NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

Outro 呪縛はあとのお楽しみ

1.二十四番め

 森のなか、木々に囲まれた原っぱは、穏やかな日和と相まって和気あいあいとした時が流れていた。凪乃羽にとっては今日が初見の上人もいる。けれど、気心が知れた間柄のように居心地は申し分ない。風に葉がそよいだり、水のせせらぎだったり、それらが癒やしをもたらしていることも心地よさの要因だろう。
「んー、いい香りですね」
 茶器に鼻を近づけ、ランスとタワーが口をそろえて云い――
「これ、本当に飲めるの? 腐りきった色にしか見えないけど?」
 ラヴィは難癖をつけて茶器を覗きこみ――
「不思議なものだな。香りと味が合っていない」
 茶器に口づけて中身を舌にのせたハングは宙を見て味わう。
「こういうのを美味しいって云うの?」
「苦くて飲めないや」
「ほんと、皇子の好み、ヘンじゃない?」
 それぞれが感想を述べ、締め括りに永遠の子供たちがばっさりと切った。
 それがあたりまえにあった世界では聞けなかった、『腐りきった色』という表現には笑わせられる。黒い飲み物はシュプリムグッドに存在しない。葡萄酒も黒に近く濃い色だけれど、光が差せば葡萄の色が透けて見える。
 好んでそれを口にしていたヴァンフリーは、可笑しそうにして薄く笑った。
「少しもヘンじゃない。向こうでは、香りだけで気分をよくする効果があると云っていた。おれも香りに惹かれて飲み始めた」
「そうよ。これを楽しめないなんて悲劇だわ。そのうち慣れたら、逆にやめられなくなるの、きっとね」
 フィリルがヴァンフリーの加勢をして希望的観測を宣言した。
 凪乃羽が生まれ育った世界にあたりまえにあった珈琲の木は、通常は成木になるまでに数年かかるところをランスとタワーによって急速に成長させられた。実は赤く色づいて、もう収穫まで漕ぎ着けた。
 珈琲の実から豆を取りだして天日干ししたり焙煎したり、時間のかかる様々な工程はほぼ上人たちの力を借りた。そうして、レーツェルの泉を前にしてお茶会を開くに至っている。天然の緑の絨毯に腰をおろしたり、立ったままだったり、上人たちは思い思いに満喫している様子だ。
「ですが」
 と、立ったままのランスは困った顔で、地に座りこんだフィリルを見やる。
「なあに?」
 フィリルが問うと、ランスは収穫した実の残りが入った籠を覗きこんだ。
「珈琲の実はあとこれだけですよ。味に慣れるためにはもっと多く豆が取れなくては。珈琲の木、一本から取れるのは一人当たり二杯分でしょうか」
「ランス、だったら木を増やしましょう。単純なことよ」
 フィリルは上人ゆえなのか、知未だった頃には考えられない気軽さで提案を出した。
 ランスとタワーは上体をのけ反らせるように顔を引き、滑稽なほど困惑ぶりをあらわにした。
 実のところ、はじめて珈琲の木を育てるに当たって、ランスとタワーは枯れないように、あるいは早く成長するように、ローエンを巡る騒動の裏で付きっきりで世話をしていた。寒暖の調整など試行錯誤があり、単純ではなかったことをついさっき聞かされたばかりだ。
「ついでに、民にも伝授したらどうだろう」
「あら、それはいい考えね。さすが、わたくしの息子だわ」
 エロファン、そしてエロファンを褒め称えた母親のストンは確か食物を統べる上人だ。
 民の間では、フィリルとワールが姿を現したという噂が巡り、呪いも含めて上人たちの異変はだれかの悪戯な噂話だったと解釈され、城下町にはもとのにぎわいが戻ったという。いまに限っては、お祭り騒ぎのように浮かれた雰囲気もあるようだ。そこに、上人からの新しい食の贈り物となれば楽しみが加わり、さらに心も躍るだろう。
「そうしたら、ランスもタワーも助かりますね」
