NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第3章 恋に秘された輪奈

1.アルカナ−快楽を追求する上人−  act. 2

 錬鉄に蔦(つた)が絡まってできたあずまやの下(もと)、シュプリムグッドの暦(こよみ)を円卓に広げ、凪乃羽はインクをつけた羽ペンで数字と曜日と、そして罰点を書く。
 ここに来て二週間。時差を考えなければ――そんな時間感覚がそもそもあるのかもわからないが、九月二日のはずだ。東京にいれば、残暑が厳しくて、こんなふうに外に出ていれば汗ばむ以上に不快だろう。
 ここは熱いことも寒いこともなく、日本の季節でいえば空が高く澄みきった秋口というところだろうか。
 シュプリムグッドは万年がこんな気候だという。禍の精霊タワーの気まぐれによって、あるいは農作物のために民から乞われることによって、雨が降ったり雪が降ったり嵐が来たりするらしい。ただ、いまは気まぐれの抑制になっていた秩序のワールがいなくなり、天象は荒れることも多いという。
「不思議な符号を記すものだな。何かしらの暗号か?」
 急に傍で声がして、凪乃羽は驚きすぎて悲鳴をあげるよりも息を呑んだ。声のしたほうをパッと振り仰ぐと、カードでいえば五番のアルカナ・エロファンが円卓を覗きこんでいた。
 試しに、傍にあるゆったりとしたチュニックの袖に触れようとしたけれど、つかむことはできなかった。足音がしなかったのは即ち、“影”に違いなかった。凪乃羽のしぐさを見たエロファンはおもしろがって笑みを浮かべた。
「アルカナ・エロファン、こんにちは。暗号じゃなくて、わたしがいた……」
 わたしがいた世界の文字だと云いかけて危うさに気づき、凪乃羽は口を噤んだ。
「“凪乃羽がいた”?」
 聖者のように穏やかな気配を放つエロファンは、のんびりとした様で首をかしげて続きを促した。
 その与えられたわずかな時間に、凪乃羽は急いで考えめぐる。
「……わたしが暮らしていたところで、お友だちとお遊びでやっていた、合い言葉みたいな文字です。……あ、こういうのを暗号っていうんでした?」
「そう云わないでなんと云うのだろう?」
 エロファンは揶揄しつつ、答えを待っているふうでもなく問い返す。
「じゃあ、これは暗号ですね。もう帰れないかもしれないけど、忘れたくなくて。だから書いておこうと思って」
 エロファンはうなずき、納得してくれたことにほっとする傍らで、忘れたくないというのはごまかしでもなんでもなく凪乃羽の本音だった。
 そうしてエロファンは愉快そうに、フフフッと艶っぽく声に出して笑った。薄い赤みと青みの混載した、胸までのまっすぐな長髪が笑みに合わせて揺れる。
「ヴァンフリーはずいぶんと強引に凪乃羽を連れてきたようだ。いや、連れてきたというよりはさらってきたというのが的確かな」
 しかし――と続けるエロファンの顔は生真面目な様子に変わっていく。
「凪乃羽、私はいつでも相談にのろう。いくら皇子であろうと、不合意の行為を見逃すわけにはいかない」
 見た目からすると、エロファンはヴァンフリーと同じくらいの歳だ。ヴァンフリーはエロファンのことを最も信頼する悪友だと凪乃羽に紹介して、エロファンもその言葉に同調していた。それでも、友人をかばうより凪乃羽を擁護しようというのは、エロファンの天成によるのだろう。エロファンは、民からの陳情(ちんじょう)や相談を持ちかけられて解く上人だという。教会でいえば告解室で神との間で立ち会う聖職者だろうか。話し方もしぐさものんびりとして、驕(おご)りとか威圧感とは無縁の人だ。いや、人ではないのだけれど。
「いえ、不合意では――」
「――不合意なんてことあるの?」
 ないに決まっている、とそんな意を含んだ声音で口を挟んだのはラヴィだった。彼女もまた突然に現れたから影なのだろう。
