NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第3章 恋に秘された輪奈

1.アルカナ−快楽を追求する上人−  act. 3

「最初の……はじめて熱くなったときは何も変わらなかったけど」
「シュプリムグッドと地球を繋ぐ“道”を抜けられただろう」
 すべてが不思議でできているようなこの国に来たのだから、異次元を繋ぐ道を抜けられてもそれは不思議の一つだ。それが変化した結果などと凪乃羽に気づけるわけがない。
「やっぱり……」
「“やっぱり”なんだ」
「科学的な理屈もなくて不思議なことができるって、やっぱり人間とは云えない。この国にとってアルカナは神様みたいな人でしょ? さっきギリシャ神話は物語だって云ってたけど、二十二人のアルカナは公明正大で争い事もしないの?」
 凪乃羽が訊ねると、ヴァンフリーからは返事に窮したような様子が窺える。そうして苦笑いのような表情を浮かべた。
「凪乃羽は要(かなめ)を突いてくる」
「……そう云うってことは争い事があるってこと?」
「表立ってはないが、内に秘めているものはあるだろう」
「それが永久に続くの? エロファンが絶交はうんざりだって云ったとき、他人事だから笑えたけど、表面上の付き合いが永久に続くなんてぞっとしそう。わたしがそうだったらきっと逃げだして、独りこもってる」
 ヴァンフリーは奇妙な面持ちで、「笑いかけてるんじゃなく笑ってただけか」と独り言をつぶやき――
「また独りと云う。おれの存在を無視するとはどういうことだ?」
 凪乃羽に向けてなじるように云った。
「ヴァンは地球に何年いたの?」
 凪乃羽が話題を変えたと思ったのか、ヴァンフリーはしかめ面になる。
「地球の時間でいえば二十年くらいだ。正確には、ずっといたわけではない。こっちと行ったり来たりしていた」
「その間、ずっと二十九歳?」
「ああ、そうだ」
 ヴァンフリーはゆっくりと肯定すると、なんらかを悟ったような気配でかすかに首をひねった。
「わたしは年を取る。時間の流れは変わらないくらいって云ったよね? あと三〇〇〇日したら、わたしはヴァンに追いつく。その倍たったら、ヴァンよりもラヴィよりもはっきり年上に見られる。釣り合わなくなるっていうまえにヴァンは……」
「おれは凪乃羽を見限るって? あり得ないな」
 ためらって、そして認められるのが怖くて口に出せなかった凪乃羽のあとを、ヴァンフリーが継いだ。
「どうして……断定できるの?」
 ヴァンフリーの言葉を聞いても安心はできない。ラヴィが云った、“命が尽きるまで”ヴァフリーの気持ちが持続したら、それだけで幸運かもしれない。けれど、年を取った自分といまのまま変わらないヴァンフリーと、どう想像しても釣り合うはずがなかった。
 未来を見て暗然とする凪乃羽の心境とは裏腹に、ヴァンフリーは可笑しそうにする。人差し指を凪乃羽の顎に当ててすくい、顔を上向けられた。まっすぐに目と目が合う。
「凪乃羽は、だれとも違うからだ」
 ヴァンフリーの言葉を素直に受けとめればうれしいはずが、いま話していた事柄に関するかぎり、凪乃羽には到底、楽観視することはできない。首を横に振って拒むと、ヴァンフリーはまたしかめ面に戻った。
「ヴァン、だれとも違うって、特別だって云ってるように聞こえるけど、だれだってだれとも違っててあたりまえのことだし……双子だって三つ子だって顔が同じだけで中身は同じじゃない」
 凪乃羽の云い分を聞き、口を噤んでしまったヴァンフリーはさっきと違って窮しているのではなく、考えこんでいる気配だ。やがて、むやみに長いため息をこぼした。
「おまえにものを云うときは隅々まで神経を配る必要があるようだ」
