NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

終章 赤裸の戀

1.覚醒  act. 1

「捕らえよ」
 混乱した凪乃羽はその気持ちのままに足がもつれてしまう。つまずいた刹那、非情な言葉によって腕を取られて、かろうじて転ばずにすんだ。
 逸早く皇帝の命に従ったのはデヴィンであり、捕らえた腕を強引に引っ張って凪乃羽をローエンのほうへと連れていく。動揺がおさまるのはおろか隠すことさえできないまま、玉座の前にたどり着くと、敬礼せよ、とデヴィンが腕を放して床を示した。
 ヴァンフリーがアルカナを前にすると民はひれ伏すと云っていた。どうにか敬礼の仕方を思いだし、凪乃羽はひざまずいた。床に手をつこうと身をかがめる間際、ローエンが腰を上げた。それに気を取られたすえ、玉座の前にある二つの段差を素早く、なお且つ悠然とおりてくる姿に圧倒されて、凪乃羽は退きたい気持ちを必死にとどめることしかできなかった。
 金の鎧と、金の刺繍を施した白いチュニックに深紅のマントを羽織っている姿は、やたらと大きく映って圧迫感がある。いかにも戦闘モードといった風貌は普段からそうなのだろうか。
 すぐ目の前に来たローエンの手が伸びてくるのが視界に入り、身をすくめてしまうのはどうしようもなかった。
 ローエンは上体を折り、緩く鉤形(かぎなり)にした人差し指で凪乃羽の頤(おとがい)をすくい上げ、刺すように双眸を注ぐ。凪乃羽は呪縛という役目を負っていながら、逆に呪縛されたようにその瞳に捕らえられる。
 最初は漆黒に見えた眼は、よく見れば、あの地球の終わりの日に見た、空を覆う雲のような消炭(けしずみ)色をしている。未来を暗示しているように感じてしまうのは、心細いせいだろう。
 ヴァンフリーがいてくれたら――と思ったとき、ロード・タロが永遠の子供たちに向かい、伝言を託していたことを思いだした。『アルカヌム城で会おう』というのはヴァンフリー宛の伝言だった。それならきっとここにやってくる。
 すると、安堵する傍らで新たな不安も芽生える。
 タロの真意は少しも理解できない。凪乃羽をローエンに差しだし、ヴァンフリーが現れることで何が起きるのだろう。タロに企み事があるのは疑いようがない。
 ローエンの無表情だった顔貌に苦みが走る。美味しいと勧められて食してみたものの、思った味とはかけ離れていた、とそんな気配だ。
 間近で薄いくちびるが開いていく。上人が食事をしないことは知っている。食べられることはないとわかっていながら、凪乃羽の躰がこわばった。
「おまえは何者だ」
 それをわかっていながらローエンは訊ねている。そう感じたとおり、凪乃羽の返事を待つ気はさらさらないといったふうに、ローエンは凪乃羽の頤から手を放し、躰を起こしながら目を転じた。正確には、凪乃羽は当てにならないと踏んで、手っ取り早く、事を知るワール――タロに向かったのだ。
「“娘”だと――?」
「私が嘘を吐いているとでも?」
 タロはローエンの問いともつかない曖昧な言葉に疑問で返した。はぐらかしているのではなく、挑んでいる。くちびるに浮かんだ笑みには、見る人を凍りつかせてしまうような冷淡さがあった。
「“知っているなら”、その娘を見ればすぐさま見当もつくだろう。一つ、“皇帝陛下”に気休めを与えてやろう。呪縛の力はまだ目覚めてはいない」
 タロの言葉は思わせぶりであり、『皇帝陛下』という言葉には嘲りもあった。
「ワール、おまえは……」
 ローエンは眉をひそめ、タロを睨めつける。果たしてワールがローエンに対してどんな口の利き方をしていたのか、ローエンはいまはっきりと正面にいる“ワール”に違和感を抱いている。
「そのとおり、ワールはいない。私はタロだ」
 その瞬間、ローエンのもとに集っていた上人たちがどよめいた。肝心のローエンは驚いた素振りはなく、あるいはそれを隠したのか、悠然と胸に片手を当て、そして尊大な様でうなずくようなしぐさをした。
「懐かしいことだ。ロード・タロ、久しく話す機会を逸していた」
「おまえが聞く耳を持たなかった、それだけだ。出会った頃に軍を率いていた指揮官ローエンは卑怯さも傲慢さもなく、正々堂々としていた。少なくとも、無抵抗な者にも弱者にも鞭を打つような非情は行わなかった」
「まるでいまは卑怯で傲慢だと聞こえるが」
 ふ、とタロは鼻先で嗤い、ローエンの言葉を冷やかにあしらった。
「そのとおりでしょう。少なくとも私はそういう皇帝しか存じません」
 ともすればローエンを侮辱するような赤裸(せきら)な発言は、タロでもハングでもデスティでもない。突然、侵入した声は紛れもなくヴァンフリーの声だった。
 ぱっと声のしたほうへ顔を向けると、やはりヴァンフリーが現れていた。
「ヴァン!」
 無意識下で駆け寄ろうとした瞬間。
「デヴィン」
 と、ローエンの声が轟き、直後に凪乃羽は腕をつかまれて、ヴァンフリーのもとに向かうことを阻まれた。
 凪乃羽はすぐ傍で金属のようなものが軽く擦れ合う音を聞きとった。
「動くな」
 デヴィンの制止はだれに向けて放たれたのか、ヴァンフリーがタロと同列になるまで歩み寄ったところで足を止めるのと、凪乃羽の顎の下に硬い物が当てられたのはほぼ同時だった。
 はじめのひやりとした感触は、それがおそらくは金属で、そして刃物だと見当がつくうちに凪乃羽の体温と同化した。視界の隅まで刃先が伸びていることはなく、それなら短刀だ。けれど、身動きをすれば危ういことにはなんら差はない。
