NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

5.逃れられない預言  act. 2

 エロファンは自分が急用だといって訪ねてきたにもかかわらず、せっかちだな、と最初にかけたヴァンフリーの言葉をそっくりそのまま返して肩をすくめた。
「彼らが皇帝に不満を持っているのは知っているな。ジャッジは、ロード・タロが創りあげたもう一つの世界を壊す破目になった。マジェスは皇帝とプリエスとの間で板挟みだ。気持ちは皇帝に不満を持つ妻と同じでも、皇帝に逆らうわけにはいかない。その二人が寄れば自ずと本音が漏れだす。ヴァンフリー、皇帝はおまえがハングを解放したと考えている。つまり、反逆者と見なされたわけだ」
「それで、凪乃羽はどう係わる?」
 意外にもエロファンは凪乃羽ではなくヴァンフリーのことを主だったこととして話し、その真髄を確かめるべくヴァンフリーは自分のことを差し置いて問うた。
「人質だろう? おまえを拘束することはできないからな、皇帝といえども。凪乃羽を捕らえておまえを意のままに動かす気だ」
「おれにとって凪乃羽がそれだけ価値のある存在だと認識されている、ということか」
 凪乃羽が二十三番めであることまでは露見していないのか。ヴァンフリーは慎重に訊ねている。
 ラヴィはその凪乃羽の役目を知っていたけれど、エロファンは知らないのだろうか、怪訝そうに凪乃羽を一瞥してから首をかしげた。
「そのとおりだろう。いままで、おまえが云うこの“砦”に女を住まわせたことがあるか? 凪乃羽は異例だ」
 つまり、凪乃羽を的にする理由は二十三番めではないのだ。エロファンの言葉を聞いたヴァンフリーは、堰(せき)が切れたように深く息をこぼした。それから凪乃羽に目を向けると、焦点を当てたまま黙して考えこむ。そうしたのも長くは続かず、つと凪乃羽からエロファンへと目を転じた。
「まさか自力でここを訪ねてくるわけはないな?」
「無論だ。先回りをして、永遠の子供たちには道案内の時間稼ぎをするよう云ってある」
「急ぐべきだな」
 独り言のようにヴァンフリーは云い、ああ、というエロファンの相づちが発せられたか否かのうちにヴァンフリーは再び凪乃羽を視界に捕らえた。
「早めの“ピクニック”だ」
 ヴァンフリーは身をかがめてさっと凪乃羽を抱きあげる。なんの構えもしていなかった凪乃羽は落ちそうな気がして、慌ててヴァンフリーの首に手をまわしてしがみついた。そうして落ち着くのも待たずに、ヴァンフリーは歩きだす。
「セギー、皇帝のお出ましだ」
 廊下に出たとたんの言葉を受け、セギーが足音を立ててどこからか現れる。
「どのように」
「邸内は封鎖だ。追い返すか、あるいはおれが同行して出ていくまで、おまえたちは封鎖内から一歩も出るな」
「承知しました」
 頭を垂れているセギーの横を通りすぎると、続いてエロファンがついてくる。ヴァンフリーの肩越しに凪乃羽と目が合うとその首がかしいだ。
「凪乃羽、きみは何者だ?」
「あ……」
「その話は後回しだ」
 何者だ、とエロファンが訊ねたのは即ち、何かを察しているからだろう。どう答えるべきか、答えが出ないまま凪乃羽が口を開きかけたとき、ヴァンフリーは振り向きもせずエロファンの追求をさえぎった。
 エロファンは叱られた子供のような様で身をすくめて見せる。ここに来たときの深刻さはどこへやら、けれど、その楽観ぶりは凪乃羽の気もらくにさせる。凪乃羽がくすっと笑うと、エロファンは聖職者よろしく安心させるようにゆったりとうなずいた。
「ヴァン、歩けるから……」
「戯れ言に付き合う間はない。おまえが自力で歩くより、こうやって運んだほうが確実に早い」
 ヴァンフリーはまるで頼りない幼子扱いで、さえぎったうえに一蹴する。
「ひどくないですか」
「おれに追いつけるっていうんならおろしてやるが」
 一瞬で所構わず移動できるヴァンフリーは、明らかにそのことをほのめかしている。絶対に不可能なことを凪乃羽に云い渡した。
