。
「スマホ、取りあげるのはいいけど、固定電話ないから。一週間、ママもわたしとは連絡が取れないし、具合が悪くて倒れても救急車を呼べなくて、ママが帰ってきたら死体発見てことになっても後悔しないで。いっそのこと捨てちゃえば」
 投げやりに放ち、そうしてレンジ音が鳴ったとたんカウンターにスマホが置かれた。

「一週間は安西響生を信用してあげるわ」
 美帆子は何が効果的か承知のうえで云っている。遠回しに、響生から連絡が来たり会いにきたりしたら、下らない男だという烙印を撤回する機会は永久にないとほのめかしているのだ。
「わたしはずっと信用してる。わたしがそのままでいられるのは独りでいるときと、響生といるときだけだから」
 目を逸らしたら負けだ。そんな感覚のもと、睨むように美帆子の瞳一点を見つめた。その焦げ茶色の瞳だけは生まれたときから変わらず本物で、環和が受け継いでいる。美帆子は反論も否定もすることなくくるりと背中を向けた。なんの根拠もないけれど、環和はうまくいきそうな気になった。

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