NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

1.城下町の噂話  act. 2

 凪乃羽は籠の中から店主が云う絶品のお菓子を取りだす。その見た目はデニッシュパン風だ。ねじった生地をさらにぐるぐるに巻いて、真ん中に赤いジャム、その上から艶々としたコーティングがなされている。
「いただきます」
 頬張って歯を立てるとパリパリッと音がして、それからふわりと生地の中に埋もれていく。コーティングは焦がしキャラメルで、ジャムはベリー系の風味がする。食感の違いも甘酸っぱい組み合わせも、店主の云うとおり絶品だ。
「美味しい。お得意さん用って裏メニューみたいな楽しみありますね。ほかの店もあるの?」
「さあな。おれは買い物をしないから」
 訊ねた相手を間違っていた。凪乃羽は自分で自分を笑う。そうして、ヴァンフリーの口もとに向かってお菓子を差しだす。
「ヴァンも食べてみて――」
「おいおいおい、そこのおふたりさん、人前で見せつけてんじゃねぇぞ」
 凪乃羽が云いかけた言葉はまったく知らない声の主にさえぎられた。
 不穏な口調にハッとして振り向いた凪乃羽と違い、ヴァンフリーは鷹揚に声のしたほうを見やった。
 ふたりの前に現れたのは、いかにも柄の悪い四人の男たちだ。生まれ育った環境は違えど、人の醸しだす雰囲気はどの世界でも共通だと、凪乃羽は妙に感心した。
 不思議と凪乃羽に恐怖感はない。それはヴァンフリーが永遠の上人だと知っているからで、逆に、上人の前ではひれ伏すほど民は畏れているらしいのに、ヴァンフリーがその上人だと知らない男たちが気の毒な気もした。
 いったいどういう展開になるのだろう。
 ヴァンフリーに目を転じると、ふっと男たちに笑みを見せた。それが嘲笑でもなくおもしろがっているから、男たちにとっては始末に負えない。黒く染めた髪はともかく、よくよく見れば双眸が玉虫色だと気づくはずなのに、肝心の男たちがヴァンフリーを見極めることはなく。
「何を笑ってやがる」
「女の前だからって粋がってんじゃねぇ」
 男たちは逃げ道をふさぐべく、ふたりの前で扇型に広がった。
 すると、俄に圧迫感を覚えて凪乃羽はわずかに躰を引く。背後にある水路に落ちるほどそうしたわけではないものの、ヴァンフリーは引き止めるように凪乃羽の背中に手を当てた。
「腕前を披露してやろうか。もっとも、手応えもないだろうが」
 ヴァンフリーは凪乃羽に向かってにやりとしてみせた。
 そうかと思うと、凪乃羽が手に持った焼き菓子にかぶりついた。ヴァンフリーは男たちにおかまいなしで、小さく咬みちぎって味わっている。
「珈琲とは比べものにならないな」
 さっきの言葉の意味を凪乃羽が把握できないうちに、焼き菓子はあえなく不満そうにしたヴァンフリーの美食の範ちゅうから除外された。
 凪乃羽もまた場をわきまえず、美味しいのに、と反論しかけたとき。
「てめぇ、無視するとはいい度胸だっ」
 一人の男がわめき散らし、凪乃羽は首をすくめた。
「凪乃羽、おまえはこいつらと違っておれがだれだかわかっているだろう?」
 ヴァンフリーはからかうように云い、それから男たちへと視線を移した。
「勝手に見せつけられているおまえたちに、おれが反論する必要はない。忠告すれば、とっとと消えたほうがおまえたちの身のためだ」
 ヴァンフリーは不遜に首をひねった。
「うるせぇ! 見かけない男のくせに、この市場で金貨を見せびらかすことがどういうことかわかってないらしい」
「付き人もいねぇようだし、爵子(しゃくし)じゃねぇなぁ。商人か高利貸しの子息か?」
「まあ、こいつが苦労を知らねぇってことにはかわりねぇ」
「おれたちに遭ったことがてめぇの運の尽きってぇことだ」
