NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

Outro 呪縛はあとのお楽しみ

2.あらゆる口づけを  act. 1

 閨に入るなりヴァンフリーは嘆息した。凪乃羽は寝台に腰かけて、傍に立つヴァンフリーを見上げる。
「どうかした?」
 ヴァンフリーは身をかがめて凪乃羽の脚をすくい、寝台にのせて横になるように促した。自分は片脚だけ寝台にのせる恰好で腰をおろした。
「やっと静かになった」
「静かに?」
「母もフィリルも、ずっと付き纏ってうるさいだろう。ふたりで落ち着く間もなかった。静かになったと思えば、凪乃羽が眠りに負けたときだ」
 ヴァンフリーはわずかに責めるように云う。
「眠りに負けるのは、ヴァンが子供を欲しがったせい」
「おれはすぐにとは云っていない」
「でも、避けてませんでしたよね」
 凪乃羽が負けじと云い返すと、またもやため息がこぼれる。
 何かと眠たくなるというのは身ごもったことが原因であり、これで身ごもることがなければ授かることはないだろうと思うほど、ヴァンフリーは閨事を欠かさない。それに凪乃羽は応えてしまうのだから、厳密に云えば一方的に避けなかったことを責めることはできない。
「凪乃羽が煽ってくるからだ。おれは抗えない」
 結局はもとに戻って凪乃羽が責め立てられる。
「煽ってません」
「存在自体が煽情的だ」
 凪乃羽にはどうにも手が付けられない言葉が放たれる。それは云った本人も承知していて、ヴァンフリーはやる方ないとばかりに首を横に振った。
「まえにも云ったとおり、切羽詰まることがなければ近づかなかっただろうが、そうでなくても、おれは長く凪乃羽を観すぎた。凪乃羽が近づいてきたとたん、血が滾る、そんな感覚がした」
「それは、わたしとヴァンが単純に四分の一は血が繋がっているせい?」
「血が繋がっていることを引き合いに出すなら、フィリルもそうだろう。だがフィリルに発情したことはない。ただ、上人から生まれたという共通点と血が繋がっていることで確信していたことはあった。おれと凪乃羽なら融合が可能だということだ」
「融合って?」
「躰が熱くなるだろう、その反応だ。フィリルはロード・タロによって地球の人間に魂を宿していただけで、その媒体がなくなれば自ずとシュプリムグッドに戻る。だが、凪乃羽は地球で誕生した。躰ごと、こっちに連れてくる必要がある。そのためにはおれと同じ力が必要だ」
 ヴァンフリーの云うとおり、躰が熱くなると、何かしらの変化が伴っていた。変化というよりは目覚めだったのかもしれない。
「皇帝を呪縛するときも熱くなったの」
「ああ。あれは融合ではなく、凪乃羽が自力で能力を解放した」
「ヴァンがあのまま永遠を奪われて、死んでしまうんじゃないかって思ったから。どうして逆らったり闘ったりしなかったの?」
「あの場面で、おれが皇帝にやられたところでだれも救おうとしなかったからだ」
 ヴァンフリーは理解しがたいことを云う。しかも、その発言から感情を見いだすとしたら、救わなかった者への恨みや批難だろうに、そんなものは微塵もない。
「ヴァン、どういうこと?」
「凪乃羽が上人として覚醒すること、フィリルが眠りから醒めること、その二つは連携していて、それを叶えるためにはおれの犠牲が必要だった。そういうことだろう。結果的に、凪乃羽はおれを守ろうとして皇帝を呪縛した。フィリルは、おれたちが気づいていなかった赤ん坊を守ろうとして目を醒ました。ムーンが云っていたとおり、おれは凪乃羽に、延いては赤ん坊に守られたってことだな」
 ヴァンフリーの説明を聞いているうちに、凪乃羽はタロが云っていたことの答えを見いだした。
「ロード・タロが、ヴァンが危険に晒される条件は一つだって云ってたの。それって、わたしが危険な目に遭えばそうなるってこと……。ロード・タロは……ロード・タロがすべて仕組んでいたことになるの?」
 ヴァンフリーはとたんに顔をしかめた。
 ヴァンフリーにとって必ずしもタロは崇拝する対象ではなく、違うと思えば諌言する。接見の間でタロを問い質したとき、提示された答えにけっして納得しているわけではなかった。
