NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

終章 赤裸の戀

1.覚醒  act. 2

 タロは耳を貸そうといった様でヴァンフリーに首をかしげてみせ、さきを促した。
「ロード・タロ、あなたがワールに成り代わった訳はなんです?」
「その様子を見るかぎり、おまえはわかっていると見受けたが?」
「ならば、いくらロードの意向であろうと、私は到底、賛同はできかねます」
 ヴァンフリーはぴしゃりと放った。
 凪乃羽にはさっぱり理解できない会話も、ヴァンフリーとタロの間では成り立っている。ヴァンフリーは、ローエンの側についてもタロの側についてもその意図を知り、なお且つどちらにも賛同していることはなく、加担もしていない。そのことだけはわかった。
「ヴァンフリー、おまえはフィリルを慕っていたと思っていた。フィリルの傷を癒やすためにやったことだ。ようやくここまでたどり着いた」
「もちろん慕っています。少なくとも三つの指に入るくらいは」
「三つの指、とは?」
「一つは云うまでもなくロード・タロ、あなたです。もう一つは――」
「わたくしです」
 ヴァンフリーをさえぎり、もしくは引き継いで名乗り出たのは、背をすっと伸ばして立ち姿の美しい女性だった。
 いや、美しいのは立ち姿だけではなくその容姿もそうだ。頭を飾るティアラには城と同じように水晶が装飾されているのか、外の光を受けてきらきらと反射している。その輝きと同様、女性を一見したとき人に与える印象は冷たいが、それほどの美貌を備えているということだ。それはヴァンフリーに似ていた。それなら、女性はヴァンフリーの母でありローエンの妻であるエムに違いない。
 凪乃羽の視線に導かれるようにエムの目が転じられた。頤をわずかに上向け、つんとした気配は、凪乃羽を射止めたとたんに消えた。かわりに表れたのは驚きだろうか。それもつかの間で、エムは何かを悟り、次にその顔に浮かんだのは不快感か、あるいは嘆きか、眉根を寄せて美しい顔をいびつにした。
 エムはいつからこの場に立ち会っていたのか、歪んだ面持ちのままロード・タロに目を留めてまもなく、ハングに目を向けた。
 ハングもまた目が合うまえからエムを注視していた。
 凪乃羽は決闘の話を思いだした。ローエンとハングはエムを奪い合った。正確には、ローエンがハングから奪ったのか。捕虜だったエムがハングをどう思っていたのか。ふたりの間に、切るに切れない何かがあるのは凪乃羽からも察せられた。
 それをローエンが見逃すはずはなく。
「エム、おまえは下がっておれ」
 叱責するようにローエンは放った。
 けれど、その凛とした佇まいは変わらず、エムはまっすぐにローエンへと目を向けた。
「わたくしに関係のないことならそうします。でも、そうではありませんよね?」
「関係などない」
「いいえ!」
 うそぶいたローエンの否定に重ねるようにエムは強く反した。
 ローエンはかすかに躰を揺らす。おののいたようなしぐさにも見えるが、そうではなく、身構えたのかもしれない。
 先刻、ヴァンフリーがタロに対してそうしたように、エムがきっとしてローエンを見据える。
「関係ないと、わたくしと貴方の間では通じない言葉を、造作もなく口にするほど貴方は下卑てしまった。いつから? 上人となった最初からだわ」
 エムは投げかけた問いに自分で答えた。
 ローエンは頬を引きつらせ、口もとを歪めた。
「いくらおまえでも、すぎれば容赦しない」
「かまいません。フィリルが受けた仕打ちを、まさかわたくしが許すなどとお考えではありませんよね?」
「なんのことだ」
「惚けるなんて、ご自分のなさったことに責任を負うこともなく逃げ惑っていらっしゃるのかしら? 上人である以上に皇帝ともあろう御方が、地に堕ちたこと。フィリルはわたくしの娘よ。わたくしの意志はどの方にもそれで充分に伝わるでしょう」
 フィリルがエムの娘?
