NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第2章 過保護な皇子と恋の落とし穴

2.永久の世界  act. 1

 凪乃羽は呆然として、しばらく何も考えられなかった。
 自分がどうやってヴァンに救われてこうやってこの国にいるのか、思い起こせば、滝つぼの水底に果てしなく沈んでいく感覚が甦った。息苦しいような気がして凪乃羽は喘ぐ。
「ここは地球からどれくらい離れてるの? どうやってここに来たの?」
「地球はすぐそこにある。簡単には行き来ができないだけで」
「ヴァンには能力があるって云ったけど……行き来できたこともそう?」
「そうだ」
「さっき、この国には力を持った上層があるって……その力って、それはヴァンも上層にいるってこと? だったら、ほかにも地球にだれかがいて、救われただれかがここにいるかも……」
「残念だが」
 ヴァンは凪乃羽が云っているさなかにさえぎって、ほんのわずかな希望を打ち砕いた。
「確かに、地球に降りる道はあった。だが、そこを通過できるのは放浪者のおれだけだ。補足すれば、おれと交わることで凪乃羽も通過できるようになった」
「通過って、じゃあそこから地球に帰れ……」
 ヴァンは今度は首を横に振ってさえぎった。悪あがきをしているのはわかっている。けれど信じたくない。
「憶えていないというよりは気づいていないのか。それに、ちゃんと聞いてもいないようだ。通過点はいくつかあったが、すべて水中だ。地球は火山活動によって枯渇したんだ。通過点はなくなった。存在するとしても、一人で戻って何をする? 飢え死にするだけだ」
 ヴァンは亡くなった生命に対してなんの未練もなく、淡々としている。わからなくなった。
 ヴァンはだれ?
 いや、ヴァンはヴァンだ。けれど、何者なのか。
 そう考えたとき、凪乃羽は講演会の日からあったことを自ずと反すうしていた。すると、見えなかったものが見えてくる。正確には、いろんな疑問が湧いてきた。
「ヴァンは……なんのために地球にいたの?」
 ヴァンは口を結んだまままたじっと凪乃羽を見つめる。
「放浪していた。いつもの退屈しのぎだ」
 それが本当ならすぐにでも云えることだ。躊躇するのは、きっと別に確かな理由があったからに違いなかった。
「ヴァンは、限界だとか、待ちくたびれたとか、わたしを守るためだとか云ってた。もしかしてみんな死んじゃうって知ってたの?」
「そんなことはない」
「それじゃあ、限界ってなんのこと?」
「おまえをはじめて見たときから手に入れようと思ってきた。おまえの国ではひと目惚れという言葉があったな。だからといって、おれが一方的に迫れば、おまえはどうする? 逃げられないよう、おれは待った。当然、おまえの全部を自分のものにしたかったし、やっと手に入れたんだ、守りたくもなる」
 これもまたもっともな云い分だったけれど――それ以上に、自分が住んでいた世界でそう云われたのなら、うれしくて舞いあがっていたかもしれないのに、凪乃羽の本能がどこか違うと告げている。
 問い詰めたところで、ヴァンが答えないのは察するに易い。
「お母さんは……」
 凪乃羽は云いかけて口を噤んだ。その質問に確定された答えなど聞きたくない。
 けれど、ヴァンは質問を察しているのだろう、凪乃羽の頬に手を添えた。そうして、なぐさめるように親指が頬を撫でる。
「地球が……人が滅びてしまったのをちゃんと見たの?」
 凪乃羽は質問を変え、切実にヴァンを見つめた。
「見なくてもわかる」
 即座に返ってきた言葉は断言されたにもかかわらず、わずかに希望が残っていることに気づいた。
 凪乃羽もまた、桁外れの災いが地球を襲ったことは知っているけれど、人類が滅びたことを見届けてもいなければ確かめてもいない。実感が湧くはずはなく、だから可能性は残っていて、わずかに絶望が和らいだ。
「何を考えている?」
 つぶさに凪乃羽を見つめていたヴァンは、小さな表情の変化にも気づいたらしい。
「……考えるよりも不安なの」
「もっともだ」
 大丈夫だという安易な言葉ではなく、ヴァンは気持ちを共有しているように深くうなずいた。
 頬に添えられた手の甲に手を重ねると、ヴァンの手は頬から離れて、凪乃羽の手のひらの中でくるりと反転する。凪乃羽の手は大きな手でくるまれ、一緒に膝もとにおりた。
「わたしはここで生きていけるの?」
「普通に呼吸できているだろう。食べるものもある。おれは食べる必要ないが……ああ……コーヒーが飲めなくなったのは残念だが」
 その言葉にハッとして、凪乃羽は知未から預かっていたものがあったことを思いだす。
「ヴァン、わたしのバッグはなくなった?」
 出し抜けの質問にわずかに眉間にしわを寄せ、ヴァンは部屋の隅を指差した。そこを見ると、脚付きのチェストの上に凪乃羽のバッグは載っていた。
「この世界にいて役に立つものが入っているとは思えないが……遥か遠く生きたさきで思いだす楽しみにはなるだろう」