 制止の言葉が放たれたとき、その意に沿うように、思わず息を呑んだせいで凪乃羽は呼吸を止めてしまった。再開することで刃先に喉が触れることも怖いが、長くは続かない。
「凪乃羽、大丈夫だ」
 語りかけるような声に、凪乃羽は怯えた眼差しのまま目を向けた。ヴァンフリーはいつものとおり余裕綽々の気配で、その双眸は凪乃羽を力づけるように貫いてくる。
 うなずこうとして顎下にある刃物によってさえぎられた。そうしたことで、わずかな身動きから傷つくことはないとわかると、凪乃羽はやっと息を継いだ。
「確かに大丈夫だろう。この二十三番めの娘が我々と“同じ”ならば」
 凪乃羽の背後から、ローエンが嗤笑(ししょう)した声音でヴァンフリーの言葉を否定にかかる。
 ローエンが何を云わんとしているのか、『同じ』とはなんのことか、ヴァンフリーにはそれらが通じているようで、かすかにその面持ちを険しく変えた。ヴァンフリーが目を向けたのはけれど、ローエンではなく、凪乃羽からわずかにずらしただけにとどまった。
「放せ、デヴィン」
 ヴァンフリーはその立場ゆえなのか、誕生した順からいえば自分よりも目上であるデヴィンに命じた。ただ命じただけではなく、警告もこもっている。
 顎下にあった刃がおののくように離れたかと思うと、思い直したようにすぐに押しつけられ、腕をつかんだ手も緩んではまたきつくなった。一瞬のことにしろ、デヴィンが怯んだことから、ヴァンフリーの立場が一目置かれていることは確かになった。かといって凪乃羽を解放しないのだから、デヴィンにとっては当然ながらローエンの命のほうが絶対なのだ。
「皇子の命といえども、皇帝の先の命が破棄されないかぎり従うことはない」
 デヴィンの口から、凪乃羽が想像したとおりの返事が放たれた。ヴァンフリーもまた想定内だったようで、そうだろうなといわんばかりに口を歪めた。
「ヴァンフリー」
 ローエンの呼びかけには、なだめるようでいながら脅しが込められている。
 対してヴァンフリーは、今度はローエンへと目を転じてわずかに顎をしゃくった。
「皇帝ともあろう上人がずいぶんと無様なことをなさるんですね」
 ヴァンフリーと、父親である皇帝の相性は悪い。ヴァンフリーが語ることからそんなふうに感じていたけれど、実際にローエンに向かっていつもこんなふうに横着な口の利き方をするのだろうか。
 絶対の権力者に向かうとしたらあり得ない言葉も、ひやひやしたのは皇帝の御方につく上人だけだった。だれだろう、おろおろした様子でヴァンフリーとローエンをかわるがわる見やっている。
「無様だと?」
「皇帝にとって、二十三番めの呪縛はそれほど脅威ですか。何を怯えているんです? ワール――いえ、ロード・タロの云い分を違うと示したければ、二十三番めの存在など気にせず正々堂々となさっていればいい。責め立てられるほど卑怯なことをしたという身に覚えがないのなら?」
「そういうおまえはどうだ。二十三番めを手に入れて、私の玉座を奪取する気はないとでも云うつもりか」
「玉座? そんなものを手に入れてどうなります?」
「それならなぜこの父に逆らい、その娘を、私が探しているとわかっていながら隠匿した」
「愚問でしょう。皇帝の脅威から守るためです」
「睦び事はなかったと?」
「それはこだわるようなことですか」
 だれも口を挟まず、ヴァンフリーとローエンの会話がなされるなか、ヴァンフリーが息をつくのに紛れて薄く嗤い、問うたことに対し――
「こだわらずにはいられないだろう」
 と、応じたのはタロだった。
 ヴァンフリーが隣に立つタロを見やる。その気配には、ハングのような畏敬の念も、ローエンの御方をした上人たちのような畏怖の念もない。また、ローエンのような侮った態度でもなく、ただ反抗心のようなものが見える。眉根を寄せて考えこむようなしぐさをした。
「どういうことです?」
「民の噂によると、私がワールを介して伝えたことは正しく伝わっていなかったようだ。ローエンが意図的に呪縛の真相を歪めたのかは私の知るところではないが」
 と、思わせぶりにローエンを見やったタロは、凪乃羽からヴァンフリーへと目を転じ、そしてまたローエンに戻した。
「心して聞き遂げよ。私からの言伝(ことづ)てはこうだ――二十三番めの存在が孕んだ子供の父親は、不可侵の威光を手に入れる。つまり、凪乃羽が子を持てば、必然としてローエン皇帝は玉座を追われる。もっとも、それはローエンにとって死と変わらぬものだろう」
 表情は変わらなくともほくそ笑んだ気配でタロはローエンを愚弄した。
 そうすれば答えを見いだせるとでも思っているのか、ヴァンフリーは喰い入るように凪乃羽を見つめている。思考を、あるいは気持ちを切り替えるためか、まもなく首をひねり、それからきっとしてタロを見やった。
「どういうことです?」
「権力を持つ資格に満たない者は、身の丈を超えた権力を持ったばかりに身を堕(お)とす。私にはもうワールの力しかない。上人の秩序を保つために最善を尽くした」
「最善だと?」
 タロの言葉は侮辱にほかならず、逆鱗に触れたのだろう、ローエンの声は地が震うほど低く轟いた。皇帝にふさわしくないとローエンはロード・タロから面と向かって突きつけたのだ。屈辱以外の何ものでもない。
「最善とは違う」
 ローエンの怒気に同調したように反論したのはヴァンフリーだった。けれど、けっして同調ではない。

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