 凪乃羽の言葉に、ふたりはそろってこっくりとうなずいた。育てるのはやはり面倒だったのか、それとも神経をすり減らす作業に辟易しているのか、その様子は大真面目で乗り気だ。
 水のせせらぎと笑いさざめく声が混じり合って、長閑な音が奏でられる。
「凪乃羽、さっそく民を利用する気か。確か、上人は面倒くさがりでわがままだと云っていたな。面倒なことは民に任せると?」
 最後、ヴァンフリーはあからさまに揶揄する。
 凪乃羽はすぐ隣を見やってかすかに口を尖らせた。
「面倒くさがりなんて云ってない」
「思ってるだろう」
「そんなことない。面倒くさがらずに、ヴァンはわたしの気分ややりたいことに付き合ってくれた。子供たちもランスもタワーも」
 凪乃羽が弁明しているうちに、ヴァンフリーは堪えきれないといった様で可笑しそうにした。
「云い訳をしなくてもわかっている。単純に珈琲が広まればいいと思ったうえで、ランスとタワーの労力に配慮したにすぎない」
「……わかってからかってる?」
 ヴァンフリーはにやりとして、無言のうちに認める。
「そういう睦言は閨(ねや)でやったら? ヴァンフリーが無駄に傷を負うくらい、ばかみたいに愛があるってことは見せびらかさなくても、うんざりするほどわかってるから」
 ラヴィらしく、つんとした云い方はいくつもの失笑を誘う。凪乃羽が戸惑う横で、ヴァンフリーは平然と鼻先で笑ってあしらった。
「ねぇ、この珈琲ってさ、ローエン皇帝に飲ませたらどうなんだ? 気分よくなるんだろう」
「しっ。サン、皇帝の名前は……」
「サンもムーンも、きっと名前を云っても大丈夫。だって、ローエン皇帝は玉座から動けないんでしょう? ね、皇子」
 スターから答えを求められたヴァンフリーは肩をすくめた。
 ヴァンフリーが流した大量の血は幻想だったのかと思うくらい、翌日、傷を見たときにはきれいにふさがっていた。それが凪乃羽の力だと云われても、実感はまるでない。きょとんとした凪乃羽を見てヴァンフリーは笑っていた。
「そのようだな」
 凪乃羽を流し目で見やったヴァンフリーは、何か云いたげにくちびるを歪めた。明らかにおもしろがっている。
「力の使い方がわからなくて、そのままになってるだけ。いつか解けたときが怖いかも」
 凪乃羽は冗談半分でおどけて肩をすくめる。半分は本気でそんな不安を抱えている。
 何もかもが明らかになったのは、たった二日前のことだ。ローエンが父親だとわかっての様々な衝撃は薄れつつも尾を引いている。
 民にとどまらず上人からも怖れられている、あるいは嫌われている人が父親だった衝撃は、薄れても事実は変わらない。凪乃羽自身が忌み嫌われていないとしても、生まれた経緯は、ローエンが残忍で身勝手で最低な気質だという証明でしかない。ヴァンフリーははじめからそれを知っていて、それでも凪乃羽を守って――身を挺してまで守ってくれたこと、それ以上に“愛のもと”に子供を授かったことで、凪乃羽まで疎んじられる対象とはならないことを教えてくれた。
 フィリルとエムの凪乃羽に対する接し方も衝撃をなだめた。
 いまウラヌス邸にはフィリルがいて、そのフィリルを追うようにエムがいて、またそのエムを追ってハングがいる。三人ともローエンを憎んで当然だ。それなのに、凪乃羽を交えて話しているときにも邪険にすることがない。むしろ、シュプリムグッドでどうすごしてきたか、地球でどうだったか、女ばかりだと特にそんな会話が弾む。ヴァンフリーに云わせれば、会話というよりは“お喋り”だそうだ。
 この二日の間にいろんなことを考えているけれど、最も尾を引いているのは、ローエンが凪乃羽の父親であることは永遠に、まさに永遠にそれは変わらないということだった。