「“遥か遠く”? すごく大げさに聞こえる。……そういえば、ここは永久の世界って云ってたけど……地球みたいにならないってこと? 自然災害も戦争もない?」
 地球みたいに、とそう口にすることをためらったのは一瞬だった。この場所が見知らぬ場所であることは抜きにして、髪の色が違うだけのヴァンとふたりきり、地球上ではないという証拠を目にしたわけでもなく、違う世界にいることが現実だと実感するまでには至っていない。
「シュプリムグッドは秩序が保たれてきた国だ。それなりに自然は自然の流れに沿うが、禍(わざわい)を司(つかさど)る精霊のタワーによって良くも悪くもなる。よほどの怒りを買わないかぎり悪くはならない」
「……精霊? 精霊が存在するの?」
「上層に存在するのは、人の形をしているが、おまえの基準に合わせれば、厳密に云えば人ではない。永久の国とはどういうことか。『遥か遠く』というのは即ち永久に存在するということだ。下層の民には寿命があるが、上層の我々には命が尽きるということがない」
 凪乃羽は呆気にとられる。あまりにも常識とはかけ離れすぎて、すぐには理解できなかった。
 ただ、二十九歳という年齢だったわりに、見かけはともかく余裕がありすぎるとは感じていた。銀髪のヴァンを見て、さらに大人に見えると思ったのは、実際にそれ以上に生きてきたせいなのか。
「ヴァンは永遠に生きてるってこと? いま何歳?」
 そう訊ねると、ヴァンは可笑しそうに笑う。
「年を数える必要があるのか? 何歳かと気にしたのは、地球に降りていたときくらいだ。はじめはアメリカに降り立った。そのときに、いくつかと訊かれて、いくつに見えるのか逆に質問した結果が二十九歳だった」
「おじいちゃんにはならないの?」
「どうだろうな。長い年月を経て赤ん坊からここまで成長したことは確かだ」
「時間がゆっくりすぎてるってことじゃなくて? ヴァンよりもわたしのほうがすぐ年取っちゃうってこと?」
「時間の観念はそう変わらないと思うが……」
 ヴァンは曖昧に濁し、そしてため息をついた。
 何やら問題がありそうな気配だが、自分が云ったことを再考してみると、凪乃羽はあと八年もすればヴァンの“詐称”年齢に追いつくことになって、それから見た目が釣り合うとしてもせいぜい十年だと気づいた。
 ヴァンも同じことをいま考えて、その結果が嘆息になって現れたのだろうか。
 いまからそんなことを考えても仕方がない。そう思うけれど、焦りのようなものを感じてしまう。
「永遠て退屈しそう」
 ヴァンが答えにくいだろうこと、凪乃羽自身があまり考えたくないこと、その二つが相まって、凪乃羽はごまかすように肩をすくめた。
「その見解は、命に限りある者の想像力の限界だろう。永久があたりまえという立場になれば、当然それはあたりまえにあることで永久と退屈を結びつけることはない」
 やはりヴァンが語ることはもっともだ。
「ヴァンは自分を愚かな放浪者だって云ったけど、全然愚かじゃない」
 ヴァンは微笑を見せ、それからごく生真面目に、もっといえば深刻そうにした。
「それは人前では禁句だ。念のために云えば、“人”に見える上層の連中にもだ」
「なぜ?」
「おれは愚かでなければならないからだ」
「……よくわからない。どういうこと?」
「絶対的な存在があるということだ。それを支える者が従順な賢者であればいいが、反逆の賢者は自分の立場を脅(おびや)かす。そうだろう?」
「ヴァンはその人から敵視されてるってこと?」
「敵視とまではいかなくても、警戒されている。そして、凪乃羽」
 中途半端に言葉を切り、ヴァンは語りかけるような眼差しを凪乃羽に注ぐ。襟を正して聞くべきところだろうが、あいにくと羽織りものに襟はない。そのかわりに、こくんとうなずいて応えた。
「凪乃羽を助けたのはおれの一存だ。いまシュプリムグッドは秩序の精霊ワールが消えて、あまり穏やかな状況ではない。そういうときに異世界人の存在が明らかになれば、そのおまえが元凶だと捉えられかねない。あくまでシュプリムグッドの民であるふりをしろ。地球から来たことを打ち明けてはならない」
 ヴァンの言葉は、この世界では凪乃羽独りが異質なのだということを思い知らせる。ヴァンを頼っていいことはわかっているけれど、心細さは消えきれない。
「この部屋に……ずっとこもってたほうがいい? そうしなくちゃならない?」
「そんなことはない。おれが連れていく、どこにでも。それではだめか?」
 凪乃羽の心情を察してか、ヴァンの口調はいつになくなぐさめるようにやさしかった。
「……そんなことない」
 ためらったのち同じ言葉で返すと、ヴァンは薄らと笑った。
「それなら、さっそく外に出てみるか」
「宇宙服みたいな窮屈なものを着なくていいなら」
 気分を変えようと少しおどけてみると、ヴァンは声に出して笑った。
「ああいう見苦しいものはおれもごめん被る」

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