 男たちは好き勝手なことを捲し立て、それを聞き終えた――もしくは云い終わるのを待っていたヴァンフリーは鼻先で笑う。おもむろに立ちあがった。
「云いたいことはそれで終わりか」
 ヴァンフリーがいざ立ちはだかると、背丈の違いは歴然なほどで、男たちは無意識で一歩ほど後ずさる。そして、ヴァンフリーが詰め寄れば、そのぶんだけ男たちも下がった。
 銀髪の効力がなかろうと、ヴァンフリーからは充分に高貴さと威厳が放たれている。一定の距離を保つだけで、それ以上に引き下がらないのは男たちの自尊心のなせる技か。それとも――さっとそれぞれの腰もとから抜かれた剣から力を得たのか。
 凪乃羽は息を呑む。ついさっきまで興じるほどだったのに、その余裕はさすがに消えた。
 ヴァンフリーは一歩二歩と動き、凪乃羽を男たちから隠すように躰の向きを変えた。そうやって迎撃するべく態勢を整えたのかもしれない。
「ここはおれたち賊徒の領域だ。通行料も支払わず、はばかることは許されねぇ」
「通行料? そんなものがこの市場にまかり通っているとは聞いたこともないが。つまり、おまえたちの目当てはおれの金貨か」
「わかってんなら早く出せ。そのほうがおまえのためだ。菓子を買うくれぇで金貨を出すんだ。おまえにとってはそれでも安いもんなんだろう」
「ああ、安いものだ」
 応じたヴァンフリーは腰もとに手をやる。そこには、大きめの革の巾着がベルトに引っかけられている。その陰にグルカナイフがぶらさがっていることに男たちは気づいていないかもしれない。
 ヴァンフリーはその柄に手をやりながら、「だが」と続けた。
「この金貨は己の妃(ひ)のために使うものだ」
「往生際の悪い奴だ」
 ぐっと男たちは剣の柄を握る手に力を込める。傷つけてでも金貨を奪うつもりなのか。
 けれど、ヴァンフリーが怯むはずもなく――
「どっちがだ」
 と、挑発した言葉を吐いた。
 直後――
「この野郎っ」
 その怒号が発せられるや否や男たちが一斉に剣をかまえた。
「ヴァンっ」
「じっと待ってろ」
 至って落ち着いた声に、凪乃羽はさっきの言葉を思いだした。
 ヴァンフリーが何者か、確かに凪乃羽は知っている。命の危険は、上人にとって万が一の可能性もない。
 凪乃羽は言葉どおりに待っていればいい。動けばヴァンフリーの足を引っ張ることになる。固唾を呑んで、ヴァンフリーがグルカナイフを引きだすのを見守った。
 長い剣に、せいぜいその半分の長さくらいしかないナイフでどう太刀打ちできるのだろう。そんな疑問が浮かぶと同時に、男たちが剣を振る。その間際、ヴァンフリーはグルカナイフを捻るようにしながら、左端の男から右端の男へと、まるで楽隊の指揮者のように優雅に運んだ。
 その間、金属のぶつかる甲高い音が立ち、そして二拍ほど間を置いたのち、カランカランと軽い音が連続した。
 あっという間の出来事だった。ブーメランのようにわずかに曲がったグルカナイフは、男たちの剣を器用に絡めとり、彼らの手から凶器を奪ってしまっていた。
 ヴァンフリーは横に倒したグルカナイフを、後ずさった男たちにまっすぐに向ける。
「いま、おまえたちの首にこの刃を薙(な)ぐこともできる。あるいは投てきの腕を久しぶりに試して見たい気もするが」
 どうする? といったふうにヴァンフリーは首をひねった。
 試すという言葉には余裕しか見えない。そう感じたのは男たちもそうだったのだろう。
「ちっ。引きあげるぞっ」
 舌打ちをした男は、腰が引けたような様子で地面に落とした剣を拾い、そそくさと背を向けた。
「憶えてやがれっ」
 そんな捨て台詞を別の男が吐き捨て、災難は立ち去った。
 呆気ない幕切れは、それだけヴァンフリーは剣の扱いが達者だったという裏づけに違いない。
「やるねぇ、旦那」