「どこに行くの? セギーには封鎖しろって、わたしもなかにいて出てこなければ……」
「確実に逃す。それだけだ。邸内は上人の目をごまかすためにからくり仕掛けになっている。ちょっと動かせば広間の向こうには行けないよう封鎖されるが、見破られることもある。あくまで時間稼ぎにすぎない」
「どうやったら確実に逃げられるの?」
「永遠の子供たちがいれば、凪乃羽にたどり着くことはない」
 風を切るように、というよりは、ヴァンフリーが本気で歩くと一歩でどれくらい進むのか、呆れるくらいにウラヌス邸がずんずんと遠ざかっている。広い庭を突っ切って森の入り口ももうすぐだ。
「わたしはそれでいいとしても、ヴァンは大丈夫なの? 反逆者って思われてるなら……」
「おれはそう思わせるほど頼りないか。心外だ」
「それは関係なくて、ただ心配なだけ。確実に逃れられるってわかってても、ヴァンはわたしのこと心配してる。それと同じ」
 まもなくヴァンフリーは立ち止まり、凪乃羽をあの大きな木の下におろした。
「小賢しいことを云う」
「違うの?」
「違わない」
 ヴァンフリーはため息混じりで笑みを漏らした。かすかにうなずくようなしぐさをすると、次にはエロファンを見やった。
「エロファン、凪乃羽をレーツェルの泉に案内するよう、子供たちに云ってくれ」
「了解した」
 エロファンの返事を聞いてヴァンフリーは凪乃羽に目を戻す。
「凪乃羽、子供たちの案内はここが最終地点だ。皇帝が現れる。静かにここに隠れていろ。できるか?」
 凪乃羽はこっくりとうなずいた。
「レーツェルの泉で待ってろ。あとで行く。ピクニックはそれからだ」
 わかるな、という暗黙の質問がなされ、凪乃羽は再びこっくりとうなずいた。
「はい」
 ヴァンフリーはエロファンに向けてうなずくと――
「子供たちに合図をしたら、すぐに戻るよ」
 と、エロファンは凪乃羽に云い残して背中を向けると森の奥に行った。
 口を開きかけると、ヴァンフリーが人差し指を立てて凪乃羽のくちびるに置いた。
 そうしてまもなく。
「皇帝陛下、皇子の家はこの先よ」
 甲高い声が森のなかから響き渡った。凪乃羽たちに聞こえるよう、わざと声を張りあげたのか、それはスターの声だった。
 わかっていたこととはいえ、凪乃羽はびくっと肩を揺らす。人差し指を立てた手が凪乃羽のくちびるから離れていく。その手はもう片方の手と一緒に、腰もとに巻きつくようにしながら凪乃羽を引き寄せる。躰はヴァンフリーの腕で隠ぺいするように囲われた。
 程なく乱れた足音が聞きとれて、人の気配も感じとれた。足音が乱れて聞こえたのは、『ご一行』とエロファンが云ったとおり、ローエンが独りで訪れたわけではないからだ。
 足音が近づくにつれ、凪乃羽の躰が緊張にこわばる。それがすぐ近くに来たとき、姿を感知されないよう、ヴァンフリーは腕に抱えた凪乃羽ごと一歩二歩とわずかずつ移動する。入り乱れた足音はやがて森の門としてそびえる大木の間を超えた。
「皇子はずいぶんと辺鄙(へんぴ)なところに住み処を構えたものですな」
 のんびりした声はだれだろう。その言葉を受けてか、一つ、ぴたりと足音が止まった。伴って、追従していた足音もしなくなった。
「辺鄙だが――」
 中途半端にいったん途切れた、たったひと言が発せられた刹那、凪乃羽はびくっとして身をすくめた。ヴァンフリーの声は惑わせるように抑揚のきいた、艶っぽい声だが、同じ低い声でもその声には威圧感しかない。そして、聞き覚えがあった。
 凪乃羽を抱くヴァンフリーの腕がきつくなる。それは警告だろうか。縛りつけるきつさは凪乃羽の動揺をなだめる効果をもたらして、大丈夫、と声にするかわりに腕に躰をゆだねた。
「――アルカヌム城からは一切覗けることなく、なお且つ、風光明媚だ。城から見る風光に引けを取らぬほどな」
 広大な庭の向こうを見やっているのだろう、ローエンに違いない声は淡々としつつ、皮肉も込められている。