 凪乃羽ははじめてそれを知り、そうであっても少しもおかしくはないが、ここに立ち会う半数の上人たちまでもが驚きをあらわにした。
 エムの双眸には静かな怒りと闘志が宿っている。その眼差しがそのまま凪乃羽へと向けられる。たじろいだ刹那。
「その娘は何者かしら」
 と、エムはすっとローエンに目を転じた。
 エムの問いかけにローエンが答えるまで、だれも口を開くことなく、息を潜めて成り行きを見守っているような気配が漂う。二十三番めの呪縛だと答えるのはだれにとっても簡単だろうに、そうしないのは、きっと聞きたいことがそんな答えではないからだ。
 それならどんな答えが正しいのだろう。凪乃羽には見当もつかない。
「確かなことは知らぬ」
 ローエンの答えは無難だった。タロをはじめとした一定の上人が不服そうにするほど。
 ヴァンフリーに特定すれば、不服という言葉には当てはまらない。ローエンの答えを聞いたとたん、吐息を漏らしたが、それはどこか安堵しているようにも見えた。
「不確かなことでもかまいません。お教えいただけますか」
 エムは畳みかけるようにローエンを追及する。
「母上、訊くまでもなくわかりきっていることでしょう」
 ヴァンフリーは、今度は即座に口を挟んだ。まるで、聞きたくないとさえぎったようにも思える。それは、いくら永遠のもと親子という間柄が曖昧になろうと、やはりローエンがヴァンフリーにとって父親だからだろうか。
 なぜ止めるのか問うようにしたエムの視線を受けとめ、ヴァンフリーは「いまはそのことよりも」と云いながらタロを見やった。
「ロード・タロが何を望んで我々がここに立ち会っているのか、それを知るべきではありませんか」
 エムに向けつつも、実際はタロへの果たし状を送るようだった。そのヴァンフリーに応じて、タロはわずかに顎をしゃくって口を開く。
「私の望みはわかりきっているだろう。フィリルの安らかな覚醒だ。そのために、可能なかぎり傷が癒えるよう時間を必要とし、フィリルの希望となる支えを育んできた」
「フィリルの希望ですか」
 ヴァンフリーは吐息に紛らせるように云い、力なく笑う。
「どうやればフィリルは目覚めるんでしょう?」
 エムは、先程までの勢いはどこへやら、途方に暮れてつぶやいた。
「それは、二十三番めの娘が応えてくれるだろう。凪乃羽、フィリルの目覚めを手助けしてくれるな?」
 タロは洞窟で訪ねたことをまたあらためて凪乃羽に問う。
 自分になんの助けができるのか、凪乃羽にはまったく見当がつかない。フィリルがどういう上人かわからない。わかっているのは、夢の中のフィリルがそのままであれば、あんなふうに非道理な仕打ちを受ける謂れなどない上人であること。
 永遠の子供たちもラヴィもフィリルを慕っている。
 そしてそれはヴァンフリーもそうだ。
 永遠の子供たちから、ヴァンフリーはフィリルを好きだと聞かされた。それは、人柄だけでなく姉だからということもあるに違いなかった。なぜなら、フィリルが自分の娘だというエムの告白に、ヴァンフリーは驚かなかった。とっくに知っていたのだ。
 驚かなかったのはヴァンフリーのほかにも、タロは云わずもがなハングもそうだ。
 フィリルの覚醒を妨げる理由は、凪乃羽にはない。それを可能なのが凪乃羽だけで、ヴァンフリーが喜ぶのなら、なおさら断れるはずがない。
 ヴァンフリーに目を向けると、考えこんだ面持ちで凪乃羽の視線を受けとめた。もしかしたら、凪乃羽の意志が固まるまで待っていたのかもしれない。ヴァンフリーはすぐにタロへと目を転じた。凪乃羽もまた釣られるようにタロへと目を戻す。
「わたしに何ができますか」
「凪乃羽に何をさせるおつもりですか」