「……ごめんなさい。考え方が面倒くさくなってるって自分でもわかってる」
 嫌味にしては不機嫌そうでもなく、ヴァンフリーの言葉をどう受けとめていいのかわからず、ただ自分でも屁理屈をこねているのもわかっていて、凪乃羽は弁解したあと下くちびるを咬んだ。
 ふとした言葉に絡んでしまうのは、まだシュプリムグッドになじめていないからだ。このウラヌス邸の敷地内から一歩も出ることはなく、アルカナと呼ぶ人を除けば、セギーをはじめとした最小限の使用人しか知らない。国の様子もわからないし、普通に暮らしている人の習慣もわからないのだ。
 ヴァンフリーは習慣を教えるよりも凪乃羽の習慣を優先している気がする。
 初めの日、バブーシュのような靴を履いて外に出たあと、そのまま家のなかに入るところまではあまり気にならなかったけれど、夕刻に湯を浴びて躰を清めたあとに同じ靴で移動することには違和感を覚えた。寝台に上がるときに靴を脱ぐという習慣は、ホテルや海外ではそれがあたりまえでも、旅行ではなく毎日のことになると話が違ってくる。そうして、凪乃羽をそれに慣れさせるよりも、ヴァンフリーは外と内では履き替えるようにウラヌス邸の習慣を変えてしまった。東京で暮らしていたのだから、ヴァンフリー自身がその習慣に抵抗を感じなかったこともあるだろう。
 入浴は、気候が安定していることもあり湯船に浸かるのではなく湯を浴びて終わる。それも数日前から湯船に浸かれるようになった。ヴァンフリーが短い脚のついた陶器の浴槽を調達させたのだ。
 そして、ヴァンフリーは『この国にいると腹がへるな』と日本を指して云っていたけれど、アルカナは食べ物を必要としないのをここに来て知った。永遠に生きるとは、常に自ら活力を生みだせるということで、なお且つ自力で治癒、もしくは再生する力も保持しているということなのだ。
 凪乃羽が用意された食事を食べる傍らで、ヴァンフリーは果実酒を飲みながら付き合う。セギーに訊ねれば、普通の人は凪乃羽と同じように食し、一日に朝晩二回の食事と、その間にデザートのようなものを食べるという。
 わざわざ違うものを用意させるのは忍びなく、その習慣を知って以後、凪乃羽もそれに合わせたいとヴァンフリーに頼んで、ようやく躰が慣れた頃だ。
「おまえが自分を面倒くさく思おうと、おれがそう思っていることはない。まだ来たばかりで不安に陥りやすいというのは理解しているつもりだ。この国に慣れるまでには時間がかかるだろう。だが、その時間はあとになれば些細な時間に感じるだろうこともはっきり云っておく」
 ヴァンフリーのことを――古尾万生のことを年齢よりもずっと大人だと感じていたけれど、その実、大人以上に果てしなく生き続けていて、そう思うのも不思議なことではなかった。だからだろうか。
「ヴァンはこっちに来て、ずっと大きくなった気がする。わたしを抱えても普通に歩けるくらい力持ちだし」
 いままでの会話からすれば、的外れの発言に違いなく、ヴァンフリーは急に言葉が通じなくなったように眉間にしわを寄せて考えこんだ。そうして、言葉が通じないのではなく発言が出し抜けすぎたことに気づいた様子で、理解に至ったのだろう、ヴァンフリーはため息まがいで笑みを吐いた。
「大きく成長するには充分に年を取りすぎている。力持ちについては、自由に動けるぶん身軽ってことだ。地球にいるときと変わらない」
「でも、ヴァンは地球にいるときと違うことがある」
「この髪の色のことなら、染められるが……」
「そうじゃなくて、わたしを必要以上に守ろうとしてるところ。エロファンが云ってたけど、過保護すぎて、わたしはこの国に慣れる機会を奪われてる。そうじゃない?」
「確かに……一理ある。つまり?」