「手順はわかっているな」
「もちろんです。人間の堕落はこの眼が逃さない。上人と色に耽(ふけ)るなど、分不相応にも程がある」
 堕落と眼といったら、十五番の悪魔、デヴィンだ。そして、分不相応だという対象は凪乃羽に違いなかった。
「行くぞ」
 轟くようなかけ声の直後、歩みだしたのだろう、重い鎧を着たようなゆさりゆさりとした摩擦音がやけに目立つ。
 足音が遠ざかり、そして聞こえなくなったとき、ようやくヴァンフリーの腕が緩んだ。
 それを見計らったように、エロファンと永遠の子供たちが現れた。
「ヴァンフリー、大丈夫なのか」
 エロファンは案じつつ、ウラヌス邸のほうに向けて顎をしゃくった。
 凪乃羽からはヴァンフリーが盾になっていて、皇帝ご一行の姿はまったく見えないが、エロファンのしぐさから邸宅に向かっていることは察せられる。
「さあな。確実に云えるのは、皇帝が焦っているということだ」
「確かに」
 ヴァンフリーは薄く笑うと、永遠の子供たちに目を転じた。
「サン、ムーン、スター、凪乃羽の案内を頼む」
「わかった」
 サンが応じる一方で、ムーンは何か云いたそうにしている。そう感じたのは凪乃羽だけではなく、子供たちを見渡していたヴァンフリーはムーンに目を留めた。ムーンはその視線を受けとめたあと、凪乃羽をちらりと見やってまたヴァンフリーと目を合わせた。
「ムーン?」
「皇子、凪乃羽を放しちゃだめだよ。それが皇子を守ることになるから」
 ヴァンフリーはムーンの言葉に眉を跳ねあげた。
「おれが凪乃羽に守られるのか?」
「皇子は女の子をバカにしてる!」
 スターがすかさず反論の声をあげると――
「しーっ」
 ムーンが慌てて静かにするよう諌めると、スターは自分の手で自分の口をふさいだ。
「スター、女だからとバカにしているつもりはない。おれはそんなに非力かと問うただけだ。まあ、愚か者だとは否定しないが。ムーン、心しておこう」
 ムーンがうなずくのを見届け、ヴァンフリーは、あとで、と凪乃羽に言葉をかけた。返事を待たずに大木の裏側にまわる。一周して出てくるでもなく、ヴァンフリーは消えてしまった。
 急いだせいか、しばしの別れはあまりにあっさりとして、がっかりとさみしいような気になりながら、凪乃羽は大木の裏側にまわって確かめてみた。やはりヴァンフリーの姿は跡形もない。その様子を見ていたエロファンがくすりと笑った。
「まだ慣れないのか?」
「自分にできないことに簡単には慣れません」
 フフフッと笑みをこぼしたエロファンは、さて、とわずかに慮ったような面持ちに切り替えた。
「永遠の子供たちといれば凪乃羽が見つかることはない。私は城に帰って様子を見るとしよう。子供たち、頼むよ」
「わかってるってば」
 ヴァンフリーに続いてエロファンと、サンは二度も云われたことが気に喰わず、むっつりと返事をした。
 エロファンは笑いながら凪乃羽を見やった。
「気をつけて」
 ありがとうございます、という凪乃羽の返事は伝わったのか、エロファンは宙に溶けるように消えた。
「凪乃羽、行くよ」
 サンが首を傾けて森のなかへと促した。
「はい。お願いね」
「任せて!」
 スターが凪乃羽の手に自分の手を滑りこませて繋ぐ。
 歩き始めると、スターの反対隣を行くムーンが凪乃羽を覗きこんだ。
「凪乃羽、凪乃羽はだれよりも自分を守るべきだよ。それが凪乃羽とそのだれかのためだから」
 ムーンは謎かけのようなことを口にする。
「ムーン……」
 凪乃羽はムーンの言葉に気を取られて――
「預言どおりだな」
 と、ハングの声を聞くまで、そこがレーツェルの泉なのかはわからないが、少なくとも泉へと一瞬にしてたどり着いていたことに気づかなかった。
「逃れられないだろう?」
 ハングはタロを絶対の存在として崇めた問いを投げかける。
 逃れられないというのはおそらく預言のことだと、そこまではわかったものの――