 ラヴィの実物と会ったのは一度きりだが、影と同じで完璧な体型と美貌を備えていた。エロファンとは反対側に立って、ラヴィは上体を折ると凪乃羽の手もとを覗きこむ。実体はないのに、その動きひとつで香(かんば)しさが漂ってくる。凪乃羽の劣等意識がそう感じさせているのかもしれない。
「ふーん」
 と関心があるのかないのか、ラヴィはすぐさま上体を起こした。
「こんにちは、アルカナ・ラヴィ」
「民にとっては上人から声をかけてもらえるだけでも光栄なことでしょ? それがヴァンフリーなら、断る民がいると思う?」
 凪乃羽の挨拶は無視されて、ラヴィは一方的に質問を並べた。もっとも、あくまで確認を求めているだけという、厳密には質問ではない。
「……思いません」
 当然の答えを聞いて、ラヴィはつんと顎を上げた。
「ラヴィ、きみに云われて凪乃羽が否定できるはずないだろう。対等になれとは云わないが、友人にはなれるんじゃないかな。単純に楽しめばいい。フィリルがいないいま、ほかに友人もいない。きみもさみしいだろう。見かけでは、凪乃羽と年の頃合いは近いし、ちょうどいい」
 凪乃羽からすればエロファンが云う年の頃合いが近いとは思えないが、永久が時間の基本であれば近いという感覚でもおかしくない。やわらかく諭したエロファンと違って、ラヴィは上人という意識が高い。反抗的な応えが返るのではないかと凪乃羽は身構えた。けれど――
「考えてみれば……そうね。うん、そうだわ。ヴァンフリーが飽きるまで、もしくは凪乃羽の命が尽きるまで、仲良くしてあげてもいい」
 ね? と、首をかしげたラヴィからは、やはり同意を求めるのではなく、光栄に思うべきだといった押しつけがましさが窺える。加えて、云わなくていいことをわざと口にする。
 エロファンは露骨にため息をついて首を横に振った。
「ラヴィ、それでは少しも友好的には聞こえない」
「アルカナ・エロファン、いいんです。わたしは光栄です。こんなふうに独りでいるのに退屈するかもしれません。だから――」
「退屈、だと? だから、約束を破って独りで外に出たというわけか」
 また別の声が背後に現れた。ヴァンフリーに違いなく、振り向きかけるとその顔を確認する間もなく凪乃羽の躰はすくわれた。
 エロファンやラヴィと違い、ヴァンフリーが影ではなく実体として突然に現れることは知っていても簡単には慣れない。
「ヴァン……おかえりなさい」
 気の抜けたような声で云いながら、凪乃羽は自分を軽々と横向きに抱きかかえたヴァンフリーを見上げた。
「退屈とはどういうことだ」
 ヴァンフリーはどこから聞き耳を立てていたのだろう。凪乃羽の言葉はその場しのぎにすぎないのに、よほど気に障ったのかヴァンフリーが受け流す気配はない。凪乃羽がやるべきなのはあくまで釈明であって、説明ではないのだ。
「いまが退屈ってことじゃない。字を憶えたいし、知らないことのほうがずっと多いし、だから驚いておもしろいって思うことのほうが多くて、いまは退屈にしてる暇がないから。外に出るなってことはわかってるけど、ここはヴァンの敷地だから大丈夫って思ったの。違った?」
「まったく違う」
 凪乃羽の言葉を跳ね返すようにヴァンフリーはぴしゃりと云いきった。
 ラヴィのくすくすと笑う声が聞こえた。そこにエロファンの笑い声も加わる。
「ヴァンフリー、凪乃羽には一から十まで躾が必要なようね」
「躾(しつ)ける必要はない」
 ヴァンフリーはラヴィにも不機嫌に答える。
「言葉を間違えたかしら。教育、って云い直したらいい?」
 ラヴィが堪(こた)えたり反省したりすることは、まさに永久にないのだろう。変わらずくすくすと笑いながら飄々(ひょうひょう)とヴァンフリーに応じた。
 顔をしかめたヴァンフリーと違って、おもしろがっているのはエロファンだ。
「躾も教育も、ラヴィが口にすれば意味は一緒だろう。云い直しても意味がない」
