NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第4章 二十三番めの呪縛

1.城下町の噂話  act. 3

 ヴァンフリーはふっと笑みを見せる。
「価値までないと思っているんじゃないだろうな。少なくともおれにとっては価値がありすぎる」
 凪乃羽にはそれこそ“すぎる”言葉だ。それが本心なら、という前提があれば。
 つい先刻、答えるまえの笑みすら、『価値』という言葉を無価値にするための時間稼ぎのようにも感じた。
 簡単に猜疑心が植えつけられたのは、凪乃羽が自信に欠けている証拠だ。ラヴィのようになるには程遠い。もっとも上人を羨むなど不毛だ。
「よくわからないけど、アルカナが道楽主義っていう裏付けは取れました」
「よほどの問題以外、上人が民に干渉することはない。民のなかから選(え)りすぐられた貴族たちによって統制されている」
 道楽主義という烙印をおもしろがりつつ、そう説いたヴァンフリーだったが、直後に首がかしいだ様は懸念を示す。
「また戻ったな」
「戻った? なんのこと?」
「おまえの機嫌だ。何がそうやっておまえの機嫌を損ねている?」
 ヴァンフリーは凪乃羽をよく見ている。それはなんのためだろう。
「まだ……地球のことを引きずっているだけ。……たまにだけど」
 気に喰わないといったヴァンフリーを見て、凪乃羽は付け加えると笑ってごまかした。
 長い吐息をこぼしつつ、ヴァンフリーはゆったりと首を横に振る。
「時間を経るしかないんだろうが……」
 理解を示しながら慮った声音で云い、しばらく考えこんでいたヴァンフリーはやがておもむろに立ちあがった。
「気分を変えよう」
 ヴァンフリーは凪乃羽の手を取り、立つように促した。
「どこかに行くの?」
「衣装の調達だ。目移りするくらい生地や衣装のそろった店に連れていってやる。おれが選んでやるよりも、自分で選ぶほうが楽しみも増すだろう?」
 ヴァンフリーは、広場を縁取るように店の連なった市場には行かず、店の合間にある細い通りに入りこんだ。すぐに道が交差した場所に出ると、広場を囲むようにつくられているらしい、緩やかに曲がった広い道に沿って歩く。
 やがて目的の仕立て屋にたどり着いた。
 木製の扉には、真鍮でできた天使の羽を思わせるようなドアノッカーがついている。それを軽く叩いて音を鳴らす、ヴァンフリーのしぐさは優雅に見えた。出てきた男はセギーに似て厳格な執事風だったけれど、ヴァンフリーを認識したと同時に相好をくずして丁重に挨拶をこなした。凪乃羽に向けた眼差しも温和で歓迎を示している。
 案内されるままなかに入ると、生地を並べた棚があり、お針子が作業台に向かってせっせと手を動かしていた。
 凪乃羽から見れば、店の雰囲気もつくりもアンティークだ。市場の雰囲気もそうだけれど、ただ、市場にあった店とは明らかに格が違うことはわかった。
 お針子は目を上向けて客を見、すると、これでもかというほど顔を綻ばせた。
 ほかに客は見当たらず、そこでヴァンフリーはあらためて凪乃羽とふたりを対面させた。迎えに出た男、バトがセギーの弟だと聞くと、凪乃羽は最初の印象どおりで納得した。お針子のペンタは妻で、夫婦水入らずで仕立て屋を営んでいるという。
 ヴァンフリーが用件を云いつけるとお針子は快諾してうなずいた。
「果実酒を買ってこよう。焼き菓子を食べては喉も渇くだろう」
 気を利かせているようで、それはきっと“ふり”だ。
「ヴァン、服をつくるのに付き合うのが退屈なんでしょ?」
 凪乃羽が推し量った本音を口にしてみると、的中しているのかヴァンフリーは可笑しそうにした。
「何かあればすぐに飛んでくる。ヴァンと、おまえがそう呼べば。あのときのように忘れるな」
 ヴァンフリーは促すように首をひねる。
 何をほのめかしているのか、凪乃羽が把握したのは一瞬のちで、あのときは――天変地異に見舞われたときは冗談めかしていたけれど、おざなりの言葉ではなく本当に『ヴァン』と呼ぶだけで目の前に現れるのだとやっと理解に至った。
