NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第2章 不可視の類似

#3

 響生はさっさと背中を向けて撮影スペースに入った。
 半ば呆然としてその後ろ姿を見ていると――
「コーヒー、ありがとう。美味しかったよ」
 と、響生とは真逆の穏やかな声がして、環和の肩にぽんと手が置かれ、離れていく。
 パッと声のしたほうを振り向くと、勇が覗きこむようなしぐさをして笑顔を向けた。もちろん、肩を叩かれたのは環和なのだから、笑顔を向けているのも環和に対してだろう。驚いて何も返せないうちに、ふっと吐息のような笑い声を漏らした勇は、響生のあとをたどるように立ち去っていった。

 無自覚にその背中を追っていくと、その向こうにいる響生と目が合った。すると、それが何かまずいことのように、あるいはそっぽを向くようにして環和から目を逸らした。
 響生が不機嫌なのははっきりしている。素っ気ないことはあっても、不機嫌になるなどいままではなかったと思う。
 意味わかんないんだけど。
 環和は内心でぼやきながら、響生の背中に向かってくちびるを尖らせた。

「さすがなのか、スマートな人ですね、琴吹さんて」
 はい、これ、と、友樹はスタッフから引き取ったのだろう、心底から感心している様子で云いながら、環和が持つトレイに空っぽのカップを二つ置いた。
「え?」
「さっきの肩ポンですよ。琴吹勇にそうされて喜ばない女性はいないと思いますけどね……」
 最後のほうはうわの空といったように友樹の言葉はぼやけてしまう。まじまじと環和に見入った友樹は、その視線のさきを見やり、次にはからかうように見開いた目を環和に戻した。
「あ、いましたね、ここに確実に一人」
 否定はしないけれど、認めるには訳のわからない響生の態度が癪に障って素直になれない。友樹に意地を張ったところで無意味だけれど。

「少しはときめいたかも。わたしなんかにも愛想がいいって、売れっ子っぽくない感じ」
「人気が出て調子に乗る人ではなさそうですね。撮影が始まるとき、僕にも挨拶してくれたんですよ。けど……」
 と、何気なくバックスクリーンのほうを見た友樹はまたもや曖昧に終わらせ、あ、と別のことに気を取られた様子だ。
「友樹くん?」
「雑談はこのへんにしないと。身に覚えのないことでとばっちり喰らうのはごめんです」
 友樹はにやりとして意味不明なことを云い残し、響生のところへ向かった。

 釣られたように環和は友樹を追いながら響生を視界に捉えたが、カメラのセッティング中でうつむきかげんの後ろ姿しか見えない。
 しばらく見守っていたが、環和の視線はまったく響生のアンテナに響かない。がっかりしたのか、不機嫌さに合って戸惑うということがなくほっとしたのか、環和はどっちつかずのため息をついたあと、もやもや感を吹っきるように打ち合わせスペースに向かう。
 カップをすべて引いて、給湯室で片づけをすませたあと、環和はスタジオに戻った。

 撮影はすでに再開されていて、環和は足音に気をつけて近づき、響生を斜め後ろから見える位置へと移動した。
 勇はポーズを様々に変化させ、羽織るものを変えたり、小物を持ち変えたりと、いったい何枚撮ればいいのか、いつものごとく呆気にとられるほどシャッター音が鳴る。
 呆れはするものの、連続するシャッター音は聞いていて環和の耳に心地がいい。それに、カメラからふっと被写体に目を上向けるときの響生のしぐさはうっとりするくらい好きだ。鋭くて、真剣で、なお且つまっすぐな眼差しがほかを寄せつけない気配を醸しだす。もっと云うなら、邪魔を許さないという、独占的な抱擁のようだ。
 ただし、その対象が環和にとってのライバルとなると――例えば女性だと、ジェラシーなんていうよけいなものまで感じる。玉に瑕(きず)だ。

 はじめて会ったとき、きれいなものはきれいに撮れてあたりまえという、環和のくだらない云いがかりのもと、響生は『撮られてみる?』と環和の挑発に乗った。気が向いたら、という消極的な言葉が付け足されたとはいえ、いまだに実現していない。
 じっと見つめられるのはどんな気分だろう。
 クレバーの広報担当者やスタイリストが見守り、撮影スタッフもせわしく動きまわっているなか、環和は心ここに在らずで不埒なことを想像した。

「ジャケット、オープンで」
 シャッター音の合間に響生の声が飛んだ。京香に対してはなかったポーズの要求がスタジオ内ではぽんぽんと飛びだしている。それは、時間を切り取る撮影と、一瞬を印象づけるための撮影という違いだろうか。
 響生の端的な指示はシャッター音とリンクしながらリズム的で、勇もごく自然に対応している。もっとも、撮る側も撮られる側もプロだから、阿吽の呼吸みたいな仕事ができないほうが問題だろう。

「環和」
 何回めかの着替えで撮影がストップしたとき、ふと響生が環和を呼んだ。ずっとバックスクリーンに向かっていたのに、振り向いた響生はまるでどこにいるかわかっていたみたいにピンポイントで環和を捉えた。
 来いという気配を感じて、環和は響生のところに近寄った。
「何?」
「スーツで若いヤツ向けのくだけた恰好を撮りたい。どうする?」
 響生の問いかけは唐突で、一瞬、環和は頭が働かなかった。「えっと……」と時間稼ぎをしながら急いで思考を巡らす。
「クレバーのスーツは仕立てがいいから動きやすいって聞くし、しゃがんでみたら? あと、夏向けだったら、片方の手は腿に肘をついてパナマハットかストローハットか、人差し指に引っかける。もう片方の手は腿に置くだけだったり、スマホ持ってたり、若い人向けだったら生意気に挑発する感じでもいいと思うけど」
「なるほど。あと三十分したら終わりだ」

 何かしら役に立ったのか否か。環和が空気を読める人間だということを響生はありがたく思うべきだ。そんなことを云いたくなるような追い払い方だった。空気が読めると自分で思った手前、クライアントがいるこの状況で文句は云えない。環和は、はい、と従順に引きさがった。
 その後、環和が挙げたイメージは参考になったらしく、云ったとおりの恰好も交えて撮影が続いた。
「オッケー」
 どれくらいたったのか、響生は手を止め、そして躰を起こした。

 環和は命令が下るまえに給湯室へ行って、今度はお茶を用意する。打ち合わせがどれくらい続くのか、時計を見れば六時をすぎていた。
 今日はどれくらい響生とふたりですごせるだろうと思いながら、環和は打ち合わせの席にお茶を出した。そして、派遣スタッフと友樹が機材を片づけているのを手伝いにいく。気がきいているわけでも、いい顔をしたいわけでもなく、響生と少しでも長く時間をすごすためという下心があってのことだ。

「きみ、ここでアルバイトしてるんだ?」
 絡んだコードをほどいていると、ふいに傍に人影を感じた。しゃがんだまま見上げると、背が高いからずいぶんと上に顔がある。それは声で判断したとおり勇だった。

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