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DOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜
第3章 恋に秘された輪奈
2.永遠の子供たち act. 2
木々のなかを駆けてきたけれど、ここはすっぽりと空へと突き抜けた空間になっている。幅が狭くはあっても川と滝がそこを陣取っていれば当然、背の高い木がのさばることはない。
凪乃羽は、似ている、とそう思った。
いや、雰囲気はまったく違う。ただ、川と川を取り囲む岩場と、そして滝が共通点としてあるだけだ。
「凪乃羽」
ヴァンフリーに目を戻すと、窺うような様で凪乃羽を見つめてくる。
「なんでもない」
呼ばれただけなのにそんなことを云ってしまえば、何かしらあると暴露しているようなものだ。知られてもまずいことでは全然ないけれど、凪乃羽はさっきもヴァンフリーに絡んでうんざりさせる要素をつくっている。うんざりしているようには見えなくても、ずっとさきに積もり積もってそうさせるかもしれない。母とは本当に会えないの? とそんな叶わない望みを口にしても、同じ答えが返ってくるだけでなんにもならないのだ。
凪乃羽に向けたヴァンフリーの笑みは静かで、口にしなくても伝わっているのだろう。
「怒ったのか?」
「……? なんのこと?」
「男と女の話は確かに子供の前でするべきじゃない。気分が萎える」
静かな笑みの気配そのものの声でなんのかまえもなく聞き遂げたけれど、その意味を把握すると、凪乃羽は呆気にとられた。
「ヴァン!」
咎めるように名を呼び、すると、静けさから本当に興じていそうな笑い方に変わった。
「凪乃羽、ちゃんと見てて!」
凪乃羽が文句を云うよりさきにスターの声が割りこんだ。
「見てるから、ちゃんと前を向いて!」
水流の音に負けないよう、凪乃羽が声を張りあげると、はぁーい、というのんびりした返事が来た。
心配しなくていいとわかっていても、見ていればハラハラする。自分が木の橋を渡っているわけでもないのに、凪乃羽はヴァンフリーの腕につかまった。ヴァンフリーがその手を見下ろして、それから凪乃羽と目を合わせると可笑しそうにする。
「みかたが増えたな」
「みかた?」
「永遠の子供たちだ。気に入らないと見れば、大人は彼らから悪戯を仕掛けられる。悪戯というよりは質(たち)の悪い悪さだ。例えば、ひと晩中、道に迷わせたり、落とし穴をあちこちに用意したり、荷物を散らかしたり」
「……よかった」
ついつぶやいてしまうと、凪乃羽は可笑しくなった。ヴァンフリーもまた、古尾万生だった頃よりもずっとやわらかくなった笑みをこぼした。
「云っておけば、いまの凪乃羽よりもおれのほうが安心している。異常があれば、彼らが教えてくれるだろう」
みかたにならないほうがどうかしているが、とヴァンフリーは独り言のように続けた。
安心と相対するのは不安だ。
出会った直後の子供たちの会話を聞いていたさなか、ヴァンフリーのこれまでの発言からいくつかの言葉が脳裡に浮かびあがってきて、凪乃羽には考えついたことがある。
「もしかして、ヴァンを警戒してる人って皇帝のこと? お父さん?」
この国で目覚めた日、絶対的な存在があるとヴァンフリーは云っていた。絶対という存在はロード・タロだろうし、“絶対的”というならそれは皇帝しかいない。裏に操縦者がいるのなら話はまたべつになるけれど。
凪乃羽を見てヴァンフリーは笑みを浮かべたものの、それは形だけで、本心から笑っているわけではない。
「何度も云っただろう。永く時間をすごすほど親子という関係も曖昧になると」
はっきりは云わなかったけれど、肯定した答えにほかならない。
想像がつくとまでは云いきれなくても、血縁が曖昧になっていくというのはわからなくはない。食べることもせず、死も訪れない。即ち、親としてやることは普通の人間に比べれば圧倒的に負担が軽い。ヴァンフリーにとっては育ててもらった恩、皇帝夫妻にとっては育てあげる喜び、それらの感覚が互いに薄いのかもしれなかった。
けれど、皇帝がヴァンフリーを警戒する理由はなんだろう。警戒は怖れから来るもののはず。命が永遠なら、自らの地位も常久不変だろうに、争い事など不毛すぎる。
「ヴァンは皇帝になりたいの?」
「どうでもいい」
ヴァンフリーは失笑を漏らして首を横に振った。言葉どおりに関心がなさそうであり、愚者とはいえヴァンフリーを知るかぎり――いや、愚者だからこそ、欲望だろうと野望だろうと堂々と口にしそうな気がする。
「でも、皇帝はそこを気にしてるんでしょ? 死は怖れる必要ないから。襲われても殺されてしまうこともない」
そう云ったとたん、ぴりっとした空気に変わったように感じた。思わず目を凝らしたときには、ヴァンフリーはなんら変わったところなく顎をしゃくった。
「試してみるか?」
からかった声音で云いながら、ヴァンフリーは右手を後ろにやる。
「試すって?」