 父である私を抹殺するのか。ローエンはそう凪乃羽に問うた。だれに対しても抹殺など考えたこともない。ただ、抹殺しないまでも、ローエンはいま身動きができない。影さえも玉座から離れられないのだ。それが解けたとき、ローエンは凪乃羽に、もしくは凪乃羽以外のだれかにどんな仕打ちをするだろう。
「凪乃羽、皇帝への呪縛が解けたとしても大丈夫よ」
 フィリルは根拠が確かにあるかのごとく、凪乃羽を力づける。
「ほんとに?」
「そう。凪乃羽は力の使い方がわからないのではなくて、安心できないから解けていないだけ。皇帝が横暴であるかぎり呪縛は続くし、解けたときも、皇帝に魔が差すようなことがあったらまた凪乃羽によって呪縛が発動される。力とはそういう意思が働いた結果よ」
 フィリルが云ったことは、ひとまず凪乃羽を安心させた。
「つまり、凪乃羽を怒らせないことだ」
「ヴァンフリー、貴方も例外じゃなくてよ? 浮気でもしようものなら、いくら一瞬にして消えることができるとしても、凪乃羽の呪縛にかかったらそれも無理なんじゃないかしら」
 エムは母親ぶりを発揮してヴァンフリーに釘を刺した。
 凪乃羽はヴァンフリーの“失言”を思いだした。不特定多数の女性と関わったことをほのめかしたことがある。凪乃羽は頭を傾け、ヴァンフリーを覗きこんでみた。そうしたところで、ヴァンフリーの思考が見抜けるはずもない。
 逆に、ヴァンフリーは見透かすように笑った。周囲の失笑を耳にしても、それを跳ね返すようにわずかに顎をしゃくってあしらっている。
「母上の云う浮気の定義はわかりませんが、単純に解釈するなら、そもそもだれかに執心したこともない。よって、いかにも浮気の常習者のように云われるのは心外です。凪乃羽には凪乃羽しかなれない」
「まったく、こっちが恥ずかしくなるわ」
 ラヴィが茶々を入れると、フィリルがくすくすと笑う。
「ヴァンフリー皇子の愚か者ぶりは見せかけなのよね。愚かじゃなく、その反対で賢い。そんなふうに演じられるくらい理性的だから、めったなことでは入れ込まない。そうでしょう?」
「それは、凪乃羽に対してそうあってほしいという、母親としての希望なのか?」
「姉としてもね」
「はっ、さすがに姉上だと云っておこう」
「凪乃羽はわたくしの孫でもあるのだから、間違いを起こそうものなら覚悟なさい」
 初見のときにエムから感じた冷ややかさはすっかりなくなった。そのときは、ただ毅然として見えるよう振る舞っていたのだろう。ここでは、凪乃羽はローエンの娘としてではなく、フィリルの娘として歓迎されている。いまのエムの言葉でそんなふうに確信が持てた。
「おれをだれの子だと思っているんですか。数えきれないほどの時を経て、奪い返した男と、それを待ちわびていた女、そのふたりの子供ですよ」
「加えてもう一つ、ヴァンフリーと凪乃羽には離れられない理由がある。フィリル、そうだろう?」
 タロが口を挟み、同意を求められたフィリルはすぐに思い立ったようで、悪戯っぽく笑った。
「はい。すべては天啓から始まったわ。あの日、タロ様が選んだカードは二十三番めで、出たカードはわたし――運命の輪だった。二十三番めは一周して輪にする存在、つまり、〇番と二十三番めは重なる存在で離れられないの」
 凪乃羽が驚く傍らで、ヴァンフリーは興じた気配を消して気に喰わないとばかりに顔をしかめた。
「ロード・タロ、一連の苦難は貴方が仕組んだことだと?」
 ヴァンフリーは二日前と同じようにタロを責め立てた。
 タロは吐息を漏らしてゆっくりと首を横に振った。
「フィリルが見る天啓は私の手を離れている。知っているだろう、私の力は、ローエンが選びあげた上人たちにゆだねた。残ったのは魂のみ、それをワールに宿したのだ。ローエンに対抗するにはそれしか方法はなかった」
「だからといって、凪乃羽とヴァンフリーを利用するなんて、わたしの知っているタロ様ではないわ」
