NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第4章 ミスリード〜恋いする理由〜

#5

「おれが写真集を提案したのは、有力な実績と名声を得るためで、真野美帆子からすれば本意じゃなかった。おれが快く思われていないのは当然だ。環和はおれとお母さんが一緒にいるところを見たくないだろうけど、話さないわけにはいかない。過去のことじゃなく、これからのことだ。だから、環和も一緒にいてくれ」
 響生の眼差しは思いつめたようにも見える。
 美帆子の気持ちなど放っておいて勝手にすることは簡単かもしれない。環和はたったいままで充分その気だった。響生はけれど、結果はどうであれ筋を通そうとしている。そう知ってみると、響生がふたりのことに関してはけっして尻込みしないと証しを立ててくれたと感じて、環和は一段と心強くなった。

 そして、環和は響生の言葉からふと訊ねておくべきことを思いだした。
「響生、一つ訊いていい?」
「ああ。なんだ?」
「響生は……わたしが真野美帆子の娘だって知ってた?」
「知ってたら門前払いしてる」
 何事かと全神経を集中してかまえていた響生は、力が抜けたような様子で苦笑いをした。その反応が演技なら、美帆子も立つ瀬がないだろう。
「ママは響生が財産を狙ってるって云うから訊いてみただけ。この顔でママと似てるって思う人いないし、響生は充分贅沢してるし、そんなの関係ないのに」
「そう思われてもしかたないことをしてる。環和、おまえ一人っ子か?」
「そう。どこかに隠し子がいないかぎり」
 響生は環和の返事を聞いて可笑しそうにする。けれど、やはり長続きはしなくてすぐ真顔に戻った。

「財産の問題は、おれがタッチできないようにどうにだってできる。妊娠してることは話した?」
 環和は首を横に振った。
「話したら云われることはわかってるから」
 響生はため息をつきながらうなずいた。
「お母さんはどこにいる? 仕事中か?」
「ううん。明日から舞台で大阪に行くけど、今日はうちに居座ってると思う……あ、わたし、スマホを取りあげられてるの……」
「わかってる。何度か連絡したけど、繋がらなかったからたぶんそうだろうと思ってここに来てみた。大女優が変装してまでファッションビルに来るとは思えなかったし……」

 響生は中途半端に言葉を切った。明らかに何かを云いかけてやめたように見えたけれど、環和が促すように首をかしげると、響生は肩をすくめて続ける気はないことを示した。
「聞かないほうがいいことなら聞かないことにする」
「利口だな」
「響生が会いにきてくれてうれしい。そう思うのも利口? おバカじゃない?」
「その答えは環和しか出せない。あえて云うなら、おれの返事はわかってるはずだ」
 云ったあと響生はため息をついて、はっきり云えないことばかりだ、ともどかしそうにつぶやいた。
「面倒だって思ってる?」
「面倒なのはおれがやってきたことだ。行こう」
 響生は出し抜けに話を打ちきり、環和の手を離すと正面を向いて車のエンジンをかけた。
「行こうってどこに?」
「環和のマンションだ。お母さんがいるんだろう」
「話すって今日? いま?」
「先延ばしにしたって意味がない」

 目を丸くした環和を横目に見て、響生は首をひねった。
 美帆子はとても認めてくれる気配ではなかった。けれど、環和と響生が同じことを望んでいる以上、認めてもらわなくてもいい。知らせるという義務さえやり遂げたのなら。
 環和はうなずいた。
 笑うと、響生も釣られたように薄く笑い、それからシートベルトを装着する環和を手伝う。金具を固定したのと同時にペタッとくちびるがくっついてきた。環和のくちびるが綻び、響生は名残惜しいように吸着して離れていった。
「嫌と云うほど時間はある。続きはあとだ」
「全然、嫌じゃない」
 環和が即行で抗議すると、そのとおりだ、と響生は口を歪めながら云い、前を向いて車を発進させた。


 マンションの最上階に上がるにつれ、緊張も増していく。なかに入れば美帆子のハイヒールがあって、帰っていないと明確になった。環和は複雑な気分になる。いなければいいのに、とそんな本音が潜んでいたことを、自分のことながら環和はここに来て知ることになった。
 靴を脱ぐのが億劫に見えたのかもしれない。廊下に上がると響生が背中に手を添え、ぽんぽんと励ますように軽く叩いた。見上げると、響生の顔に緊張した様子はない。それだけの決意のもと、響生はいまここにいるのだ。何日も待たせることのなかった響生の覚悟をあらためて見た気がして、環和は声には出さず、大丈夫、と口を動かした。響生はしっかりとうなずいて見せ、環和の背中を押した。