「ハング、預言がロード・タロの単なる希望だというのはわかっている。僕たちはそれに沿ったよ。凪乃羽に危険が及ぶことはないよね?」
 凪乃羽はムーンの言葉に預言が予言ではないことをあらためて示された。
 ハングはロード・タロの意向に沿って、あるいは相乗りをして、永遠の子供たちはそれに加担して凪乃羽を呼びよせたのだ。
 衝撃を隠しきれずムーンを見やったとき、だれかが凪乃羽の手を取った。見下ろすと、スターの小さな手が握りしめてくる。
「凪乃羽、大丈夫。わたしたちは裏切ったんじゃないの。御方だから。ハングはどうだか知らないけど」
「スター、凪乃羽にとっては全然、大丈夫じゃないだろ、それじゃあ」
 サンが呆れつつ指摘した。対してスターは反論を示してつんと顎を上げた。
「でも、森のなかでわたしたち以上に凪乃羽を守れる存在はいないでしょ。皇子からだって隠すことができるのよ。違う?」
「まあ、それはそうだけど……」
 サンが肩をすくめていると、ハングが長いため息を漏らし、同時にそれまでの重々しい気配を捨て、悠然とした様に変えた。
「心配しなくていい。おまえを――凪乃羽を傷つけることはない。私が制裁するのは、他の尊厳を蔑ろにして痛めつける奴のみだ」
 それがだれを指し示しているかははっきりしている。ハングは永遠の子供たちから目を転じ、凪乃羽を見据えた。
 取り繕うだけの言葉には感じなかった。スターが察したように裏切られたと感じていた衝撃はおさまり、ハングの首が問うようにかしぐと凪乃羽はうなずいて応じた。暗黙の会話はハングがうなずき返すことで落着する。
「凪乃羽、ロード・タロが待っている。私と来てくれるな」
「……会えるんですか」
 思わず訊ねてしまったのは、夢の中でフィリルに同調したかぎり、ロード・タロの気配は感じられても姿を見ることがかなわなかったからだ。
「来てくれたらわかる」
 凪乃羽はためらった。迷うのではなくためらうという時点で、一緒に行かなければならないという気持ちが自分にあることの証しでもあった。
 凪乃羽の正体がローエンにばれていなくても、ヴァンフリーはローエンから裏切り者と見なされている。それならば、いずれは――いや、もうまもなく何かが動くことは凪乃羽にとってもわかりきったことだ。
 逃れられない。
 ロード・タロの希望にかかわらず、きっとハングの言葉がすべてだ。
「あの、ヴァンフリー皇子が傷つけられるようなことはありませんよね?」
 凪乃羽がためらう唯一の理由を問いかけると、ハングは驚いたようにわずかに目を見開く。
「我々が永遠に生きられることは知っているだろう? 加うるに、皇子は私のように捕らわれたとしても瞬時にして逃れられるが」
「はい。それでも……危めようと狙う人がいることといないことでは違います。深い傷を負えば動けなくなることもあるって聞きました。それに、皇帝陛下はいま皇子のことを疑っているかもしれません」
 ハングは何かを慮ったように目を細めて凪乃羽を見つめた。つと目を逸らしたかと思うとすぐに凪乃羽の顔に戻ってくる。
「なるほど。皇子は抜かりなく振る舞っているようだ。皇子のことなら心配無用だ。皇帝はまだエムを信じているようだからな。加えて、凪乃羽のことと同様におれがあえて皇子を傷つけることはない」
 ハングがエムを恋うていた、もしくは手に入れたがっていたことは聞いたけれど、その気持ちをずっと抱持してきたのかはわからない。ここでヴァンフリーの母親の名が持ちだされるのはどういうことだろう。そんなちょっとした疑問も、ハングが、どうする? と問うように首をひねると、即座に答えなければならない気にさせられ、凪乃羽は考える間もなくうなずいた。
「永遠の子供たち、行くぞ」
「うん」
 凪乃羽が身構える間もなくスターに手を引かれて二歩を踏みだし、ヴァンフリーに預言のことを話しそびれたと気づいたとたん、そこはスライドショーのように景色を変えた。

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