NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

終章 赤裸の戀

1.覚醒  act. 3

「離れろ、と、云って、るっ」
 ヴァンフリーは左腕を後ろに引き、凪乃羽を睨めつけて退けようとする。
 端整な顔は歪み、腹部に当てた大きな手は赤く染まって、指の隙間からこぼれる雫が手の甲を伝って床へと滴っている。
「離れない!」
 ヴァンフリーは凪乃羽をかばったのだ。離れられるわけがない。凪乃羽は怖れ慄いた気持ちも忘れて、きっとしてローエンを見上げた。
 鎧を纏い、仁王立ちをしたローエンは、まさに仁王像のように厳ついがその資質は守護神とは程遠い。自分の身を守るためなら息子を傷つけることも厭わないのだ。一度めの傷は凪乃羽の盾になったのだから不可抗力だという云い訳はつく。けれど、二度めの傷はヴァンフリーを狙ってやっていることだ。
 いくら死なないといっても――
「自分の子供なのにどうしてここまで傷つけられ……」
「私の子ではない」
 凪乃羽が最後まで云いきれないうちにローエンはさえぎり、口もとをいびつにして嗤った。
「……え?」
「やっぱり知っていたの?」
 凪乃羽が呆けて問い返す間もなく、エムのほうが早く問いかけた。
「私がそれほど愚かに見えるか。ヴァンフリーが大剣を奪った時点ではっきりしていた。ヴァンフリーの奔放さは父親にそっくりだ。だろう、ハング? それと紙一重の怪傑(かいけつ)気質に我々は踊らされ、シュプリムグッド帝国の統一まで血を流してきた」
 ハング?
 ヴァンフリーの父親はローエンではなく、ハングとエムの間にできた子供だというのか。凪乃羽は無自覚にヴァンフリーに目を戻した。変わらず表情には苦痛が浮かんでいるが、フィリルがエムの娘だとわかったときと同じで、驚きも衝撃もその顔によぎることはない。ヴァンフリーもまた知っている。
「踊らされた? そうしてエムを奪い、それでも飽き足らず私を囚人に落とし、最上の独善を得られたのはだれだ」
 応戦したハングの言葉にも驚きは見えない。
 それなら、と凪乃羽は矛盾と、延いては苛立ちを禁じ得ない。ローエンに痛めつけられているヴァンフリーを、ハングはなぜ助けてくれないのか。
「お父さんがどっちでもひどい」
 凪乃羽は無意識につぶやいていた。
 フッと力尽きたような吐息に、凪乃羽はそうした主へと目を向ける。痛むだろうに、ヴァンフリーは笑っていた。
「ヴァン……」
「上人とはわがままで慈悲深くもない。おまえの云うとおりだ」
 ヴァンフリーは可笑しそうにして凪乃羽をからかう。
「笑い事じゃない。死なないとしても休まないと……」
「そうはさせるか」
 ローエンは太い声で吐き捨てた。
 鎧を揺するような気配に釣られて見上げると、ローエンが剣を右手から左手へと逆手にして持ち変えていた。剣をしまうのではなく、攻撃するためにそうしていることは持ち主の断固とした顔つきを見ればわかる。
「ヴァンフリー、いや、皆、心して聞け。だれのおかげで永遠を手に入れた? 上人たる力をもたらしたのは、この私だ。皇帝の座は明け渡さぬ」
「ヴァンはそんなもの、望んでいません!」
「凪乃羽、やめろっ」
 ローエンはふたりを見下ろして、くつくつと笑う。その実、可笑しそうな気配はなく、見下した嘲笑だ。ローエンは剣を持った左手の上に右手を重ねる。
「望まぬことだろうが、タロの意が退けられないかぎり、おまえたちの意思は関係ない。私がやるべきことをやるまで。見す見すおまえたちを取り逃し、ヴァンフリーをのさばらせておく気など毛頭ない」
「ローエン皇帝」
 ヴァンフリーは力を振り絞るようでいながら据わった声を轟かせた。
「貴方の意思こそが無意味だ。……絶対の力を持ったゆえに、都合のいいことしか聞かされず、皇帝は、退屈するしか、ない。玉座にいる、貴方自らが、いま、それを、示されているのでは、ありません……か」
「小賢しいことを!」
 ローエンは両手で持った剣を振りあげる。剣先は凪乃羽ではなくヴァンフリーを狙っていた。最初に剣先が凪乃羽に向けられたのはヴァンフリーをいざなうための見せかけにすぎず、ローエンの真の目的はヴァンフリーを討つことにあったのだ。
「ヴァンを傷つけないで!」
「凪乃羽っ」
 盾になろうとヴァンフリーの前に出かけた凪乃羽は、そのヴァンフリーによって引き戻される。
「ほう。凪乃羽とやら、おまえはいつ目覚めるのだ? そうしてヴァンフリーをかばい、私を抹殺するか、おまえの父である、この私を?」
 く、そ……っ。
 すぐ傍で、呻くように悪態が放たれる。
 凪乃羽はただ呆然として、足もとにそびえたローエンを見上げた。
 シュプリムグッドに来て目覚めたとき、ヴァンフリーの言葉はまったく理解できなかった。そのときに戻ったように、とっさにはローエンの言葉の意味が把握できなかった。しんと静まり返ったことにも気がまわらない。
 そうして、間近で嘆息とも失笑ともつかない、あるいは淀んだ空気を一掃するように吐息が漏れた。
「だれが父親か、関係ない……凪乃羽はフィリルの娘だ……っ」
 息苦しそうでありながらもヴァンフリーは激しく断じた。
 ローエンの言葉を噛み砕けないうちに、またしても新たな秘密が明かされ、凪乃羽は混乱に晒される。
 フィリルに娘がいて……それがわたし? それなら――