「つまり、慣れるべきだと思ってるなら、もっと外に出てもいいんじゃないかって……そうしたら不要なことを考える時間も減るし、気が紛れるかもしれない」
 ヴァンフリーが気に喰わなそうに目を細め、「退屈って意味じゃないから」と凪乃羽は慌てて付け加えた。
「わたしの髪の色が異質だっていうんなら染めればすむみたいだし、でもセギーの髪は黒くて、それにラヴィもエロファンもわたしを辺境に住む人間だと信じてるみたいだし、異質だとか思ってる感じはしない。だれかに見られても目立つわけじゃないってことでしょ?」
「どうしても外に出たいようだな」
「東京に戻れなくて、ここで暮らさなきゃいけないなら」
 選択しようのない条件を挙げると、ヴァンフリーはお手上げだと云ったふうに首を横に振った。
「いいだろう。町に降りるには今日は時間がない。手始めにいまから連れていこうとしていた森の中でいいな?」
「充分」
 凪乃羽が大きくうなずいた直後、ヴァンフリーは何かに突かれたような様で綻んだくちびるに口づけた。
 くちびるが触れたのは一瞬で、ヴァンフリーは顔を上げると薄らと笑みを浮かべ、行くぞ、と凪乃羽の手を取って、かがめていた背中を伸ばした。ヴァンフリーから手を引かれて庭園のなかを進み、木々の茂る森を目指す。
「ラヴィのお父さんはマジェスっていうの? 何番の人?」
「一番だ」
「魔術師?」
 目を丸くしてヴァンフリーを見上げると、実際は違う、と、カードの呼称を本気にしている凪乃羽に呆れ半分おもしろがって否定した。
「マジェスは四元素を操り、シュプリムグッドを組成している。ラヴィの母親、プリエスは皇帝の妹で――彼女は二番の女教皇だが――その夫であるマジェスは皇帝の義理の弟という立場だ、人間的に云えば。皇帝が命(めい)を出し、それを動かすのがマジェスで、助言者のような役割も果たすが、プリエスは皇帝の小間使いだといつも愚痴をこぼしている」
「プリエスの役割は何?」
「史実を記し、学識を広める」
 続けて、それにしても、と言葉を切ったヴァンフリーは難解ごとを抱えているような面持ちで首をひねった。凪乃羽もまた釣られたように首をかしげる。
「ヴァン、どうかした?」
「つい先刻まで――外に出たいと聞くまで、凪乃羽はシュプリムグッドにそれほどの関心はないのだと思っていた。いまのいままで、周りのことにもまったく興味を示さなかっただろう」
「いろんなことでいっぱいになってて、余裕がなかっただけ」
 それとは別に知りたくなかったという事情もあった。ラヴィのことだ。
 はじめてラヴィにあったとき、ヴァンフリーの妹かと思ったけれど、会話を聞いているうちに兄妹ではないことは察していた。妹であってほしかったというのは、まるきり凪乃羽の都合だ。
 ヴァンフリーが云う『失言』からすれば、その腕に抱きあげた女性は『大抵』と云えるほど存在したわけで、それは凪乃羽が生まれるずっとまえのことかもしれず、嫉妬するなど意味をなさない。それでも妬心が芽生えるのは恋のなせる技だ。
 ただ、目に触れないのならおさまるものも、しばしば会うとなるとわだかまりが解けきれない。しばしば会うのはラヴィにほかならず、なんの根拠もないのに、ラヴィが『大抵』のなかの一人だと凪乃羽が勘繰ったのは、いわゆる女の勘だ。
 限りのある凪乃羽の時間と、ラヴィの永遠の時間は比べようがなく、ラヴィが自分のことを心が広いと主張していたのは、いまは凪乃羽に譲ってもまた取り戻すという意味に違いなかった。永遠の隙間の時間しか凪乃羽にはない。
「その余裕が悪いようにならないことを願ってる」
「どういう意味?」
「今日のように独断で動いたすえ、面倒に巻きこまれる事態を自分で招くなということだ」
「今日は面倒なんて起こしてない」