金属の摩擦音がしたかと思うと、ヴァンフリーは背中にまわしていた手を凪乃羽へと差しだした。その手にはグルカナイフが握られている。いったんそこに伏せた目を上げ、凪乃羽は信じられないといった気持ちでヴァンフリーを見つめた。
「おれを傷つけてみればいい。とりあえず、心の臓腑は避けてくれ。あれは痛み以上にしばらく動けなくなる」
「……経験したことあるの?」
「剣術を学ぶために、人の警衛についた傭兵と渡り合っていた。髪を黒く染めて、悪さをして」
「わざと?」
「本気にさせないと学べない。だが生きている。さあ、やってみればいい」
ヴァンフリーは凪乃羽へとナイフの柄を向けてきて握らせようとする。とっさに手を引っこめて背中にまわした。
「そんなこと、できるわけない!」
「“再生”を見てみたくはないのか」
「そういうの、見る趣味ない。スプラッター映画も嫌いだし」
ぞっとした素振りで凪乃羽は首をすくめた。
ヴァンフリーはふっと目を逸らした。凪乃羽に戻ってきた眼差しには、懐かしむような気配が漂っている。
「映画か……あれはおもしろい代物だった。人間の想像力は想像を超える」
「でももう……」
――見られない、と続けようとした言葉を凪乃羽は呑みこんだ。云ってもしかたがない。
凪乃羽が口にせずともヴァンフリーは心境を察し、ため息をつくとグルカナイフを背中にまわして、手探りするまでもなく慣れた感覚に任せ腰に巻いた鞘(さや)にしまった。
「ロード・タロが戻れば生命体の再生も可能だろうが……もしくは自然の営みのなかで自ずと再生するかもしれない」
それが地球の話であることは容易に理解できる。それに、そうなるまでには気が遠くなるくらいの時間がかかることは、学んできた史実が証明している。あまつさえ、再生は即ち新生であって凪乃羽が知っている世界ではない。やはり、口にしてもしかたがない。
凪乃羽は気を紛らすようにスターを見やると、ちょうど木の橋を渡りきったところだった。
「凪乃羽、できた!」
スターが無邪気に両手を振り、凪乃羽は、すごい! と叫ぶように云いつつも滝の音に紛れて聞こえないかもしれず、拍手をして見せた。そっちに戻るから! と、スターはまた木の上に立った。
「ヴァン、水の中じゃなくて、宇宙船で地球には行けないの?」
空中遊泳をしているようなスターを見ながら凪乃羽は思いついたのだが、出し抜けの言葉に聞こえただろう、ヴァンフリーは吐息交じりで笑みを漏らした。
「おもしろいことを云う。町中を案内していないから想像しがたいかもしれないが、利便性でいえば、地球のほうがずっと進んでいた。例えばスイッチを押せば明かりが灯る。そんなものはシュプリムグッドにはない」
「なぜ? ここのほうが歴史はずっと長いんでしょ? 地球より進んでいてもおかしくないのに」
「便利なものがあるからといって人間はそれに満足していたか? 地球では幸せとか豊かさを追求しているように見えたが、人間のそれには終わりがない。つまり、便利さはあってもなくても変わらないということだ」
そうかもしれない。ヴァンフリーの云うとおり、邸宅で夜の明かりに使われるのはオイルランプだ。凪乃羽には新鮮で、温かさとか親密さとか、そんなものを感じて心地がいい。
便利さがなくなったことに慣れないことはあっても、不自由することはない。それは、セギーをはじめとした使用人が甲斐甲斐しく先回りをして面倒を見てくれるからだという、感謝しきりだ。
「それはわかるけど、発展していくのが普通だと思ってた」
「シュプリムグッドは、四元素を操るマジェスによっていま以上の進化を妨げられている」
「ラヴィのお父さんが?」
ヴァンフリーがうなずくのを見ながら、この世界は上人によって統治されているという、地球とはまったく別の仕組みで成り立っているのだとあらためて知らされる。
「ヴァン、町に行ったらお買い物……でき……る……?」
凪乃羽は途中、うわの空で訊ねていた。何かに引かれるように、ヴァンフリーの背後――凪乃羽たちがやってきた方向に目が行ったのだ。木々のすき間を何かがよぎったのを捉える。
「凪乃羽――?」
ヴァンフリーが怪訝そうに問いかけた刹那。
「やだっ、落ちちゃうぅーっ」
スターの声が響き渡り、凪乃羽とヴァンフリーはほぼ同時に滝に目をやった。
こっちの橋まであと少しというところで、スターの躰が傾いている。とっさに駆けだしたのは思慮の足りなさゆえだろう。そして――
「凪乃羽っ」
上人が不死身だという知識、もしくは経験が身に染みつくヴァンフリーが、本能的に動きだした凪乃羽に出遅れてしまったのは必然だろう。
気づいたとき、凪乃羽はスターと一緒に滝つぼに落ちていて、次いで飛びこんだヴァンフリーにすくいあげられた。
凪乃羽が喘ぐなか、近くでドボンと二つ音が立ち、直後、水中から顔を出したサンとムーンがケタケタと笑いだした。凪乃羽と違い、助けられるまでもなく自力で浮いたスターが愉快そうに笑うのを見て、やっと助ける必要がなかったと気づいた。
「まったく、閉じこめていたツケだな。上人の性質にもっと慣れることだ」
滝つぼのなか、ヴァンフリーは腕に抱いた凪乃羽を見下ろして、めずらしく愚痴をこぼした。