 自ずと脳裡には一幕が甦る。父親がローエンなら、あの夢の残酷な出来事によって凪乃羽は誕生したのだ。
 凪乃羽の存在は、呪縛という役割ではなく、単なる呪いの結果なのかもしれない。
「ローエン、これでフィリルに何があったか赤裸になった。まだ足掻くか」
 当然ながらタロはすべてを知り、そのうえで事を運んできた。淡々と諭す言葉にローエンは鼻先で笑った。
「ロード・タロ、もう一つ、貴方が私に授けた力をお忘れのようだ。ワールに成り下がったいま、貴方もまた私に敵うことはない」
「ヴァンフリーの永遠をおまえが授けたというのなら、その力も有効だろうが、どうなのだ? ヴァンフリーは生まれながらにして上人だ。凪乃羽も然り」
「どちらでもかまわぬ。娘を人質に、永遠に傷を負い続けるか、逃亡して娘を失うか、ヴァンフリーにはその二つしか道はない」
 クッと含み笑ったローエンは、さらに剣を振りかざし――
「娘とて、ヴァンフリーは人質になろう。私には何人たりとも逆らえぬのだ」
 待ったなく、勢いをつけて振りおろした。
 凪乃羽が身を乗りだしたのは本能だった。
 そして、ヴァンフリーが痛みなど存在しないかのように瞬時にして動いたのも本能、もしくはそれよりも強い――なくしたくないという欲求だったかもしれない。
 目前に剣先が迫った刹那、躰が抱きとられた次にはくるりとひっくり返されて、凪乃羽は床に転がっていた。見開いた目に、覆い被さったヴァンフリーが映る。端麗な顔貌が歪んだ。
 ぐ、ふっ。
 離れた場所からだれかが放った甲高い悲鳴よりも何よりも、一文字に結んだくちびるの隙間から堪えきれずに漏れた声が凪乃羽の耳に障った。
「ヴァンっ」
 凪乃羽の声はかすれていて、真上から見下ろすヴァンフリーの耳に届いたかはわからない。
「凪、乃羽……付き合って、やるから、逃げるな……おれが、そぅ……云ったことを、憶えて、いるか……」
 痛みを耐えているためか、それとも痛みを漏らさないようにするためか、ヴァンフリーは喰い縛った歯を緩めつつ痞えながら問うた。
 その言葉に誘導されるように凪乃羽の記憶はそこへ向かって開いていく。
 ――このさきに何を聞かされようと、とそんな前置きのもと聞かされたときの場面が浮上した。
「憶えてる」
 自分が“二十三番め”だと知って、課せられた役割も不透明なときにそう云ったヴァンフリーはやはりすべてを知っていたに違いなかった。
 だからこそ、いまの言葉がその場しのぎではないと凪乃羽に教える。
「だったら……何も、嘆くことは、ない……ふたりの間には、何も、だれも、関係、ない。おまえが、おれと、いたいか、否か……どっち、だ……」
 ヴァンフリーは対極の選択を迫る。
「ヴァンといる」
 いたいという願望ではなく、いるという意思はヴァンフリーに伝わったらしく、くちびるを歪めた苦痛のなかに笑みが入り混じる。
「それで、いい――」
「くくっ、叶わぬことをほざくのもこれまでだ」
 ぅ、ぐぅ――っ。
 今度の呻き声は、痛みを与え続けられているように長引いた。
「ヴァンフリー、抗いなさいっ!」
 エムが悲痛な声で訴えた。
「黙れ、エム。無駄だろう? ロード・タロによって私に刃向かわないよう、かけられた術が解けていないかぎり。ワールには解除は不可能だ」
「ローエン! ヴァンフリーへの術などはじめから存在しないわ! 貴方からヴァンフリーを守るためにそういうことにしただけ。フィリルを守るために、わたくしは貴方に従った。それと同じことよ。それを、自分の息子ではないとわかっていながら気づかないなんて、貴方は本当に“人”ではなくなったのね」
「ふっ。むしろ、私から守るために逆らわないよう術はかけられたと思っていたが。いまとなってはどちらでも同じだ。なんにせよ、数えきれず年を重ねてきて、なぜ“人”であることにこだわらなければならない?」
「こだわらずとも……空っぽの権威に、縋った、皇帝は、何事にも、気づかず、憐れだ……」
「黙れ」
 ぐ、わぁ、――っ。
 ローエンの激昂にヴァンフリーの断末魔のうめき声が重なった。
「ヴァンっ」
 凪乃羽の両脇についていた手が片方だけ離れていくのと同時にヴァンフリーの躰がぐらつく。凪乃羽は先刻から躰が濡れていくような感触を覚えていた。それが突如として鮮明になった。
 それが何か確かめようと起きあがろうとしたとたん。
「動くなっ」
 ヴァンフリーは鋭く制した。
 頭を上げた一瞬の間になんのためにヴァンフリーが手を放したのか、濡れた感触がなんによるものかを察し、凪乃羽は自分の鈍感さに絶望すら覚えた。
 ローエンの剣はヴァンフリーの躰を貫き、それ以上に突き進まないよう、ヴァンフリーは素手で刃をつかんでいる。剣を伝う赤い滴りが手にかかり、そしてその量を増して凪乃羽の躰にこぼれていた。
 凪乃羽をかばうことでヴァンフリーはよけいな犠牲を強いられている。ローエンが云った『もう一つの力』が永遠を与えることと相対する“奪うこと”で、もしいまそれがなされればヴァンフリーは死んでしまう。
「だめ――」
「凪乃羽っ」
「ふたり諸共(もろとも)――」
「だめっ!」
 ローエンの発した脅嚇(きょうかく)が云い終わらないうちに凪乃羽の悲響が轟いた。

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