「自覚がない。おれが家のなかに客を通すとしても、応接の広間のみと制限している。それが上人でも同じだ。なんのためだと思う? おれの領域に影になって踏みこませないためだ。そうやって凪乃羽を匿(かくま)っているのに凪乃羽はまったく無駄にしている」
 そこまでは思い至らなかった。外に出るときは自分が連れていくと主張したヴァンフリーの言葉を思いだしながら、凪乃羽はきまり悪く口を開いた。
「故意に面倒を起こそうとしてる人はめったにいないと思う」
「それなら云っておこう。おまえにはそうおれを信じさせる義務がある」
「義務?」
「おれに無駄な心配をさせたいのか?」
「そんなことない」
「――と云ったことを自覚しておけ」
 義務があるなら権利はなんだろう。凪乃羽はそんな疑問を感じつつ森のほうへと歩きながら、わだかまりをなくせばラヴィとの付き合いもらくになるかもしれない、とそう思ったら――
「ヴァンとラヴィは従兄妹になるよね? 同い年なの――って訊いてもしょうがない気はするけど……ずっと仲がいいの?」
 と、訊ねていた。
 歩きながら見上げたヴァンフリーは、ちらりと凪乃羽を見下ろしてまた前を向く。そのくちびるに笑みが形づくられる。どういう意味だろう。
「おまえの認識では『いとこ』になるだろうな。ただし、云っただろう。長い時をすごしているうちに血の繋がりへの拘(こだわ)りは薄れている。仲がいいというよりは、必然的に一緒にいることは多かった。ウラヌス邸を築くまで、アルカヌム城で一緒に暮らしていた」
「一緒に……」
 無意識につぶやくと、今度ははっきりとヴァンフリーのくちびるに笑みが浮かんだ。可笑しそうというよりも、楽しんでいる雰囲気だ。
「なるほど。明確にしたほうがよさそうだ。たとえ、おまえが気に喰わないことでも」
「明確に、ってなんのこと?」
「おれが生まれた遥か昔のことを云えば、ラヴィもエロファンもおれよりも十年くらいさきに生まれている。同年代なのはおれたち三人だけで、二十二人の上人のなかでおれは最も若いということになる。いまになれば、十年ほどの差などないに等しい。その遥か昔に、従姉弟という以上の関係になったことはある。いうならば、ラヴィから快楽を教わり、堪能していた。気にしているのはそこだろう?」
 そのとおりだけれど、認めるには抵抗を感じて、その気持ちが返事をためらわせたすえ、またヴァンフリーをおもしろがらせた。
 遥か昔のこととはいえ、ヴァンフリーが打ち明けたことは、嫌だとしか思えない。ましてや、はっきりしてしまえばラヴィに太刀打ちできるとは思えず、ますます自信がなくなる。
「そういう関係じゃなくなったのは、ラヴィに飽きたから?」
「縛られたくないからだ。永遠は長すぎる。ラヴィは愛を司り、人同士を結びつける。そのせいか、人の気持ちを操ろうとする嫌いがある。快楽に関しても奔放で、おれの身が持たない」
 思わず凪乃羽はヴァンフリーを覗きこんだ。その意味に気づいたのだろう、ヴァンフリーはにやりと口を歪めた。
「おれは愚かな自由人だ。主導権を持つほうが合っている。主導する立場にいるかぎり、限界はないが」
 ヴァンフリーは思わせぶりに凪乃羽を見下ろした。
 毎日、ふたりは同じベッドで眠りながら、ただ眠るだけで終わった日はない。凪乃羽にはヴァンフリーとしか経験のないことで、基準はよくわからないけれど、身が持たないほど奔放とはどういうことだろう。
「やっぱり……」
「やっぱり?」
「神話と大して変わらない気がする。上人には気を遣わなくちゃいけないし、気を遣われてあたりまえだと思ってるし、人よりわがままで快楽ばかり追求してる」
「その上人を前にしてよく云う」
 ヴァンフリーはひとしきり笑った。

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