 ローエンの極悪から始まった暗澹(あんたん)たる日々がいったん落着した直後、ウラヌス邸の閨で、血に塗れた服を着替えるなりヴァンフリーは深く息をついた。ふくらんだ風船が萎んでいくような有様(ありさま)で、上人は食べる必要がないほど活力源があるはずなのに、ひどく疲れて見えた。裏を返せば、それほど気を張っていたことになる。そんな事態をもたらしたのは、ローエンはもとより、タロの思惑も加担している。
 今回のことでいちばんの功労者はヴァンフリーにほかならない。相当の重荷を背負っていた。
「ある程度、だれがどう動くか――少なくともおれに関しては計算していただろう。フィリルを慕っていたし、フィリルに何が起きたか、凪乃羽が夢を見たように、おれもロードによって夢を見せられた。加えて、躰ごと地球と行き来ができるのはおれだけだ。逆に、ロード・タロの思惑がなければ、この復讐劇は成り立たなかった。その鍵は凪乃羽で、シュプリムグッドに召還することが前提でなければならない」
 やはり気に喰わないといった面持ちでヴァンフリーの顔は歪んだ。
 ヴァンフリーとタロの溝はどうやったら埋まるのだろう。フィリルとタロ、心を寄せるふたりのこれからのことを考えると、ついそんなことを思う。
「ヴァン、でもロード・タロは少し先のことは考えられても、ずっと未来のことは見通せないんでしょ? 皇帝が未来にやることをわかってたら、皇帝の好き勝手にさせるようなことはなかったと思うし、そのまえに、自分の力を上人たちに分け与えることはなかったと思う」
 凪乃羽が云ったことはなぐさめになったのか、ヴァンフリーの口もとがかすかに緩む。
「ロードも完璧じゃない。無数の戦士を束ねる指揮官として君臨したローエンがそうだったように」
「ロード・タロはどうして力を手放したの?」
「まえに云ったが、永遠だから退屈だということにはならない。だが、それが“独り”では無聊の極み、永遠のさまよい人だ。ともに歩むものが見つかったとしてもそれは一時で、人は死から逃れられず、その死を見届けるしかない。永遠から死はけっして届かない場所にある。見捨てられたような気にもなるだろう」
「そういう思い、ヴァンも経験したことあるみたい」
「ああ。ウラヌス邸を建ててから日はまだ浅いが、セギーの一族との関係は遥か昔から続く。数知れず、死を見届けてきた」
 幾度、死に別れを重ねても慣れることはない。ヴァンフリーの声がそう物語っていた。永遠とは切ない。そんなランスの言葉を思いだしながら、凪乃羽はヴァンフリーの膝に手を置いた。ヴァンフリーは薄く笑い、その手に手を重ねる。
「凪乃羽もいずれ経験するだろう」
「いまは考えない」
 ウラヌス邸のセギーをはじめとした使用人や仕立屋のバト夫婦、彼らがいなくなる日が訪れるなど考えたくもない。
 凪乃羽が即座に応じると、その意は丸わかりなのだろう、ヴァンフリーは可笑しそうにした。
「とにかく、ロード・タロにとって才のあるローエンは頼もしく映っただろうし、友として不足はなかった。その才覚も不要になれば、孤独のもと愚かにもなれる。ローエンだけではなく、ロード・タロも然り、孤独は時に愚かな暴走を発揮する。そう証明した」
「孤独って、皇帝にはエム皇妃も、ほかにもお城で一緒に暮らしているのに?」
「一人ではないから孤独ではないとは限らないだろう。現に、ローエンが本音を云える相手はいない。いちばん身近にいた母にさえもそうだ。もっとも、ローエンが母に心を砕くはずもない。母を手に入れても、それはその身を奪っただけで心までは得られない。簡単明瞭なことだ。たとえ、母の気が変わり、ローエンを受け入れたとしても信じきれないだろう。無理やりハングから奪った代償だ。推測すれば、その愚かな所行は、母が手に入らないなら母の娘を――即ち、フィリルを奪うに至り、結局はロード・タロから奪うという、同じことを繰り返したにすぎない」
「フィリルは――お母さんはエム皇妃が母親だってことを知らなかった。皇帝は、ハングの娘だから引き取らなかったの?」
 エムは凪乃羽の祖母に当たるが、エムの許可を得ていてもそう呼称するにはまだためらいがある。それ以前に、フィリルをお母さんと呼ぶことにも戸惑っている。
