NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第2章 過保護な皇子と恋の落とし穴

2.永久の世界  act. 1

――ヴァン。
――少し眠ってろ。コーヒーを淹れてくる。
 ヴァンの言葉に甘えて微睡(まどろ)んでいるうちに本当に眠っていたと気づくのは、やはり目覚めたときだ。
 開けっぱなしにした寝室には、ほのかにコーヒーの香りが漂ってくる。無意識に耳を澄ましてみると、しばらく待ってみても人の気配が感じられない。
――ヴァン。
 瞼を上げながらつぶやいた。声が小さすぎて届かなかったのか返事はなく、凪乃羽は起きあがった。
 シーツから抜けだして、ベッドをおりて寝室からリビングへと行った。ヴァンの姿は見当たらず、キッチンに行くとそこももぬけの殻だ。ただコーヒーメーカーだけが、たったいままでそこに人がいたことを示すように熱気を放っていた。
――ヴァン。
 それぞれの部屋をぐるぐるとさまよう。かくれんぼをしているわけではないのだから、いくら探しまわっても見つからなければ家にはいないのだ。あきらめて広いリビングに立ち尽くす。
――ヴァン!
 叫んだ刹那、そんな鋭い能力などないのに凪乃羽は不意打ちで気配を感じた。
 果たして、ハッとして振り向いた先のキッチンに、人が後ろ向きで立っていた。コーヒーのポットを取って振り向きかけた人はヴァンに違いなく――
――ヴァンっ。
 駆け寄ろうとした刹那、いざヴァンが凪乃羽の正面に向き直ったとき、髪は黒っぽい色からきれいな銀髪へと変わっていた。
 玉虫色の瞳と目が合ったとたん、躰が熱く滾(たぎ)っていく。こんなふうになるのも三度めだった。抱き合ったはじめての日と、いまと、そして――。
――ヴァン……。
 熱さに喘ぎながら精いっぱいでヴァンを呼ぶ。

