NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

終章 赤裸の戀

2.恋は運命ではなくままならないもの  act. 1

 これ以上、ヴァンフリーを傷つけるなど許さない。そんな意を持って心底から叫んだとき、凪乃羽は腹部の奥に火がともったような感触を覚えた。小さな熱は血流に乗って、瞬く間に躰中を巡る。それは、きっかけは抱かれたり口づけだったり、その幾度か経験した熱と同じだった。
「凪乃羽」
 熱は体温としてヴァンフリーに伝わっているのか、気遣わしげな声が凪乃羽を呼ぶ。
「熱い、の……」
 視界が潤んでいるのは熱のせいか、かすかにうなずいたヴァンフリーの向こうに、伸しかかるように身をかがめてくるローエンの影が映りこむ。
 ローエンは手に力を込める。そうすれば剣はヴァンフリーの躰にのめり込んでいくはずが、思うようにはならなかった。そこに頑丈な盾があるかのように痞えている。
 ぬ……。
 ローエンが唸ったとき――
 だめ!
 三度めは熱に囚われて言葉にならず、そのかわりに内心の叫びが解放の合図であったかのように熱が外へと迸った。
「ふ――」
 ローエンの口から、思いも寄らないといった面食らった吐息が漏れる。
 ローエンは剣から手を放し、かがめた身を起こして後ずさる。動いているのはローエンの意思ではなかった。凪乃羽とヴァンフリーには見えなかったが、その他の立会人たちの目には、さながら操人形と化して身の熟(こな)しはぎこちなく映っていた。
 そうして見えたものはもう一つ。
「凪乃羽……」
「フィリル!」
 ヴァンフリーの呼びかけは、多数の声に、さらには同じ名を発してさえぎられた。
「どなたか、ヴァンフリー皇子から剣を抜いてあげて」
 夢で聞いた声は、驚きの残響のなか労(いたわ)り深く響いた。
「デスティ」
 呆然と時間が止まったような気配のなか、鋭く発したのはハングだった。
「御意」
 足音が近づいてきてほんの傍で止まる。
 ヴァンフリーの肩越しに見ると、名を呼ぶだけでハングの命を理解し従ったデスティがそびえるように立っていた。
「ヴァンフリー皇子、よいか」
「ヴァン!」
「凪乃羽、大丈夫、だ……話しただろう、デスティは、闘いの達人、だ。急所を、知悉(ちしつ)している、ぶん……痛みを、軽減できる」
 ヴァンフリーは問うようにかすかに首をひねり、凪乃羽がうなずくのを待って、「デスティ、やって、くれ」と促した。
 いくら軽減できるとはいえ、痛覚が麻痺するわけではない。早速、デスティは実行したのだろう、ヴァンフリーは顔を引きつらせてかすかに呻いた。
 その痛みが伝染したように凪乃羽は顔をしかめた。痛みを取り去ることはできなくても、和らげることくらいできたらいいのに――と、そう思うよりもさきに凪乃羽は手を差し伸べていた。
 ヴァンフリーを貫いていた剣が徐々に引っこんで、剣先が短くなっていく。傷をかばうように腹部に当てていたヴァンフリーの手に手を重ねた。剣を握りしめていたその手は赤く濡れている。
 そうして、熱を帯びたと感じたのは気のせいか、重ねただけでわかった手の甲のこわばりが、ふと消えた。呻き声もしなくなり、凪乃羽の手の下からするりと抜けだした手は逆に凪乃羽の手の甲をくるんだ。
 伏せていた目を上向けてヴァンフリーを見上げると、どこか驚いたような眼差しが凪乃羽を見下ろしていた。
「ヴァン、ケガは……」
 大丈夫かと云いかけた凪乃羽をさえぎったのは、驚きから一転、可笑しそうにしたヴァンフリーの笑みだった。
「少なくとも、痛みはなくなった」
 ほかに何かあるのか、ヴァンフリーは『少なくとも』と前置きをした。痛みがないという言葉どおりに、先刻までの途切れ途切れの云い方はなくなり、話し方は至ってなめらかだ。
「もう少しだ」
 なんのことか、ヴァンフリーの言葉が理解できたのは――
「いいぞ」
 と、デスティが告げたときだ。慎重に引き抜かれていた剣がヴァンフリーの躰から取り去られたのだ。
 ヴァンフリーは大きく息をついた。ゆっくりと上体を起こしていきながら、繋いだ手を引いて凪乃羽の躰を引っ張りあげていく。すると、凪乃羽の腹部から、はらりと何かが落ちた。ヴァンフリーは空いた手でそれ――カードを拾う。
