NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

6.運命が廻る時  act. 2

 わずかに歪んだ空間がくっきりと別の風景に変わると、凪乃羽の目の前には、岩壁にぽっかりと大きな穴の開いた洞窟があった。かといって、奥が真っ暗かというとそうではなく、そこだけ天井部分に穴が開いているのか、光の降り注ぐ場所があった。
 後ろを振り向くと、あと数歩でも進めばすとんと落ちてしまうのだろう、足もとから続く地は途切れ、切り貼りをしたみたいに距離感のまったく違う景色が広がっていた。
 常緑草の床にぽつぽつと小さな白い花が咲いている。そこからあらためて洞窟へと伝っていき、周囲を見渡す。凪乃羽たちがいるのは、切り立った岩壁の出っ張りの上だった。
 なんの支えもない、本当に出っ張りなのか、それとも、なんらかの作用によってたまたまこの場所が削られているだけなのか、出っ張りの突端に行って確認するには勇気がない。高所は見晴らしがよくて好きだけれど、ウラヌス邸の庭園の途切れた先にある断崖同様に、下を覗きこむには足がすくむ。
 凪乃羽が戸惑っている間に、永遠の子供たちが洞穴のなかに向かって駆けていった。
「来い」
 と、ハングが凪乃羽を促した刹那、子供たちの歓声が大きく響いてきた。
「ワール!」
 続いた声は聞いたことのある言葉を叫んだ。
 いや、言葉ではなくて名前だ。
 ヴァンフリーがいない不安は拭えず、加えて驚きつつ、凪乃羽は一歩遅れて先を行くハングを追った。
 光の注ぐ場所に近づくと、白い姿が闇の中から浮かびあがるように現れた。凪乃羽は無意識に立ち止まる。
 二十一番の上人、秩序のワールはロード・タロによって抹殺されたと聞いている。同じ精霊であるランスもタワーもそう云って嘆いていた。それなのに生きているとはどういうことだろう。程なく光の下に立ったワールは、長い髪も真っ白であれば身に纏う長衣も真っ白だった。その躰に纏わりつく光の筋が上人らしく神々しい。
「こちらへ」
 ワールはうなずいて凪乃羽を導く。
「……はい」
 凪乃羽はおずおずと歩み寄り、ワールの招きはただ近づくだけではなく顔を見せるようにということだろうと解釈して光の下に入った。
 ひょろりと背の高いワールは凪乃羽を見下ろし、まるでそうすれば心底まで覗けるかのように見入った。実際に、合わせた目から奥へ奥へと侵略されている感覚がする。怖くはなくとも、試しの場に晒されているような気がして落ち着かない。
 呪縛に遭ったかのような時間は、それをもたらしたワールの口もとが緩むことでほどかれた。
「似ているな」
 それは、目に焼きつけるように凪乃羽を見ていた感想に違いない。ひと言のあとに続いたため息はどんな感情が込められているのか、凪乃羽には寥々(りょうりょう)とした気配に感じた。
「ワール、ずっとここにいたの?」
 ワールの傍に立ち、それまで凪乃羽との対面を静かに見守っていたサンが不思議そうに首をかしげた。
 ゆったりとサンに目を向けたワールの首がかすかにかしぐ。
「ワールに見えるか」
 薄らと微笑んだワールを見上げ、サンは目を丸くした。サンだけではなく、ムーンもスターもそうだ。
「あああ――っ」
 スターが驚愕した雄叫びを上げ、場所が洞窟という特性ゆえに反響は多大だ。
「スター、うるさいって!」
 サンの声もまたうるさく響き渡り、耳をふさいだムーンはうんざりした顔で首を横に振った。
「わかったようだな」
 反響音がおさまるとハングが答えを促した。
 凪乃羽にはさっぱりだが、永遠の子供たちは大きくうなずいている。
「ワール……じゃなくて、タロ様?」
「そうだ」
 うなずき返したワールはおもむろに凪乃羽へと目を戻した。
「凪乃羽、おまえを待っていた。永遠という時間のなかで、高々二十年余り、これほど時が過ぎるということに意識を向け、焦燥を抱いたことはない」