 ヴァンフリーが自由に一瞬にして移動できることは、実際に見てもう知っている。いや、あのときも現に突然、ヴァンフリーは凪乃羽の前に現れた。しかも、宙に浮いて、だ。
「さっきみたいな乱暴な人が現れたらちゃんとそうする。またヴァンの闘いぶりが見たいから」
「あれは闘いとは云えない。戯れだ。おれとしても見せ足りないが、そういう輩(やから)が現れても困る。ここは上流階級しか入らない店だ、大丈夫とは思うが」
 ヴァンフリーは興じること半分、あとの半分は懸念が窺える。店を出ると云ったときは大したこととは捉えていなかったのだろう。凪乃羽の何気ない言葉に影響されている。
「大丈夫。ヴァンがすごいってことはわかってるから」
 はじめて町に降りて、そのうえ慣れない世界だ、そこに一人だけ取り残されれば不安になるところだけれど、バトとペンタがヴァンフリーの正体をわかっているから安心できる。
 凪乃羽の声に淀みはないはずで――
「そのとおりだ」
 吹くように吐息を漏らしたその笑みを見ると、懸念もなくなったように見える。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「ああ。おまえが干からびるまえに戻ってくる」
 ヴァンフリーは冗談めかして云い、頼む、とバトに声をかけて出ていった。
「親愛なる凪乃羽、さあ、いらっしゃい」
 凪乃羽はペンタに手招きされ、店の奥に引っこむとまずは採寸をされた。
 次にペンタは布を持ちだした。
「わたしのお勧めから試してみてよろしいですか」
 と伺いつつも返事を聞くまえに凪乃羽の躰に布を当て、ペンタは器用に針で留めながらドレスの形へと整えていく。
「ペンタ、わたしが着てるこの服もここでつくってもらったんですね?」
 ウラヌス邸に住む使用人の衣服と、凪乃羽のそれは明らかに生地の質が違う。訊ねてみると、ペンタは大きくうなずいた。
「そうですよ。凪乃羽さまが気に入ってくださってると聞いています」
「それは本当です。わたしの……わたしが生まれ育ったところにはこんな生地なかったから」
 凪乃羽が云うと、うれしそうにしていたペンタはふと顔を曇らせた。
「どうかしました?」
 凪乃羽の問いにペンタは憂えた面持ちでため息をつく。
「いま、何もかもが不安定な世、生地の調達もままならなくなっているんですよ。もともと高価なものだけれど、このままではもっと手の届かないものになってしまいます。わたしたちもお得意さまも」
「アルカナ・ワールがいなくなったせい?」
「そうなんですけど……そもそもはアルカナ・フィリルの悲劇から始まったことだと、最近になってわたしたちの耳に入るようになりました」
「……アルカナ・フィリルの悲劇?」
 ペンタの言葉から、上人のなかでは公然の事実でも、民には知っていること知らないことがあるとわかった。
「ええ。凪乃羽さまは噂をご存知ですか」
 凪乃羽がした疑問ともつかない曖昧なつぶやきのせいで、逆にペンタから問われて返答に詰まった。
 凪乃羽が見ていた夢とヴァンフリーが教えてくれたことを噛み合わせれば、シュプリムグッドの秩序が乱れている根本は確かにフィリルにある。
 フィリルに起こったこと、それがロード・タロを怒らせ、秩序の精霊ワールを消し去った。順をたどればこうなる。
 ただ、フィリルに起きたことをヴァンフリーが知っているかというと、はっきりしない。『あること』がタロを怒らせたと云っただけで。
 それを、ウラヌス邸に隔離された状況下、凪乃羽が知っていると云ったらおかしなことになる。
 凪乃羽はそう結論に至って首を横に振った。
「町におりてきたのは今日がはじめてだから、まだ噂話は聞いてないんです。どんな噂ですか」