 エロファンの指摘につんと顎を上げたラヴィには、抗議ではなく、“だから何?”といった挑戦的な様子が見える。
 エロファンは肩をすくめて、ヴァンフリーに目を転じた。
「外に出るなって、どこまで過保護なんだ? 相当のお気に入りらしい」
「わかってるなら、おれの不在中に凪乃羽にちょっかいを出すな」
「心外だ。少なくとも、おまえのお気に入りにちょっかいは出さないさ。絶交だったり、恨まれたり、それが永久に続くかと思うとうんざりする」
 なるほど、永久に生きる者の弊害のひとつだと、凪乃羽は妙に感心した。
「何を笑ってる」
 その声は傍で低く響き、凪乃羽はエロファンに向けていた目をヴァンフリーに戻した。伏せがちにした目が見ているのは凪乃羽で、いまの言葉は自分に向けられたものらしいと気づいた。
「それが、“笑いかけている”のであれば、家から一歩も出られなくするが。玄関から客間も出入り禁止だ」
 凪乃羽は意味もわからず、横暴な口ぶりに半ば唖然と見上げるのみで、ラヴィが眉をひそめるのにも、エロファンが吹きだすのにも気づかなかった。
「柄にもなく重症なのか、ヴァンフリー?」
「エロファン、役目を放りだして息抜きするのはいい。だが、逃げ場所は違(たが)えないほうがいい。帰れ」
「はいはい。ではまた、凪乃羽」
 エロファンは思わせぶりに雅な笑みを凪乃羽に向けると、さようなら、と凪乃羽が声をかけているうちに空中に溶けるように消えていった。
「ラヴィ、きみも帰るべきだ。マジェスが探していた。おれはおれで、凪乃羽に教育する時間が必要らしいからな」
 ラヴィが云ったことを口実に持ちだすと、ころころと転がるような笑い声が立った。
「父のことなんてどうでもいいんだけど」と、ちらりと円卓を見やったラヴィは再びヴァンフリーを見上げて首をかしげた。
「わたしには話してくれるんでしょうね。いま起きていることを」
「ゆくゆくは」
 曖昧な答えにもかかわらず、ラヴィは納得したように顔を綻ばせた。
「だったら。わたしもいろいろ準備しなくちゃ」
 凪乃羽を一瞥したあと、じゃあね、とラヴィもまた空気に同化するように姿を消した。
「おろしてくれる?」
 タイミングを逸して云いだせなかったことを頼んでみると、ヴァンフリーは首をひねった。
「帰ってきても少しもうれしそうではない」
「いちいちうれしそうにしていられないくらい、ヴァンは消えたり現れたりすることが多くない?」
「小賢しいことを云う」
 ヴァンフリーは以前にも同じことを云った。そのときが遥か昔のように感じるのは、あまりに世界が違いすぎるせいか。
 凪乃羽を抱きあげたまま顔をおろし、ヴァンフリーはぶつかるようにしながらくちびるをふさいだ。舌でくちびるを割り、わずかに開いた歯の間に押しつけるようにしながら凪乃羽の口内に侵入した。
 抱きあげられているのは躰を拘束されているのとかわりない。首をのけ反らせても逃げきることはできなくて、ヴァンフリーの気がすむのを待つしかない。
 けれど、ただ受け身でいたのはつかの間、呼吸が思うようにできない息苦しさとともに現れたのは、のぼせるほどの心地よさだ。舌が絡み合っているのに、凪乃羽にはそうしている意識はなく――ヴァンフリーの舌に踊らされているだけで、それが甘噛みされて吸い着かれると舌が痺れたように痙攣し、躰中の力が奪われて喘いだ。
 その重みを感じたのかもしれない。ヴァンフリーの腕に力がこもり、そうしてキスから解放された。
「おまえは甘い酒と同じだ」
 くぐもった声は、けっしてキスにのめっていたのが凪乃羽だけではないという証拠かもしれない。目を開くと、玉虫色の瞳が理性を見失ったように烟(けぶ)って見えた。
「少々ばかがすぎる。が――」
 ヴァンフリーは独り言のようにつぶやくと、歩きだしてあずまやの下から陽の下へと出た。
「ヴァン?」