 ワールがロード・タロであったこと。その驚きに増して、しみじみとして紡がれた言葉は凪乃羽の定めを確定し、ヴァンフリーから聞かされていたことなのに衝撃は避けられなかった。
「わたしが……役に立てるんですか」
 凪乃羽の質問は意外だったように、ロード・タロは慮った面持ちになり、答えるまでにしばらく時間を要した。
「役に立つ。しかし、それはだれとてそうだ。何が身の内に起きようと、それは万物にある他と共存するかぎり、すべてが己のせいではない。だが、他のせいでもない。個々にあるのは、何をなすか、あるいはなさないか、その取捨選択の決断のみ。凪乃羽、おまえと同様、その周りでなされた取捨選択の導きがこの時であり、私の役に立つ。そうでなければならぬ」
 タロの本心は締め括りの言葉にあった。絶対を云い渡しながら、自分に云い聞かせるようであり、即ち、そうであってほしいという切望だ。
 タロの言葉を噛み砕き呑みこむまでに、今度は凪乃羽のほうが時間を要した。
 二十三番めと教えられてもなんの力も持たない。そんな凪乃羽のこれまですごしてきた時間がいま役に立つ、と簡潔に解釈すればそうなのだろうが、どう役に立つのかはさっぱり見当がつかない。それに、なぜそんな役目を自分が担っているのか、最大の不可思議だ。
「でも……あの……わたしにはわかりません」
 特別な信仰心があったわけではなく、けれどいるかどうかもはっきりしない神様を漠然と敬う気持ちはあった。いざ神というタロを目の前にして、反論とまではいかなくとも対立した言葉を発していると気づいて凪乃羽は云い替え、ためらいがちに自分の立場を示した。
「わからずとも――」
 と、洞窟のなかに響き渡った声は、タロでもハングの声でもなく、もちろん永遠の子供たちともはっきりと違う男の声だ。
「それが定めというものだ。おまえには我々と行動を共にしてもらいたい」
 云いながら突如としてタロの陰から現れたのは、ざんばら髪の背の高い男だった。光の下に入ると、その髪は黒いかと思いきや、よくよく窺えば月の明かりの差す夜空のような藍色をしている。荒削りの風貌でありながら、その眼差しは繊細さと見まがうような鋭さを放ち、存在感を示す。それなのに、その声を聞くまでその存在の気配はまったく感じられなかった。
「あの……」
「私はデスティ。ロード・タロを崇め、ハングを主とする」
 凪乃羽の疑問を察して名乗ったのは十三番の死神だ。ヴァンフリーからは闘いの達人だと聞いている。その言葉と噛み合わせるなら、戦闘が始まれば必ず次々と死に追いやる、あるいは相手の戦意を悉(ことごと)く喪失させるほど追いつめる、とそんな闘い方が死神と呼ばれる所以かもしれない。
 主がだれであるか、デスティがわざわざ主張をしたとしたら、ハングの地位を奪ったローエンは即ち敵と見なしているに違いなく、タロの意向に添えば、凪乃羽もまたローエンと明確に敵対するということになる。
「タロ様……ヴァンも……ヴァンフリー皇子も敵ですか。苦しめることになるんですか」
 ローエンを抹殺するとハングははっきりと口にした。それなら息子であるヴァンフリーのことはどうするのだろう。そんな不安が切実さを如実にして、問いかけた言葉に滲みでる。
 凪乃羽の縋るような眼差しを受けとめ、タロは量った気配で目を細めた。
「ヴァンフリーが心配か」
「はい、わたしのためにいろんなことを……手を尽くしてくれています」
「それは本当におまえのためか」
「……どういうことですか?」
「おまえが役に立つのはヴァンフリーにとってもそうだ」
「自分が皇帝になるため、ですか。ヴァンフリー皇子は人に従う人ではないと思います。でも、人を従えたがる人でもありません。わたしを利用する気なら、見つけだした時点でまわりくどいことをせずに地球から連れだすはずです。いまみたいにウラヌス邸に匿うことができるから。皇子はそうしなかった。地球が壊れなかったら、わたしがここに――シュプリムグッドにいることはなかったかもしれません」
 タロはやはり量るように凪乃羽を見つめ、一拍置いてからうなずいた。