 凪乃羽の言葉に重ねてヴァンフリーが問い質した。
「定めにゆだねる。それだけでいい」
 結局は明確な手段が示されることはなく、手助けをしようにも凪乃羽にはどうしようもない。ゆだねるということは、自分から動く必要はないと解釈しながら、凪乃羽はうなずいた。
 ヴァンフリーは変わらず考えこんだ様子で、ともすれば睨めつけるようにタロを視界に捉えて離さない。
 それを知ってか知らずか、タロは凪乃羽からおもむろにローエンへと目を転じた。
「自ら愚かさを曝露し、相応の報いにゆだねるか否か。ローエン、どうだ?」
 間を置かずして、ふん、とローエンはせせら笑う。
「選んだところで貴方(あなた)の意向は変わらぬだろう」
「察しのとおりだが、ローエン、やはり潔さもなくしたようだな。おまえの力は、凪乃羽の目覚めとともに消え失せる。ゆえに、凪乃羽を手に入れたものが皇帝となるのは必然だ」
「どうやれば目覚めるというのだ?」
「安易に解けば」
 ハングはタロが答えるのを待たずローエンの問いに応じながら、一歩だけ踏みだした。その手をベルトにおさめた剣の柄に充てがい――
「ワールがタロに身をゆだねたように、ローエン、おまえが消え失せることだろうが」
 半ば問うように言葉を切ると、ハングは口を歪めて嘲った。言葉にもしぐさにも、あからさまに脅しと挑発が込められている。
 ローエンもまた張り合うつもりか嘲笑を浮かべた。
「おまえの云うとおり、安易すぎる。矛盾だ。私を切ろうが死は訪れず、よって私が消え失せることもなければ、娘が目覚めることもない」
「それならば?」
 タロが諭すようにゆったりと促した刹那。
「この娘が目覚めるまえに絶つのみ、だ」
 ローエンが答えを吐くのと、その腰もとに手をやるのはどちらが早かったのか。
「デヴィン、引けっ」
 ローエンの怒鳴る声と――
「愚かな」
 タロのつぶやきと、そして――
「凪乃羽!」
 と、切羽詰まったヴァンフリーの声はほぼ同時に放たれた。
 ローエンの命によってデヴィンが為したのは凪乃羽を解放することだった。
 反動でよろけた凪乃羽は、ちょうどローエンが鞘から抜いた剣先が自分に向けられたことを捉えた。それが下から突き上げられた瞬間、凪乃羽のすぐ目の前に臙脂色の壁ができた。
 ぐ、ふっ……。
 壁の向こうで断末魔のような呻き声がこぼれる。
 見開いた目に映る臙脂色は、壁のそれではなかった。ヴァンフリーが纏う羽織りで、瞬時に移動して凪乃羽をかばえるのはヴァンフリーでしかあり得なかった。
 呆然として凪乃羽が何もできないうちに、またもや呻き声が漏れ、羽織りが不規則に揺らいだ。
 だれもが息を呑んでいたのかもしれない。
「ヴァンフリー!」
 エムの叫び声を発端に、いくつか同じように名を呼ぶ声が重なる。凪乃羽が聞きとれたのは、いつの間に現れたのか、エロファンとラヴィの声だった。
「やめてっ」
 エムの制する声は何を示しているのか、凪乃羽からはまったく見えない。ただ、三度(みたび)呻き声が発せられたことで、起きていることは凪乃羽にも察せられた。
「ヴァンっ」
 精いっぱい声をあげたつもりがかすれた声しか出ない。
 四度めにこもった声を漏らしたヴァンフリーは、立っているのもままならいほどの痛みに襲われているに違いなく、普段はびくともしない躰がよろけてかしいだ。
「ヴァンっ」
「下がれっ」
 歯を喰い縛った怒鳴り声が響き渡る。
 凪乃羽を心配してそうしているのはわかっていても――痛みでヴァンフリーが死ぬことはないとわかっていても、放っておけるわけがない。凪乃羽はとっさにヴァンフリーの左腕をつかんだ。やむを得ず、上体を折るようにしながら床に片方の膝をつくヴァンフリーに添った。

NEXTBACKDOOR