「出歩きたいらしいからな。ちょっと遠出だ」
 そう云って、ヴァンフリーは崖の方向とは反対に向かった。
 中身が空っぽの人形を運んでいるように、ヴァンフリーは易々と凪乃羽を抱えあげたまま進んでいく。
「ヴァン、歩けるからおろして!」
 半ば責めるように頼むと、ヴァンフリーはぴたりと止まって凪乃羽を見下ろし、怪訝そうに眉をひそめる。
「大抵はこうすれば至福を感じるらしいが……おまえはおれを恋いながらなぜ甘やかされるのを拒む?」
 大抵は、とその言葉に引っかかってしまったのは、恋する気持ちがあるからこそに違いなく――
「おろしてください」
 凪乃羽は静かに云いつつ、断固として放った。
 ヴァンフリーは何を感じたのか、つと目を逸らしたあと、ひと呼吸する間もなく目を戻して短く息を吐き、それから身をかがめて凪乃羽をおろした。
「どうやら、おれは失言したようだ」
 躰を起こしながら、ヴァンフリーはくちびるを歪めて凪乃羽を見やった。やはりヴァンフリーは愚か者などではなく、むしろ回転が良すぎる。
「いくら神様みたいでも、清廉潔白だとか禁欲しているとか思ってない。ギリシャ神話だって、神様はわがままで、公明正大でも慈悲深くもないから」
 少々つっけんどんな云い方になったかもしれない。それは恋いしているがゆえの嫉妬心だというのは認めざるを得ない。ヴァンフリーの歪んだくちびるが、はっきり可笑しそうに変化した。凪乃羽はばつが悪くなって、その眼差しから逃れるように目を伏せた。
「ギリシャ神話は物語だ。地球にとっての神はタロしかいない。無論、シュプリムグッドにとってもそうだ」
 ヴァンフリーは容赦なく凪乃羽の詰めの甘さを突いた。むっとした気分そのままに、伏せていた目を上げ、ラヴィのしぐさを思いだしながら顎をつんと上げた。
「云い替えます。失言じゃなくって、無神経。ヴァンは何歳かわからないくらい生きてるんだから、いろんなことあったってことくらい見当はつく。わたしは二十一年しか生きてないけど、子供じゃないから。独りで、自分で歩ける」
「そうなのか? 数日前までエロファンにもラヴィにもおどおどして、おれの後ろに隠れるようにくっついていたはずだが……おれの勘違いだったようだ」
 ヴァンフリーは自分の非のように云いながら、凪乃羽を揶揄しているにすぎない。
「でもセギーには普通にできてる。アルカナって呼ばなくちゃいけない人はどんな力を持っているのか、正体がわからないから怖くてあたりまえじゃない? ヴァンは簡単にいなくなって、どこかに行けるんでしょ。車が不便だって云ったときは意味わからなかったけど、いまはわかる。わたしにはできない」
 凪乃羽が云い募ると、ヴァンフリーの顔色が変わった。
「避けられない害を凪乃羽が被るかもしれないとわかっていながら、そういう力を持つ奴を、おれは、そもそも凪乃羽に近づけない」
 気分を害した声音で一語一語をくっきりと云い、ヴァンフリーは『おれは』と強調しながら脅すようなしぐさで首をひねった。
「守ろうとしてくれてるのはわかってる」
 少なくともいまは――という言葉は控えた。
 それなのに、ヴァンフリーは何かを察している。凪乃羽を探るように見、それから吐息を漏らした。
「何か気にかかることがあるなら話せ。さすがに心を読みとることはできない。それがおれとおまえでも」
「ヴァンとわたしって……?」
「閨事のあと、この国の言葉を話せるようになっただろう。常にではないが、おれの核をおまえの中に注ぎ、侵略すれば、もしくは融合すれば、おまえの躰になんらかの変化をもたらす」
「……躰が熱くなった……そのときのこと?」
 凪乃羽が目を見開いて問い返すと、わずかに顔を斜め向けながらヴァンフリーはうなずいた。

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