「なるほど」
 と、口を出したのはハングだ。
「よほどヴァンフリーを信頼しているようだな」
「……間違っていますか」
 思わずそう訊ねてしまうような言葉だったが、それを発したハングははじめて笑みらしきものをくちびるに宿した。
「それは、おまえとヴァンフリーの問題だ。私が干渉することではない」
 冷たく突き放したようにも見える言葉だが、その声にはくちびるに宿る笑みと違わない寛容さが感じとれた。
 ただ、『私が』とその部分を強調したように聞こえ、そう気づいたとおり、あなたはどうですか、と窺うような様でハングはタロを見やった。
「私は、信じるのみだ」
 タロの返事は何を指しているのか、噛みしめるように云いながら凪乃羽のさっきの言葉のように切実さを込めつつも、真意はわからず曖昧だ。
「あ、皇帝が呼んでる!」
 サンが出し抜けに叫んだ。
 ローエンの訪問でウラヌス邸では何があったのか、凪乃羽は別れ間際のヴァンフリーとの時間に思いを馳せた。
「サン、ヴァンは大丈夫なの?」
 凪乃羽は切羽詰まったように訊ねた。
「ヴァンフリーの身が危険に晒されるなら、その条件は一つだ」
 サンのかわりに答えたタロはその条件が何かを知らせないまま、子供たちに目を転じた。
「永遠の子供たちよ、皇帝を見送ったらここに戻れ」
「うん」
「はい!」
「わかった!」
 各々に返事をした子供たちは洞窟の外に駆けていった。それを追うように凪乃羽が振り返ったときはもう子供たちは消えていた。
「凪乃羽、こちらへ」
 タロの言葉に正面に向き直ると、タロはくるりと身をひるがえして奥に行く。
 不死身だとわかっていてもヴァンフリーの身を案じる気持ちは常にある。大丈夫、と自分に云い聞かせ、凪乃羽は慌ててあとを追った。
 進むにつれて暗くなっていくが、タロの力ゆえなのかその周囲だけほのかに明るい。壁にぶつかることも石につまずくこともなく、ただ四対(つい)の足音を響かせながら曲がりくねった道を進んだ。まもなく、水のせせらぎを聞きとり、そうして、また明るくなっていく。
 たどり着いたそこもまた光が注ぎ、なお且つ光は揺らめいている。その揺らめきは青く光る泉から発生していた。
 タロは泉の縁(ふち)に立ち、振り向いて凪乃羽を促した。無言の催促に応えてタロの隣に並び立つ。何気なく目をやった泉の底に何かが見えた。目を凝らして揺らぐ水面を覗く。すると。
 底に沈んで横たわっているのは、夢で見たフィリルだった。
 泉は青く光りを放ちながら驚くほど澄んでいる。ゆえに、その深さは計り知れない。手を伸ばせばすぐ届きそうに、フィリルの姿は間違いなく間近にあった。
「知っているな」
 質問ではなく、知っていて当然だとばかりにタロが話しかける。
「はい……アルカナ・フィリルです。あの……わたしが見た……見ていた夢は本当にあったことですか」
 あの夢はひょっとしたらタロが見せていたのだと、凪乃羽はいま思い立った。
「無惨だろう」
 タロが明確に答えることはなく、淡々とした声音は心情を覆い隠すためだろう。水の底に双眸を注ぐその姿は、魂をもぎ取られたかのように立ち尽くして見える。凪乃羽が夢の中に見た、驚怖とその直後の怒りと、『フィリル』と名を呼ぶだけの言葉に込められていたのは、神らしからぬ慟哭でもあった。
「アルカナ・フィリルは亡くなっているわけではないんですよね?」
「眠っている。……いや、私が眠らせた。そうしなければ、フィリルは耐えられなかった」
「いつまでこのまま……?」
 ためらいがちに訊ねると、タロは伏せていた瞼を上げ、おもむろに凪乃羽へと目を転じた。
「凪乃羽、おまえ次第でフィリルは目覚める」
「わたし、ですか……?」
 はっきりは云わずとも、詳しく知りたがっていることは伝わっているはずなのに、タロには教える気がない。少なくともいまは、無言を通すことで凪乃羽にそう知らしめている。
「タロ様、どうして、わたしが二十三番めなんですか?」
