NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第1章 恋は悪夢の始まり

5.また会いたい

 狭いながらも2LDKという間取りのアパートには自分の部屋ある。凪乃羽が部屋から出ると、知未がテレビに見入っていた。
「お母さん、どうかした?」
 テレビの音声に耳を傾けつつ、凪乃羽は知未に声をかけた。テレビはちょうど『それでは次に』と気を取り直したような声で話題を変えて、結局は聞きとれなかった。
「アメリカに巨大ハリケーンが二つも上陸するっていうニュースなんだけど」
「え、昨日のニュースはフィリピンと中国にすごい台風が来そうって云ってなかった?」
「そうよ。アフリカは原因不明の伝染病、オーストラリアは寒波、東南アジアは熱波に干ばつ、中東では砂嵐、あんまり自然災害って聞かないヨーロッパもロシアも豪雨があちこちで発生してるっていう話。よりによって同じときに一度に起こるってどういうことかしら」
「そういうこと、深刻に考えてもなんにもならないよ。神様じゃないんだし」
 知未があまりに深刻そうにしているから――いや、実際に被害に遭うことを考えると深刻にしなければならないのだろうが、心配をしすぎてもいい方向には進まない気がして、凪乃羽は軽い調子で云ってみた。にもかかわらず、知未は何か気にかかることが増えたかのようにますます眉間にしわを寄せた。
「お母さん?」
「神様、って……」
 そうつぶやいた知未は、まるではじめて聞いた言葉のような反応をしている。もしくは心当たりがあるような――
 ――とそこまで考えて、神様に心当たりがあるはずはなく、凪乃羽は自分に呆れつつ首をかしげた。
「神様がどうかした?」
 知未に訊ねかけても心ここにあらずといった様子で反応がなく、凪乃羽は、お母さん、と再び呼びかけた。
 知未はハッとして我に返り、次には、「いまなんの話をしてた?」と、考えこんでしまう。すぐさまぴんと来た様子で――
「あ、災害の話だった。とにかく、残りは日本ていう感じだから気をつけなくちゃ」
 避難用具をチェックしておくべきね、と独り言のように知未は続けた。
 知未は何が気にかかったのだろう。心配になったものの、スヌーズ機能を解除し忘れていたスマホのアラームが鳴りだして、今度は凪乃羽がハッとする。
「お母さん、大丈夫? わたし、もう出ないと間に合わないんだけど」
「大丈夫って? 心配性になってるかもしれないけど大丈夫よ。奥多摩(おくたま)の渓谷に行くんだったわね。落ちて流されないように、それとお天気に気をつけなさいね」
「天気いいって云ってるから大丈夫」
「ああ、そうだ。凪乃羽、肝心なこと!」
 凪乃羽の返事にうなずいたのもそこそこに何を思いついたのか、知未は食器棚のところに行くと、引き出しを開けて何かを取りだしている。
「肝心なことって何?」
 知未は、これこれ、と云いながら小さな密閉袋を手にして凪乃羽のところにやってきた。差しだされた袋の中に入っているのはコーヒーの種だ。
「古尾先生に、コーヒーをごちそうさせてほしいって伝えてくれない?」
 なんとなく知未がヴァンに会いたがっているのは気づいていた。もしかしたら、講師とか雇い主とかいう以上の関係であることを見抜いているのかもしれない。真っ向から云われるとためらってしまうけれど、およそ一カ月前、避妊しなかったことに結果がどう出てもいいと云ったヴァンだ、臆するとは思えない。
「わかった。この種は?」
「コーヒー好きだったら育ててみるのもいいかと思って。日本では育ちにくいけど」
「先生にそんな暇ないと思うけど……」
 凪乃羽は云いながら、かわりに自分がヴァンのマンションで育ててみるのもいいかもしれないと思いつく。
「持っていってみる。喜ぶかも」