 批難めいたフィリルの言葉がよほど身に堪えたのか、タロはあからさまに肩を落とした。
「どうかしていた。それは認めよう。ヴァンフリーの云うとおり、崖から落ちたあのときのように、私はおまえの傍についていればよかったのだ」
「それなら、最初からやり直すべきでしょう?」
「森に戻ってくれるか」
「区切りがついたら。それでかまいませんか」
 フィリルはちらりと凪乃羽を見やった。どこか思惑ありげだが、すぐにタロに目を戻して悪戯っぽく微笑んだ。ずっと憂いを帯びていたタロの表情はわずかに晴れた。
 上人も、その上にいた神も心情は人と変わりないようだ。
「堕落するべき時がやっと来た」
 感慨深く口にしたタロと違い、フィリルはただ可笑しそうに笑いだした。
「でもタロ様」
 微笑ましいような光景に一件落着といった安堵感が漂うなか、ムーンは不思議そうに首をかしげる。
「どうした」
「ヴァンフリー皇子と凪乃羽の子供は二十四番めだよ。飛びだしちゃいそうだけど」
「なるほど。だが、愛のもとに生まれてくる子だ。輪をそこで結びつけてくれる」
「素敵だわ。それはぜひとも聖典に記しておかなくては」
 ラヴィの母、プリエスが真っ先にはしゃぐような声をあげた。新しい上人の逸話を史上にどう表そうと考えあぐねていた彼女は、いたく感嘆した様子で独り何度もうなずいている。
「いつ生まれるの?」
 スターはムーンに期待に満ちた顔を向けた。
 凪乃羽が身ごもっていることを、いち早く察していたのはムーンだった。月の満ち欠けが人に影響することは、凪乃羽も聞いたことがある。意味深だったムーンの言葉もいまになって符合した。
「生まれてもいいくらい大きくなったら生まれるよ」
 ムーンの答えはいかにも適当だ。凪乃羽の知識によれば十月十日(とつきとおか)だが、それにはおさまらないような曖昧さを感じつつ、ムーンの口調からはそうなる根拠も覗ける。
「ムーン、どれくらいしたら生まれるって決まってないの?」
「わからないよ。上人から生まれた上人はヴァンフリーだけだし、皇帝はハングの子だって最初は知らなかったわけだろう。ハングが囚われたあとに生まれて……民に比べるとずいぶんと遅くに生まれたよ。どれくらいって訊かれても、昔のことだし、わからないけど」
 最後にムーンは、おそらく来るだろう質問を予測し、先回りして答えた。そして、唯一、上人として子を産んだエムを見やると首をかしげた。
 そうして無言の問いを向けられたエムは宙に目をやり、遙か昔のことに思いを馳せ、それからムーンに向かうと同じように首をかしげた。
「そう、フィリルのときよりも、身ごもっていると感じてから胎動を感じたり、おなかがふくらんだり、生まれてくるまでに時間がかかったわ」
「なんだかたいへんそう」
 凪乃羽が戸惑いつつ本音を漏らすと――
「大丈夫」
 と、口をそろえたようにいくつもその言葉が重なった。そのあとには、自分がついてるといった心強くなるせりふが口々に発せられた。
 そのなかでフィリルが慮った様子で凪乃羽を見つめる。
「上人に限って死ぬことはないけど、たいへんなことには変わりないわ。今夜は城下町にお出かけすることだし、ヴァンフリー、凪乃羽は少し休ませてあげて」
「ああ、そうしよう」
 ヴァンフリーは立ちあがり、凪乃羽がそうするのを腕に手を添えて手伝った。
 城下町におりて、民のにぎわいに加わって楽しみたいと云いだしたのはフィリルだ。実際にフィリルとワールが現れれば大騒ぎになりそうだけれど、それさえも楽しむ気だろう。あとで、と言葉を交わしてひとまず別れた。
 永遠の子供たちが道案内を率先して、ヴァンフリーと凪乃羽は一瞬のうちにウラヌス邸に戻った。

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