 フィリルでさえ、エムの娘だと知ってもなお、無意識下では“エム皇妃”と呼ぶ。ふたりが離れ離れでいたのは、フィリルを守るためだったとエムは云った。自分がローエンに従わなければ、フィリルの永遠は奪われる。ローエンは直截に口にはしないけれど、そんな脅迫が暗にあったという。
「フィリルを遠ざけたのは皇帝ではなく母だ。皇帝を自分のすべてとし、ほかのだれにも――娘にも目を向けない。そうやって母はフィリルの永遠を守った。そもそも、フィリルはハングの娘ではない」
「え?」
「母はあのとおりの人だ。ハングが見初めてもおかしくない。戦乱中に捕虜となったが、それ以前に、ある部族の長から無理やり娶られていた。ハングはそのとき身重だった母の意思を確認して連れだした。捕虜といってもハングがそうして戦のなかを同行させたのは、保護すべき者ばかりだった。捕虜という立場に置いておけば襲撃があってもその対象にはならない、安全な場所だったからだ。シュプリムグッドを制覇し、統治へと進んでいる間にフィリルは生まれてハングは母娘ともに囲っていた」
「そのときに、ヴァンはエム皇妃のおなかの中に生まれてきた……憶えてる?」
「さすがに記憶は生まれてからのことしかない」
 ヴァンフリーは呆れたように首を振り、答えを聞いた凪乃羽は、そうなの? とがっかりした。
「わたしとヴァンの子、いつ生まれるかわからないってムーンは云ってた。ヴァンがおなかの中にいたときのことを憶えてたら、参考になるかもって思ったのに」
 凪乃羽の声には不安が潜んでいる。鋭く察したヴァンフリーは、ブーツを脱ぐと片肘をついて隣に横たわると、凪乃羽の腹部に手を当てた。
「死ぬことはない」
「ヴァンは大丈夫だって云ってくれない。泉でも。みんな云ってくれたのに」
「上人は死ぬことはなくても痛みはある。知っているだろう。それに、出産の経験はなくとも、ラクじゃないという知識は持ってるはずだ」
「……心配してます?」
「そうじゃなかったら、この気持ちはなんだ」
 遠回しの云い方に凪乃羽は笑う。
「ヴァンのあの痛みに比べたらきっとなんでもない。……たぶん」
 あとから自信なく付け加えると、今度はヴァンフリーが失笑した。
「大丈夫だ」
 現金だが、ヴァンフリーが口にしたとたん凪乃羽は心強くなる。うなずくと、うっとりするような微笑が応えた。
「ヴァン、皇帝の呪縛が解けたら……父親といってもどんなふうに接していけばいいのか、距離がわからない感じ。でも、そのときもヴァンがいてくれれば大丈夫って思えそう」
「思えそう、ではなく、思える、だ」
 ヴァンフリーは細かく指摘して云い変えた。
「ありがとう、ヴァン。たくさんそう云いたいことをしてもらってる。だから、珈琲はおかえしの贈り物。シュプリムグッドでも珈琲が飲めるようになってうれしい?」
「ああ。楽しみが増えた」
「よかった」
 ヴァンフリーは口を歪め――
「さて」
 気持ちを切り替えたようにつぶやかれた言葉は思わせぶりだ。
「……何かある?」
「もう一つ、楽しみをくれても惜しくはないだろう。むしろ、おれのほうが与える側ともいえるが」
 顔を近づけながら云い放つなり、ヴァンフリーはふたりのくちびるを重ねた。
 んっ。
 息を整える間もなく凪乃羽は喘いだ。その隙をついて、熱い舌が口の中に入ってくる。そうしながら吸いつかれると、蕩けだす感覚に侵された。口づけは性急でも攻めるのでもない。待ち侘びたすえ、ようやく巡り会えたとばかりに確かめ、戯れ合うようだ。
 あまりに甘ったるく、服の裾を捲りあげられていることにも、ヴァンフリーの手が脚から腹部へと這いあがっていることにも気づかず、凪乃羽は突然、胸の先を抓まれてぴくりと背中を浮かせた。放った悲鳴は合わせたくちびるの間でくぐもり、ヴァンフリーが呑みこんだ。
 すぐに手は腹部におりていき、愛おしげなしぐさでそこを撫でる。何もかもが緩やかなのは宿る子を気遣ってのことか、凪乃羽はただ心地よくのぼせていく。そんな快楽のなか、舌を甘噛みされて吸いつかれたとたん、意識が融けだしていった。

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