NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第2章 過保護な皇子と恋の落とし穴

3.〇番の愚者  act. 1

 薄手のガウン一枚を羽織った上から腰の辺りに幅の広い黄金色のベルトを巻いて結ぶ――という、簡素な恰好で凪乃羽は部屋から連れだされた。下着を身につけていないから、少し心もとない。
 ヴァンは同じように黄金色のベルトを巻き、上から臙脂(えんじ)色の羽織り物を身につけた。
 廊下に出て、蔦(つた)模様が彫られた木製の分厚い扉を閉めたとき、それを待っていたかのように足音が聞こえ始めた。
 見ると、凪乃羽の倍くらいの歳だろうか、その男は少し厳つい雰囲気を纏い、ヴァンから四歩くらい離れたところでぴたりと立ち止まると、四十五度の角度で会釈をした。頭がそれ以上に下がらないよう、見えない壁にさえぎられたかのような様で、まるでぜんまい仕掛けの人形だ。
「ヴァンフリー皇子、城にいらっしゃるのでは?」
 男はヴァンの恰好を上から下まで見やる。賛成できないといった気配が感じられ、ヴァンも同様に感じたのか、うんざりとした気配でため息を漏らす。
 凪乃羽はけれど、そのことよりも男の言葉が気になった。この国の言葉を語っていて、凪乃羽は翻訳するまでもなく頭の中で自動的に理解できているわけだが、その機能が聞き間違っているのか。
「あとから行くと伝えてくれたのだろう? それで足りないのなら、主(あるじ)は遊戯に耽(ふけ)って困り果てているとでも泣きつけばいい。そのとおりだからな」
 ヴァンが凪乃羽に目をやるのに合わせて、男もまた凪乃羽へと目を転じる。
 凪乃羽は無意識に縋るようなしぐさでヴァンの腕をつかんだ。
「凪乃羽、この男はセギーという。この住み処の番人だ。小うるさいが信用はできる」
 ヴァンはセギーに向き直ると、「凪乃羽を頼むぞ」と命(めい)を下した。
「凪乃羽です。セギーさん、よろしくお願いします」
 セギーが口を開きかけるのと凪乃羽が一礼をしたのは同時だった。
 セギーはいったん口を閉じ、そして何か気持ちを切り替えるように短く息をつくと、ヴァンにしたときと同じ姿勢で挨拶を返した。
「失礼いたしました。どうぞ、セギーとお呼びつけください。家内はただいま出かけておりますが、私共々なんなりとお声をいただければありがたく存じます」
 丁寧すぎる言葉に戸惑いつつ、凪乃羽は、ありがとうございます、と再び頭を下げた。
「この辺りを案内してくる。城へはその後に赴く。いいな」
「はい、失礼いたします」
 セギーの服装は聖職者のように足首まですっぽりと躰が覆い隠され、その白いチュニックの上から袖なしの濃紺の羽織り物を着ている。セギーはチュニックの長い裾をひるがえして立ち去った。
 ヴァンは腕をつかんだ凪乃羽の手の甲に手を重ねる。捕まっていろといったしぐさで、それからセギーのあとを追うように歩きだした。
「ヴァン、さっきセギーさんが……」
「セギーでいい。本人がそう云っていただろう。話は外に出てからだ」
 ヴァンはさえぎって廊下を進んでいく。
 廊下を挟んで寝室の向かい側にもなんらかの部屋がある。それが途中から途切れると外が覗けるようになった。ヴァンの歩みは早く、じっくりとは見られなかったものの、格子窓の向こうには緑の景色が広がっていた。
 廊下が途切れた先は広間で、ちょっとした客を迎えられるよう、ソファとテーブルが置かれている。そこから続く玄関へと行き、大きな扉を開けて外に出た。
 玄関先にある階段をおりるまえにヴァンは立ち止まった。凪乃羽を見下ろし、それから促すように正面へと目を転じた。それに釣られ、凪乃羽は辺りを一望した。広大な庭園を前にして、凪乃羽は目を見開く。背の低い生け垣は幾何学的模様が施され、迷路のようだ。その庭を背の高い木々が取り囲んでいるけれど、あまりに広大な敷地のため狭苦しさもないし、影も差さない。
「すごい……こんなに広いお庭、普通の家で見たことない。ヴァンのもの?」
「おれの管理下にあるから、おれのものなんだろうな」
 曖昧な答えは、こだわりがないせいか。欲がないとはどういうことかと考えれば、欲しいものがあるというほど不自由していないからではないか。そう推測したところで、さっきの疑問が自ずと浮上してきた。
「ヴァン、セギーさん……セギーがヴァンのことをヴァンフリー皇子って……皇子ってわたしの聞き間違いじゃない? ヴァンはシュプリムグッドの皇子なの?」