 声の聞こえない程度に賊徒の男たちは遠く離れ、それを見計らったように周囲から感心した声があがった。
「嗜みだ」
「その程度の言葉でおさまるようには見えなかったが……。最近は例のせいか、賊徒が勢いづいていかん。旦那、たまに顔を出してくれ。そうしたらあいつらも手控えて、この市場にもまた人が戻るだろう」
 ヴァンフリーの“見かけ”よりふたまわりほど年配の男は、憂えた様子で訴えた。いまでも人は多いと思うのに、世が平穏であればごった返しになるほど人出が多いのだ。
「そのとおり、“たまに”しかできないとだけ云っておこう」
 男は二度うなずいて、邪魔をしてすまないな、と断りを入れ、連れのほうに目を戻した。
「ヴァン」
「まったく手応えがない」
 振り返ったヴァンフリーは不満を漏らし、凪乃羽を笑わせた。
「なんだか可笑しい」
 凪乃羽がそう漏らすと、再び隣に座ったヴァンフリーは片方の眉を跳ねあげるように動かした。凪乃羽はちょっと笑みを漏らして、その理由を話しだす。
「人前で見せつけるなとか、憶えてろっていう捨て台詞とか、ドラマなんかで安っぽい悪人たちがよく云ってた言葉でしょ。世界は違っても人の生態って変わらないんだなぁって、ヘンなところで感心してるの。可笑しくない?」
「確かに」
 ヴァンフリーは相づちを打ったあと、吹くような笑みを漏らした。
「ヴァン、さっきの人が云ってた『例のこと』って何? もしかしてアルカナ・ワールがいなくなったせいで、いまみたいな乱暴な人たちが多くなったってこと? それで人が少ないってことなの?」
「ああ。民の統制が利かなくなったんだろうな」
「民の統制って、アルカナが統制しているわけじゃないの?」
「そういう面倒なことをアルカナがやると思うか? ワールによる秩序の発動が民によって継続されていたにすぎない。そうやって、アルカナの存在は制御にはなるが、統制には口を出さない。現にワールがいなくなったことの結果がこれだ。凪乃羽が云ったんだろう、神はわがままで慈悲深くないと。陳情はエロファンが聞き遂げるが、エロファンにしろ、それは退屈しのぎだ」
「退屈しのぎ?」
「おまえの国ではなんと云った……他人の不幸は蜜の味、か?」
「……アルカナ・エロファンは相談を楽しんでるの? このまえ追い払ったときは役目を放りだしてるって云ってませんでした? 楽しんでるなら放りださないと思うけど」
「エロファンはそれよりも、いまは凪乃羽に興味を持ってる」
「アルカナ・エロファンが? わたしに?」
「その反応はなんだ。まさか喜んでいるんじゃないだろうな」
 凪乃羽のびっくり眼を見てヴァンフリーは顔をしかめた。凪乃羽はさらに目を丸くする。
「喜ぶって……普通に驚いてるだけです」
「そうあるべきだ」
 押しつけがましい云い方だ。
「わたし、自己評価はそんなに高くないから、興味と恋を混同したりはしません。ヴァンがわたしに関心を持って、こうなってることもよくわからないくらい」
 喜ぶという言葉の根拠を考えればそういうことだろうと思って云ってみると、ヴァンフリーもまたよくわからないといったふうに首を横に振る。
「おまえは自分の価値をわかってないからな。それでなくとも、どうにもならないことが起きた」
 ヴァンフリーの言葉の後ろ半分、何が云いたいのか把握できなかったけれど、凪乃羽はそれよりも価値という言葉に気を取られた。森のなかで、ハングから『なぜ』という難題を突きつけられたことを思いだす。
「ヴァン……わたしの価値って?」
 ヴァンフリーには凪乃羽を必要とする理由がある。ハングはそんな不穏な言葉を吐いた。それは『価値』という言葉と合致する気がした。

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