「おまえが生まれてきたからだ」
 どういう意味だろう。喰いさがった問いに返ってきた答えは答えになっていない。重ねて――
「運命の輪は廻る時に差しかかっている。私が指し示すことではない。それが秩序というものだ」
 と、タロは凪乃羽の更なる問いかけを察して機先を制した。
 そうして、永遠の子供たちの声が洞窟をにぎやかにすると、タロは吐息を漏らし、さて、と、ハングとデスティ見やる。彼らは頭(こうべ)を垂れて従順の意を示した。
「タロ様、戻ったよ!」
「おかえり。永遠の子供たちよ、我々をアルカヌム城に案内してほしい」
 タロの言葉に目を丸くしたのは凪乃羽だけではなく子供たちもそうだった。
「アルカヌム城に?」
「もう充分だ。皇帝も逃げ惑うよりは決着を――我々にとっての裁きを待っている」
「タロ様」
 サンとスターがうなずく傍らでムーンが訴えるようにタロを見上げている。
「どうした」
「凪乃羽に無理をさせないで」
「無理ではない。フィリルに起きたことの報いという必然のもとに定めは運ばれている」
 凪乃羽、とタロは袖の中に潜めていた手をほどき、すっと凪乃羽の前で手を広げるようなしぐさをした。手と手の間にカードが並ぶ。カードには、大きく真っ青な星とそれを縁取る光、さらに周りを光か星かが取り巻いた模様が描かれていた。夢の中でフィリルが持っていたカードと同じだ。
「どれを選ぶ?」
 タロは凪乃羽に選択を迫った。
 その結果をタロはわかりきって問うている。そんな気がしながら、凪乃羽はカードを見つめた。そうしたからといってカードの裏側が見通せるわけもない。迷いつつも、とにかく選ぶしかなかった。
 おずおずと手を上げて人差し指でカードを指した。とたん、カードはひとりでに浮きあがった。それをタロが手に取って、くるりとカードをひるがえす。
「運命の輪だ。正位置を示す。それがどういうことかわかるだろう、ムーン?」
 凪乃羽に向けたカードをムーンに転じた。しばらくじっとカードを見つめ、納得したのか、ムーンはうなずいた。
「いよいよ皇帝を懲らしめるのね!」
「スター、わくわくすることじゃないだろう」
「でも、怖い顔の皇帝はうんざりだもの!」
 サンはスターをかまっても埒が明かないと見切りをつけて、タロを見上げた。
「皇子が凪乃羽を探してたよ。一緒に行かなくていいの?」
「ヴァンフリーには我々を案内したあとに伝言を頼む。アルカヌム城で会おう、と」
 この時、『あとに』というタロの言葉が意味を持つとは思いもしなかった。
 一度だけ遠くから眺めたアルカヌム城は近くにすると、よけいに目映い光を放っていた。ひざまずく騎士たちの前を通り抜け、巨大な門扉の前に立ち――
「ローエン、開けよ」
 タロの――ローエンにはワールと映っただろうか――命(めい)に一拍の間を置いて――それは躊躇のようにも感じられ――扉は開かれた。
 案内役を担う男が現れ、昇降台に乗って上に移動し、そこに待機していた男が導いた場所は、いかにも宮殿といった様で、太い柱と朱色の絨毯、それを椅子が囲み、そうして奥には玉座の間が見えた。
 玉座の主はローエンに違いなく、訪問者たちの顔ぶれを見ても驚くことなく鷹揚に首をひねった。
「どれもこれも久しい訪問だが、ワール、生きていたとはすっかり騙されていた。その紛れこんだ小娘は何者だ?」
「皇帝陛下、それは皇子がご執心の下界の女です!」
 椅子の一つに座っていたデヴィンが立ちあがり、ヴァンフリーが隠ぺいしたことを呆気なく晒した。
「なんだと? どういうことだ?」
 ローエンは訊ねながら、自らで答えを見いだそうとしているように眉間にしわを寄せる。
「言わずもがな、ローエン、おまえが探していた“娘”だ」
 タロは云い放った刹那、隣にいた凪乃羽の背中に手を当てて押した。行くがよい、と促した声は、凪乃羽にとって非情なものにしか聞こえなかった。

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