「凪乃羽」
 やっと応えてくれた低い声は、熱っぽく濡れたような響きを醸しだす。
 凪乃羽はパッと目を開けた。
 すぐ真上にある顔はヴァンだ。視界に銀髪が飛びこんできて凪乃羽は目を見開く。
 現実か否かの区別がつかなくて、凪乃羽は混乱した。それがあからさまに凪乃羽の表情に露出して、ヴァンは顔をしかめつつ呆れた素振りで首を横に振る。
「恋は盲目のはずだがな。見た目でしかおれを判別できないのか」
 揶揄した声にほっとすると、驚いたあまりに忘れていた熱が甦って、凪乃羽はたまらず躰をよじった。
 あぅ……っ。
 ヴァンは凪乃羽の躰を覆うだけでなく、中心で一体化したままだった。どれくらい眠っていたのか、夢の中でもまた眠っていたのだ。快楽がまた返ってきそうで、内部からの熱と相まって火照った吐息がこぼれる。
「違う……夢を見てたの。ヴァンを探してて見つけたときに起こされたから、びっくりしてごちゃごちゃしてる」
 凪乃羽が云っている間に、今度はヴァンがわずかに目を瞠(みは)った。明らかに驚いている。
「……どう……したの?」
 ためらいがちに訊ねると、息を詰めていたのかヴァンは短くはあったものの深く息をついた。
「気づいてないのか」
「なんの……こと……。……あ」
 訊ねているさなかに凪乃羽も気づいた。ヴァンはかすかにうなずく。
「そうだ。通じている」
「……わたしは日本語で喋ってるんだけど……?」
「ちゃんとこの国の言葉に聞こえる。地球に降りたとき、おれが使っていたのはこの国の言葉だったが、相手には相手側の母国語に聞こえる。おれは愚かな放浪者だからな、そういう能力を持っている」
「能力……って……。地球に降りた? 母国語って?」
 矢継ぎ早の質問にヴァンは含み笑う。触れた腹部を通してその振動が伝わり、凪乃羽の臍下へと影響を及ぼす。
 あ……っ。
 どくんと呑みこむような蠢動(しゅんどう)が起こり、ヴァンがかすかに唸った。
「おまえの中は熱いな」
「いまは……おさまってきてるけど……熱くてたまらないの。最初のときみたい」
 凪乃羽の言葉を吟味するような様で、しばらくヴァンはじっと凪乃羽の目を捕らえていた。
「なるほど……あれは手っ取り早い方法を選んだまでだったが、おまえにとって閨事(ねやごと)は手段でもあるようだ」
 なんのことか、ヴァンの言葉に振りまわされて凪乃羽には疑問ばかりが溢れていく。
「ヴァン、ここはどこ?」
 少しでも疑問を解決に導いてほしい。切実さを込めて、手っ取り早いところから訊ねてみた。
「おれの住み処だ」
「でも……」
 ヴァンが伸しかかっていてほとんど視界はさえぎられているなか、部屋を見回してみると、凪乃羽が知っているヴァンの住み処とは明らかに違った。
 寝台は天蓋(てんがい)付きで、壁は本物の石か、あるいは石材のタイルが使われている。壁にはランプも取りつけられていて、雰囲気は中世のヨーロッパだ。反対側には大きな窓があり、そこから光が差しこんでいるのを見ると、いまが昼間だろうことはわかった。窓は観音開きのようで、刺繍を施したカーテンが重たそうにドレープをつくりながら縁取っている。
「わかっているだろう。おれはここのほうが遥かに住み慣れている」
「……わかってない。わたしはどこにいるの?」
 質問を変えてみると、それは不安そうに聞こえたのか、ヴァンの手のひらがこめかみに添って凪乃羽をなだめる。撫でるようにしながら髪の中へと手を滑らせた。
「もちろん、説明が必要だな。言葉が通じるなら早い。教える楽しみは減ったが。意味を知っていたら恥ずかしくて云えないようなことを云わせてやったのに」
 よけいな言葉は凪乃羽の不安を紛らせるためか、それは役に立ち、知らないうちにおかしな言葉を口にして恥ずかしい目に遭うという危険から逃れたのだと気づかされてほっとした。
 ヴァンは凪乃羽の心情を見透かしてにやりと笑い――
「話の最中に横道に逸れないよう離れるぞ」
 と云って腰を少し引いた。
 長く眠っていたつもりはないけれど、その間も一体化していたせいか、躰の一部が引き離されるような感覚を伴う。凪乃羽は躰をひくひくと痙攣させ、ヴァンが抜けだした瞬間、自分のものではない――それならヴァンのものだろう――こもった呻き声を耳にしながら、ぶるっと身ぶるいを伴って喘いだ。
 快楽の余韻が鮮明になり、離れてしまってもびくっびくっと躰がうねった。
 ヴァンは寝台から足をおろすと立ちあがった。窓の近くに置かれたソファのところに行き、背もたれから掛けていた布を手にして戻ってきた。
 裸でも隠すことなく堂々と晒せるのは、きっとヴァンが自分の美しさを知っているからだ。いや、余すところなく裸体を見られているにもかかわらず、そもそもヴァンはまるで気にしていないのだ。凪乃羽にはけっしてできない。
 ヴァンは一枚の布をベッドに放り、もう一枚、腕に残った白い布を纏った。それから、片脚だけあぐらを掻くような恰好でベッドに腰かけると身をかがめる。凪乃羽を肩からすくいあげて抱き起こした。
 ベッドに放った黄白色の布を取りあげて、凪乃羽に纏わせた。ただの布一枚ではなく腕を通す場所はちゃんとあって、羽織ってみると薄手のガウンといった感じだ。驚くほどやわらかい。
「すごい気持ちいい」
 思わず口にした感想は少し子供っぽかったかもしれない。ヴァンは黒髪のときよりもいまのほうがずっと大人っぽく見える。自分と落差を感じて恥じ入ったものの、ヴァンが可笑しそうにして、その直後にした、くちびるをかすめるようなキスは衝動的にも見え、凪乃羽のなぐさめになった。
「上質の衣(きぬ)だ。いまから、この国に合った衣装をいくらでも調達すればいい。楽しみにはなるだろう?」
 ヴァンは何気なくそうしたのか、本題に入るきっかけを口にした。
「ヴァン、『この国』って……ここはどこ?」
「シュプリムグッド帝国。地球の最上層になる」
 ヴァンはあっさりと答えたけれど、凪乃羽にはさっぱりわからない。驚くよりも困惑して口がきけないでいると、ヴァンは促すようにかすかに首を斜め向ける。
「シュプリムグッド帝国って……聞いたことない。最上層って、それは会社のグループとか財閥とか……あ、秘密結社とかそういう名前?」
 さえぎることなく凪乃羽の言葉を聞いていたヴァンは、おもむろに笑みを浮かべた。
「下層しか知らず、常識を逸脱したことに対面すると、人の思考はそういうふうに在来の型に嵌めるべく働くものなのか? 自分の知識と認識に沿って、うまく辻褄(つじつま)を合わせにきたな」
「下層って……」
「さっき云っただろう、おれには下層の人間にはない能力がある。シュプリムグッドは、ごく一部の力を持った上層によって保たれた秩序の下(もと)、多くの下層の民が暮らす永久(とわ)の世界だ。この国の民は、地球でいう“奇跡”が奇跡でないことを知っている」
「ここは……地球にある国じゃないってこと?」
「そうだ」
「でも、それじゃあ……」
 凪乃羽は云いかけて、自分でも何を云いたいのかわからなくなってしまう。訊きたいこと、知りたいことが多すぎて整理がつけられない。
「混乱するのも当然だ。思いついたときに質問してくれていい。ただし、おまえもまた永久にここにいることになる。地球には帰れない」
 凪乃羽はその言葉に肝心なことをないがしろにしているとに気づいた。自分がなぜここにいるのかも思いだす。
 凪乃羽は選んだのだ。死から逃れるべく地球を離れるためでもなく、シュプリムグッドに来たかったわけでもなく、ヴァンといることを選んだ。
「東京はどうなったの?」
「あれは東京だけではない。おまえも云っていただろう、あちこちで天変地異が起こっていると」
「……それで……?」
「地球上の生命体は一掃された」
「……一掃ってどういうこと?」
「滅びた、ということだ」
「なぜ?」
 ついさっき、質問はいつでもいいようなことを云って、それは答えるという前提のもとにあったはずが、ヴァンは凪乃羽をじっと見つめて、すぐには口を開かなかった。
「天変地異、おまえはそう云った」
 ようやく答えたかと思えば、それはさっきの繰り返しで、ヴァンの答えではなかった。
「ヴァン?」
「氷点下と焦熱、その間が嵐に襲われ、地殻の変動によって海底火山をはじめとして活発化した。災いが発生するための様々な条件が整ったすえ、その連鎖が起こった。それが自然現象というものだろう」
 わからなくはないけれど、そもそも地球上の生命体のすべてが一掃されるほど呆気なく滅びてしまうものだろうか。
「でも、わたしは生きてるし、ほかに助けだされてこの国に来てる人がいるかもしれない」
 シュプリムグッドの地球における位置関係、あるいは最上層という立場も理解できないまま、凪乃羽は希望的観測を云ってみた。
「だれが助ける?」
 ヴァンが問い返した言葉はもっともであり、残酷でもあった。

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