 入ったリビングは静かだった。テレビもつけず、美帆子は少しうつむき加減でソファに座っている。二つの足音を聞きとっているだろうに背中を向けたまま振り向きもしない。
「ママ……ただいま」
 何年かぶりで云った言葉は痞えた。慣れていないということばかりが原因ではない。
「お客さまかしら」
 そう云った声は刺々しい。
「失礼します。安西です。少し話をさせていただけませんか」
「一切、娘には近づくなと云ったはずだけど」

「十年前のことは環和さんに話しました。昔、僕が強引にやったことは謝ります。ですが、環和さんのことはいろんな意味で引き返せません。昔のことで、そしてこれからのことで、あなたが怖れていることは契約書でもなんでも用意していただければ、僕は受けます。ただ一つだけ、環和さんを僕にください」
「引き返せないってなんのこと?」
 美帆子は響生の言葉に被せるように云い、手にしていたのは台本だろうか、ソファに放りながらすっくと立ちあがって振り向いた。じろりと環和を見て、それから響生を見据える。
「気持ちのことなら離れていれば冷めるわよ」
「逆に、そんな保証はどこにもありませんよ。それに、引き返せないのは気持ちだけじゃないんです」
「どういうこと?」

 美帆子は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。通常ならしわを気にして絶対にやらないしぐさだ。そう思うと不思議だった。これほどまでに美帆子が人を嫌うなどなかった。人を観察はするけれど、その人自体には無頓着なのだ。それなのに、響生に対しては容赦のなさを越えてはっきり拒絶している。

「子供がいるんです。昨日、ふたりで病院に……」
「子供ですって?」
 美帆子は響生をさえぎり、環和に目を向け、その眼差しは射貫くようだった。
 環和は一つ息を呑み、それから無言の問いかけにこっくりとうなずいて答えた。
「おなかに赤ちゃんがいるの。ちゃんと結婚して産みたいから……」
「だめよ、子供なんて! 許されないわ!」
 美帆子の声は部屋中にヒステリックに響き渡った。
 こんなふうに声を張りあげる美帆子を見たのは役柄のなかだけだ。
「許されなくてもわたしは赤ちゃんを産むし、響生と結婚するの。ママ、ちゃんといまの響生を見て……」
「だめなものはだめなの!」
 ぴしゃりと云って、美帆子は響生に目を転じた。その視線もきっとしている。

「僕は十年前のようなことは二度とやりません。ただ、環和さんを大事に……」
「やめてちょうだい。響生、あなたは何もわかってないんだから」
 美帆子の口から出た『響生』という呼びかけは妙に艶めかしく、なお且つ環和の与り知らない親密さを感じた。
 環和と同じように感じているのか、それとも本人だから気づかないのか、今度は響生のほうが険しく眉根を寄せた。
「なんのことです?」
「手遅れになるまえに話すべきときが来たんだわ! でも、いまはだめ。大阪から帰ってくるまで待ってちょうだい」
 美帆子は芝居がかっていて、本心がまったく読めない。
「話すべきとき? いまでもかまわないですよ。それはどう穿っても僕たちふたりに影響してくる話なんでしょう?」

 美帆子はきっぱりと拒絶を示して首を横に振る。
「いいえ、まずあなたが知るべきよ」
「僕は環和に隠し事はしたくない。僕が知るべきことなら環和にとってもそうだ」
「それは、あなたが知ってから判断しても遅くないと思うけど。こうやって環和の前で云ってるわけだし。一週間くらい待てるでしょ。その間、環和には会わないで。約束できないなら、あなたが知るべきことを教えないし、結婚なんて言語道断よ」
 美帆子はイエスという答えを聞くまで放さないといった様で響生を睨めつける。
 思わず環和が響生を見上げると、響生もまた環和を見下ろしてくる。目と目が合い、なされたのは無言の会話ではなく、不安の分かち合いだったかもしれない。不安が色濃くなるまえに、響生は瞬きをするのと同時に不安を掻き消していた。かわりに力強く語りかけるような眼差しが向けられた。その意味することが察せられないほど、響生との関係は薄っぺらなものではない。

「わかりました。環和、そこまで送ってくれ」
 響生は美帆子が止めないことをわかっていたのか、射るような視線は相変わらずだが、美帆子は口を出さなかった。
 ふと環和のおなかに美帆子の視線が落ち、すると、おかしなことに環和は怯えたような、まだ感じるはずのない胎動を感じた。
 ぎくしゃくした脚を無理やり一歩ずつ運んで響生と玄関先に行く。
「環和」
 靴を履いた響生が環和を振り向く。
「……大丈夫?」
 そう訊いた環和の声は驚くほどかすれていた。
「おれが疾しいと思うようなことはすべて話した。ここに来るまえ云ったとおりだ。環和、これから嫌というほど時間はある」
 にやりとした響生は、その言葉どおりに曇りなく見えた。一段上にいる環和はとっさに伸びあがる。車の中で響生がしたように今度は環和がぺたっと口づけた。

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