 凪乃羽はリュックにもショルダータイプにもできるバッグの中に密閉袋をしまうと、いってらっしゃい、と知未に送りだされて家を出た。

    *

 ヴァンのオフィスに行って、そこから会社の営業車に四人乗り合わせて奥多摩の現場に向かった。車中、ふたりだけではなく、そもそも仕事だし、ヴァンとは個人的な会話はできない。バイトであり新人である凪乃羽に、気の利いた意見や返事などできるはずはなく、話を振られたとき以外は聞き役にまわっていた。
 八月のお盆前、渓谷は猛暑を忘れるくらいにすごしやすい。静まった深緑のなか、せせらぎの音には和ませられる。
「仕事だぞ」
 凪乃羽がゆったりと深呼吸をしていると、打ち合わせが一段落したのかヴァンが傍に来た。仕事のためにここに来たのを忘れたとでも思っているのか、凪乃羽は抗議をするようにわずかにつんと顎を上げた。
「わかってます」
 今日はスーツ姿ではなく、場所が場所なだけにヴァンは開襟シャツにカーゴパンツという、ラフな恰好だ。凪乃羽にしろ、Tシャツにデニムパンツという裏方に携わる気満々の恰好でいる。
 ヴァンは、何か懐かしいものでも目にしたかのような眼差しで凪乃羽をじっと目に留めた。反抗的なしぐさに云い返すことも諭すこともない。
 凪乃羽は不思議に思いながら口を開いた。
「山のなかってめったに来ることないけど、こういうところ好き。ヴァンに……社長にバイトを押しつけられたけどホントよかった。いろんな仕事あって、裏方を見られて楽しい」
 ヴァンとやっと呼び慣れて、そうなるとうっかり立場を忘れて呼ぶことがある。凪乃羽が云い直した時点でおもしろがっていたヴァンは、そのあとの無邪気な感想を聞いて失笑を漏らした。
「楽しい、か」
「あ……仕事を楽しいって云ったらダメ?」
「そんなことはどうでもいい。今夜はもっと楽しませてやる」
 ヴァンこそが場所をわきまえないことが多々あり、凪乃羽は慌てさせられる。素早く周りを確認すると、幸いにしてだれもが自分の持ち場を確認するのに集中しているようで、ふたりの会話は気に留められていない。
 ほっとしてヴァンに目を戻すと同時に、向かい合っていたヴァンは横に並ぶように立ち位置を変え、凪乃羽が手にした書類を覗きこむ。なんだろう、と思って目の前に来たヴァンの横顔から書類に目を転じようとした矢先、ふとヴァンが凪乃羽を向く。ヴァンは舌を出したかと思うと、すぐ傍にあった凪乃羽のくちびるをぺろりと舐めた。
 凪乃羽は目を見開き、ごつごつした岩の上に立っていることも忘れて思わず後ろに飛びのいた。
 あっ。
 よろけた瞬間にヴァンが凪乃羽の腰を抱いて支えた。
「何やってる。沢に落ちるぞ」
「ヴァン……社長のせいです! 社長のほうが仕事だってこと忘れてる。こんなところで……」
「こんなところでなんだ」
「なんだ、っていまキス……じゃなくて、いまはいいです! 離してくれないとヘンに思われます!」
「堅苦しいな。だれがおれを批難できる?」
 始末に負えない人とはヴァンのことだと思う。
「いませんけど、やっぱり……」
 抗議しかけると、ヴァンが顔を近づけてきた。何をするつもりか、およそ察しながら凪乃羽は言葉を途切れさせた。
 目の隅に、こっちに近づいてくる人を捉えた。きっとヴァンに用事があるに違いなく。
「転ばないように気をつけます。ありがとうございました。今日はお天気もいいし、何もないといいですね」
 凪乃羽はヴァンの腕から逃れながら、わざと聞こえるよう声を大きくした。
 すると、気に喰わなそうにヴァンは眉をひそめる。いや、怪訝そうに、かもしれない。
「何があるんだ」
「何って……いま天変地異みたいにあちこちで災害があってるから……」
 云っているうちにヴァンはごく真面目な顔つきになった。その口を開きかけたとき。
「社長、始まるそうですよ」
 と、今回の企画担当者が告げにきて、邪魔されたヴァンは短く息をついた。