 ふたりは頭を突き合わせ、覗きこんでみる。予想したとおりタロットカードで、絵柄は運命の輪だった。裏返すと、凪乃羽が夢で見たカードと同じで真っ青の巨大な星が描かれている。ただ、夢にはなかった、引っ掻いたような傷が真ん中にある。
 ヴァンフリーはハッとして振り返った。
「フィリル?」
「ヴァンフリー皇子、ごきげんよう。そのとおり、それはわたしのカードよ。赤ん坊を守れたかしら」
「赤ん坊?」
「そう、凪乃羽のおなかにいる赤ん坊よ」
 怪訝そうにしたヴァンフリーの問いに、ともすれば無邪気そうにも見えるようなしぐさでフィリルは首をかしげた。
 またもや事の成り行きについていけず、理解するまでに少しの間を要して、それから凪乃羽はヴァンフリーと目を合わせた。
 驚いているのは凪乃羽だけではなく、ヴァンフリーもそうだった。わずかに見開いた目が伏せられ、すぐに凪乃羽の顔に戻ってくると、ヴァンフリーはまたフィリルを見やった。
「フィリル、本当か?」
「身に覚えがないの?」
 その口調はからかっているようにしか聞こえない。普通の神経なら恥ずかしくて答えられない質問も、ヴァンフリーがそんな感情を持ち合わせているはずもなく。
「凪乃羽に赤ん坊ができたのなら、父親はおれ以外にはあり得ない」
 ヴァンフリーの即答にフィリルはくすくすと笑った。
「その云い方、断言というよりは願望に聞こえるわ」
 お手上げだといった様子でヴァンフリーは首を横に振る。
 いまのやりとりで、凪乃羽にはふたりの――姉弟の仲の良さがはっきりと伝わってきた。
「欲しいと思っていたのは事実だ。凪乃羽と赤ん坊が傷つかなかったのはフィリルのおかげだ。このカードは盾になってくれたんだろう?」
 その問いはとたんにフィリルの顔をこわばらせた。真摯さを宿した目が、凪乃羽をまるでそれしか存在するものはないといった様子で射止める。そして、ゆっくりと玉座のほうに目を転じた。
「わたしだけではなく、わたしの娘と、その赤ん坊まで傷つけるなんて――」
 フィリルの睨めつけるような眼差しはローエンを射貫き、その様はエムのそれと似ていた。
「それは本当に私の子か。ワールによって上人は子を授からないという秩序が保たれていたはずだ」
 ローエンは微動だにせず、力を振り絞るような様で悪あがきを吐いた。
 確かに――と、タロは応じつつ口もとに薄く笑みを浮かべる。愚かな、とそんな呆れたふうに見えた。
「――ヴァンフリーの力を知ったのち、おまえの命によって上人の間に子が誕生することはなくなった。だがいま、私はタロであり、ワールだ」
 それが答えだとばかりにタロは断固として云いきった。
 つまり、ワールは、あるいはワールとなったタロはその秩序を解いたのだ。
 く……。
 口惜しく顔を歪めたローエンが呻く。
 ヴァンフリーは立ちあがり、続こうとした凪乃羽に手を貸した。
「ヴァン、傷は……動いて大丈夫なの?」
 臙脂色の羽織りは色濃く濡れ、ヴァンフリーからつかまれていた凪乃羽の手は真っ赤に染まっている。痛みはなくなったとしても、傷口は確かに存在するのだ。
「問題ない。修復された感覚がある」
「……もう?」
 不死身で傷を負っても治るとは聞いていたけれど、そんなに早く修復されるものだろうか。
 首をかしげた凪乃羽を見て、ヴァンフリーは薄く笑った。
「数日は思うように動けないくらいの傷だったが……おまえの力だ、おそらく」
「……わたしの?」
 ヴァンフリーはうなずいてからタロを見やった。
「でしょう?」
「私は単にフィリルを救う存在として、凪乃羽に生を与えた。力を開花させるか否か、どのような力をもたらすか、それは凪乃羽にかかっていた。厳密に云えば、凪乃羽の力は傷を癒やす力ではない。守ろうとする力が形を変えて現れる」
 タロはローエンのほうに向けてかすかに顎をしゃくり、続けた。
「あのように、ローエンの躰を操り、動きを封じることも、凪乃羽がヴァンフリーを守ろうとするゆえの力の現れだ。“呪縛”とは言い得て妙、か」
 ローエンは微動だにしないのではなく、動けないのか。
 それも、わたしの力で?