「皇帝夫妻の間に生まれたからそうなんだろうな」
 まるで他人事のような返事だ。不思議そうに覗きこむ凪乃羽を見て、ヴァンはくちびるを歪めた。
「あんまり長く生きすぎて、親子という関係よりも対等だという意識のほうが強くなったかもしれない」
 確かに、親を当てにする子供時代は、永久という時間からするとほんの一瞬だろう。
「ヴァンフリーが正式な名前? それともフリーはファミリーネーム?」
「ヴァンフリーが正式だ。皇帝一族だけではなく、上人(かみびと)にファミリーネームはない。民が名乗ることがあってはならない、唯一無二の名だ」
「神様って感じ」
「神はロードとして別にいた」
 何気なく云ったことに、意外な言葉が返ってきた。
「……『いた』っていまはいないの?」
 ヴァンに問いながら、ふと凪乃羽の思考が止まる。ロードという響きには聞き覚えがあった。
「ああ。ロードはあることに激昂し、秩序の精霊・ワールを抹殺して消えた」
 この世界がいま穏やかではないとヴァンが云ったけれど、それは果たしてワールが抹殺されたことが元凶のすべてか、それともロードが不在であることも関係するのか。いずれにしても、凪乃羽には確かめたいことがあった。
「ヴァン、ロードはタロ様? 皇帝の名前はロー……?」
 シッ。
 云いかけたときヴァンは素早く人差し指を立て、凪乃羽の口もとに当てて言葉をさえぎった。
「その名は口にしてはならない。いいか」
 いままでにない威嚇(いかく)した様子でヴァンは承服を迫った。
 凪乃羽は訳のわからないまま、それを考えることもせずにうなずいた。すると、ヴァンの気配ももとに戻って、おもむろに息をつき口を開いた。
「皇帝の名は禁句だ。父は自分の名に限って耳ざとい。どこまでも聞きつけて、場合によっては相応の報いを受ける。おまえが名を知っているとは思わなかった」
「……夢のせい」
 云いながら凪乃羽はふと、夢は夢ではないのかもしれないと思った。
 夢の中に出てきた名前と立場がまったく同じであること、それを偶然というには奇妙すぎる。
 だとしたら。
 皇帝ローエンとヴァンが違う人物であることははっきりした。似ているはずだ。皇帝がヴァンの父親なのだから。
 消えたというロードの名がタロだとして、それならフィリルはどこにいるのだろう。
「わかっている」
 そうだ。ヴァンはたぶん凪乃羽が見ていた悪夢を知っている。
「ロードの名前は云ってもかまわない? わたしが云った名前で合ってる?」
「合っている。禁句は皇帝の名だけだ」
 凪乃羽に答えながら、ヴァンはかまえたような慎重さを纏う。
「あと一人、夢に出てきた人がいるの。フィリルはだれ?」
「占者だ。運命を見る」
「カードで?」
「そうだ」
「いま、どこにいるの?」
 お喋りではなくても、いったん口を開けば流暢(りゅうちょう)に言葉を操るヴァンはいつになく端的に淡々と応酬したすえ、急に黙りこんだように見えた。考えているのではなく、知っているのに口を噤んだといった気配だ。何かを隠している。あるいは、感情を押し殺しているようにも見える。どっちだろう。
「ヴァン?」
「彼女がどこにいるのか、おれにはわからない」
 だれならわかるのだろう。わかる人は別にいる。そんな口ぶりに聞こえた。
「ヴァン、わたしが見た夢は……本当にあったことなの?」
「だれかが見せた夢だろう。おれにはわからない」
 ヴァンはどんな夢か、詳しく訊きだすこともしない。それなのに『わからない』と云いきる。『だれかが』と云いながら、それがだれかを知っているようにも聞こえる。
 急に歯切れが悪くなったと感じるのは、この話題のせいなのか。
「夢の正体は恋だって云ったくせに」
 凪乃羽は少し横道に逸れてみた。
 すると、ヴァンは凪乃羽の手を自分の腕から外して歩きだした。凪乃羽を置いてけぼりにして階段をおり、さっさとまっすぐに庭園に入っていく。
 何が気に障ったのだろう。
「ヴァン!」
 凪乃羽は追いかけるのではなく呼びとめた。その足を止めてくれるのか。その不安は一抹(いちまつ)で、ヴァンはまもなく足を止め、振り向いたそこから凪乃羽を捕らえた。
 さっきまでの、身を守るべくかまえたようにしていたこわばりが消え、ヴァンは口角を片方だけ上げて可笑しそうにした。
「恋だろう? おれに会って見るようになった夢だ。そして、叶ったとたん見なくなった。違うか? 口説き文句ではなかった、という潔白を求められても困るが」