「わたしたち民と違って、永遠に存在するのが上人です。それなのにアルカナ・ワールに続いて――いえ、アルカナ・フィリルが原因だとしたら順番が逆になりますけど、とにかくアルカナ・フィリルは眠りについて目覚めないとか、消えたとか。そうなった理由が、皇帝陛下の暴挙だというんです。アルカナ・フィリルがひどく傷ついたこと、皇帝陛下が横暴なこと、それが事実だとして噂されています。だからあんな呪いまで……」
 云いながら顔を曇らせていたペンタは、憂えた様子で言葉を途切れさせた。
「……呪い、ですか」
 ヴァンフリーも子供たちも『呪い』を口にしていた。鍵となる『呪い』がなんなのか、その内容はだれからも聞けずじまいだ。
 凪乃羽が確認するようにつぶやくと、ペンタは何やらハッとして、それは口を噤んでしまいそうなしぐさに見えた。
「ペンタ、呪いってなんですか?」
 凪乃羽は率直に訊ねてみた。
「噂話ですよ」
 ペンタは何をためらうことがあるのか、やはり喋りそうにない気配で肩をすくめて笑った。安っぽい悪人がいることと同様、笑ってごまかすというのも万国共通のようだ。
「だから話してもかまわない気がします。噂話って楽しむものですよね。ウラヌス邸ではそういうのが聞けなくて、ちょっと退屈です」
 凪乃羽が愚痴っぽく漏らすと、ペンタは思い当たることがあるかのような面持ちになり、それから可笑しそうにした。
「今日、おふたりがこちらにお見えになることはセギーからの言伝(ことづ)てで存じていました。ヴァンフリー皇子がそれはもう凪乃羽さまを大切にしていらっしゃると伺っていますよ」
 セギーが無駄口を叩くとは思えず、失態を演じることのないよう弟夫婦に助言として伝言したのだろうが、それは得てしてからかう材料となった。
「それは本当です。でもペンタ、話を逸らしてますよね」
 ペンタは惚けて肩をすくめ、それからやはりためらったように首をかしげた。
「ヴァンフリー皇子にも関わる噂なので、凪乃羽さまによけいなご心労を与えてしまっては申し訳ないんですよ」
 凪乃羽は驚きにわずかに目を見開いた。さすがにヴァンフリーが関わるとなればためらいも芽生える。だから、子供たちも関心が逸れたふりをしながら口を噤んでしまったのか。
 ただ、ハングもその名を口にしたように、ヴァンフリーがシュプリムグッドで起きている一連のことに欠かせない存在なのは明らかになった。
「ペンタ、ヴァンはわたしたちよりずっと強くて、便利にできている上人だから、きっと心配する必要はないんです。それとも永遠の上人でもヴァンに命の危険があるっていうこと?」
 そう訊ねるとペンタはふと考えこみ、そして少しほっとしながら結論を得たふうに凪乃羽に焦点を当てた。
「そんなことはありません。直接、皇子に関わることではなくて……呪いは皇帝陛下にかけられたというんです」
「皇帝陛下に?」
「ええ。上人は不死身です。アルカナ・ワールは抹殺されたと聞きます。ロード・タロは永遠を破棄できる力を持ち、実際にそうして見せました。呪いは、皇帝陛下を抹殺できる唯一の力が生み落とされたことです。それを手に入れれば皇帝陛下を倒し、このシュプリムグッドの支配者となれるという噂が広まっているんですよ」
 確かに、呪いはローエン皇帝に向けられたもので、直接ヴァンフリーに関わることではなかった。親子である以上、無関係ともいえない。
 よく考えると、矛盾もある。なぜ、タロが永遠を破棄できる力を持つのなら、怒りの矛先、ローエンへと直截に及ばなかったのか。
 それに、ペンタの言葉にも引っかかった。
「生み落とされたっていうのは、力が武器ではなくて人ってこと?」
「どうなんでしょう。噂ですから。生み落とされたという言葉がまかり通っていることは確かですけど。もし、支配者が変わるとして、新たな皇帝はいったいどんな方になるんでしょう」
 ペンタは不安そうにつぶやいた。
 一方で凪乃羽は、いろんなことが繋がって一つになる、その一歩手前まで来ているのに完成しない、そんなもどかしさを覚えていた。

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