「もうおとなしくすることだ、ローエン」
「ハング、だれのおかげで――」
「おまえのおかげのみではないことは明らかだ。我々は皆、大陸を統一すべく志を立てたハングのもとに集まった有志者だ。あまりに時が経ち、それを忘れたか、ローエン」
 デスティが断じると、ローエンは歯噛みするようなしぐさで口を開く。
「永遠を選択したのはおまえたちであり、私がその力を授けた。欲を掻いたのは己もおまえたちも同じだ。要らぬというのなら差しだせっ。私が奪ってやろう」
「残念だがローエン、もはやおまえにその力がないことはわかっておろう。でなければ、わざわざヴァンフリーに剣を立てる必要はないはず。おまえの力は凪乃羽に吸収され、またその孕んだ子に継承されている、そのまま、あるいは形を変えて。凪乃羽がフィリルの中で誕生した時点で、おまえは上人たちを牛耳る力を失ったのだ」
 固唾を呑み緊張を孕んだ気配は、タロの言葉によって一気に緩んだ。なかには脱力したような吐息も紛れこむ。
 ふっ。
 ひと際大きな吐息はローエンのものだ。その顔貌を見れば、笑ってはいるが、悪あがきか、または虚勢にしか見えなかった。
「追放でも牢獄送りにでも、好きなようにすればいい。ハング、皇帝の座はおまえの息子に明け渡してやる」
「だそうだが、ヴァンフリー?」
 ハングはヴァンフリーに回答をゆだねた。
 ヴァンフリーは凪乃羽を見下ろして、その首をわずかに傾ける。
「どうする?」
 と、答えはまた凪乃羽へと振られた。
 目を丸くしてなんとも答えられずにいると――
「母のように着飾ってここに住むか、否か。行く末に、ローエンのように愚かな保守者になるおれを見たいか、否か」
 ヴァンフリーは性(サガ)とでも云うべきか、二者択一を重ねて迫った。本人がいる目の前で愚者などと云ってローエンを引き合いに出すのは、やはり〇番めの愚者らしいのか。
 ただ、凪乃羽には、その選択肢に迷いはなかった。
「わたしは森のなかのウラヌス邸が好き」
「だそうです。ロード・タロ、私にも選択権はあるでしょう?」
「そのとおりだ。ハング、おまえはどうする?」
「やっと自由になった。皇帝の座に縛りつけられる気はない。だが、民にとって皇帝は必要だ。権力者ではなく、象徴としてロード・タロの後釜にでもなればいい」
「なるほど、よい考えだ。ローエン、皇帝の座はおまえのものだ。思う存分、居座っていられる。これで安泰だ」
 タロが玉座を指差し、デヴィン、と呼びつけた。
「ローエン皇帝を座らせてやれ」
 デヴィンは低頭し、そそくさとローエンの思うようにならない躰を玉座と導いていく。
 玉座におさまったローエンを見届けたあとのタロの吐息には、清々したようでありながら、それでは足りないといった気持ちも混在していた。
「結着だ」
「いいえ」
 タロの終止符に、息をつく間もなく異論を唱えたのは、他ならぬヴァンフリーだった。

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