 最後、しゃあしゃあと云ってのけ、ヴァンは首をわずかに傾けた。恋か否か、ついてくるか否か、選択を迫っている。凪乃羽に選ばせているようで、二つしか選択肢がないことは即ち、自分の思うように事を運ばせるためだ。
 わかっていても、凪乃羽には選択するまでもなく選ぶしかない。さっき置いてけぼりにしたことはヴァンの計算に違いなかった。だれも知る者がいない世界で、唯一知っているヴァンは凪乃羽の身も心も、そしてこの世界の人間ではないという正体も知り尽くしている。そのヴァンに置いていかれたら、立ちすくんで一歩も歩みだせない気がした。それくらい心細かった。
 凪乃羽は一歩踏みだしてヴァンのもとに向かった。
 歩きだすと、室内とは違い、風に揺られて羽織っただけのガウンが足もとに纏わりつく。ヴァンの視界にじっと捕らえられているという気恥ずかしいような居心地の悪さは、一陣の風によって気を逸らされた。階段を降り始めてすぐ、わずかに方向の変わった風が吹いて、合わせた前身頃の隙間に吹きつけた。ガウンが捲れて太腿まであらわになったところで凪乃羽は慌ててそこに手をやった。
 顔を上げてヴァンを見ると、口を歪めた微笑に合う。
「……見えなかったよね?」
「隠す間柄でもない。むしろその手は邪魔だ」
 歪んだ微笑を見て凪乃羽が勘繰ったことは、その言葉で裏づけられた。ヴァンが凪乃羽を置いてけぼりにした理由はもう一つそこにあったのだ。
「若いのは見た目だけで、やることはやっぱりオジサンっぽい」
「おまえより長く生きていることは確かだ。かわりに、だれよりもおまえを守ってやれる。無聊(ぶりょう)のなぐさめだ。刺激をくれてもいいだろう」
「無聊? 退屈しないんじゃなかったの?」
「永久を退屈とは思わないと云っただけだ。寿命があっても退屈だと思うときがあるだろう。そこになんらかわりはない」
 ヴァンの傍に行くまで、凪乃羽からその瞳が逸れることなく、立ち止まったとたんヴァンは身をかがめた。陽の光を浴びた銀髪が風によって艶やかにはためく。見惚れたさなか、ヴァンの顔は斜め向いてくちびるが触れ合った。
 くちびるを押しつけてはくっついたくちびるが離れる寸前まで浮かし、そして少し位置をずらしながらまたぺたりと触れる。何度かそうしたあと、凪乃羽のくちびるの間に舌を滑らせて、それからヴァンはゆっくりと躰を起こした。
 閉じていた瞼を上げるとヴァンの伏せた目と合う。それが憂いを帯びているようでいながら魅惑するようで、口を開きかけた凪乃羽は何を云おうとしたのか忘れてしまう。
「ロードの目も畏れず、陽の下でご遊戯なんて上人の素行はもう末期ね」
 凪乃羽の声でもなければもちろんヴァンのものでもなく、明らかに女性という声の主は出し抜けに現れた。
 凪乃羽を見下ろしたままヴァンはほのかに息をつき、ゆっくりと瞬きをして見せた。任せておけ、あるいはよけいなことを口にするな、とそんな言葉のかわりだろうか。
「ラヴィ、無粋だな。こういう場合、見て見ぬふりではないのか。特に、きみは愛の象徴だろう」
 ヴァンはおもむろに背後を振り向きながら、女性に声をかけた。かすかにおもしろがっている声音だ。
 ヴァンが躰の向きを変えたことで、突如として現れた女性が凪乃羽の視界にも入った。ラヴィと呼ばれた彼女をしっかりと捉えたとき、凪乃羽は目を瞠った。
 絶世の美女、あるいはヴィーナスとはラヴィのことだ。ヴァンの女性版というべきか、それほど容姿も躰の線も、些細(ささい)なぶれもなく整っていた。
 淡いピンクゴールドのまっすぐな髪は腰に届くほど長く、大きな瞳の目尻は細く切りこんでいて鼻もすっと筋が通っている。くちびるは薄くありながらふわりとして見えてけちがつけられない。マーメイド型のドレスを纏っているが、パフ袖が可憐(かれん)で、肩から膝もとまで躰の線があらわになっている。胸は充分に存在感があり、腰はくびれて臀部になるとまた張っているという、女性から見てもうらやましくなるくらい魅惑的な体型だ。
 人間離れしているというけれど、ヴァンと同じ“上人”なら納得もいく。ひょっとしたら、ヴァンの妹かもしれない。ふたりにはいかにも親し気な、遠慮のなさがある。
「だって、うるさいんですもの」
 ラヴィはうんざりとした様子でわずかに肩を落として見せた。

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