「わかった。それぞれ持ち場についてくれ」
「はい」
 企画担当者が背を向けたあと、凪乃羽もまた持ち場に行こうとすると、ヴァンが腕を取って引きとめた。
「凪乃羽」
 まだあまり名を呼ばれることはなく、慣れないぶんうれしくなる。けれど、いまはそのうれしさが半減するくらい、ヴァンの様子はいつもと違う。
「何か気をつけることある?」
 我ながら的確な質問だと思った。勘が働くというのだろうか。ヴァンに関してはそういう阿吽(あうん)の呼吸を感じている。
 凪乃羽の問いを受けて、もしくは通じ合っていることをヴァンもまた自覚しているのか、ヴァンがこぼした吐息は安堵したように見えた。
「何かあったらおれを呼べ。おまえとおれを信じろ。それだけだ」
 いいな、という言葉のかわりにヴァンは首をひねった。
「はい」
 返事をすると、ヴァンは深くうなずいた。その間に、「滝つぼ担当のスタッフさん、行きますよ!」という号令がかかった。ヴァンがちらりと声のしたほうを振り向いて、また凪乃羽に目を戻した。
「気をつけて行け。岩場は滑る」
「社長も、ですよ」
「あり得ない」
 ヴァンは鼻先で笑い、断言すると凪乃羽の背中に手を添えて持ち場のほうに向けて押しだした。
 今日は、テレビのバラエティ番組で渓谷下りのスポーツ“キャニオニング”の撮影があり、それに立ち会うのが仕事だ。半年以上前にヴァンの会社が提案した企画だという。
 凪乃羽の担当は滝のある場所だ。行ってみると、滝つぼを覗きこめば水の底が見えるようで見えないようで、滝自体の落差は怖くない程度だが、その下の深さは見当もつかない。それでも、飛びこんでみたいという誘惑に駆られる。初心者でも参加できるというから、それほど危険ではないのだ。
 あとで、プライベートでまたここに来たいとヴァンにお願いしてみよう。
 さっきヴァンに云ったとおり、強引にアシスタントとして雇われた利点はたくさんある。縁のない芸能人を今日みたいに間近に見られたり、ライヴの裏側を見ることもできる。去年の秋口に凪乃羽が行ったライヴも、実はヴァンの会社が企画したものだと聞かされた。
 ただし、いまは芸能人を間近に見られることよりも、ヴァンと一緒にいられることのほうが段違いで心が弾む。
 撮影は上流から始まり、それまで凪乃羽を含めてこの場のスタッフは待機だ。いざここで撮影が始まったからといって特別にやることはない。凪乃羽の役割は不備があったときの連絡係だ。危険がゼロというわけではないから気を引き締めつつ、その時間が来るのをわくわくしながら待っていた。
「なんだかおかしいな」
 岩場の縁に立って滝の流れを眺めていると、ふと、凪乃羽の頭上からそんなつぶやきが聞こえた。
 とたんに、ちょっとした突風が吹いて躰が揺らぎ、凪乃羽は慌てて岩の縁から後ずさった。
 つぶやいたのは、この辺りでいろんなツアーを組む施設からスタッフとして加わっている案内人だ。凪乃羽の位置より一メートルくらい高い岩の上に立ち、怪訝そうにしながら上空を見回している。
「どうしたんですか」
 振り仰いで問いかけ、それから凪乃羽も空を見上げた。
 すると、見渡すかぎり天気は良かったはずが、青空の隅っこに灰色の雲が発生していた。
「快晴のはずですが……夕立にしてはいつもと違うんですよね」
 案内人の声は案じているように聞こえる。彼はポケットからスマホを取りだして、ちょっと操作したかと思うと耳に当てた。
 テレビのスタッフも何かしら感じとったのか、作業の手を止めて空を見上げた。
 残りは日本。出かけるまえ、知未と話したことが甦った。
 凪乃羽はスマホを出してニュースアプリを開いた。深刻、緊急事態、異変、終末、そんな言葉がやけに目立って脳裡(のうり)に飛びこんできた。そのときだ。いままで聞いたことのないアラーム音が自動的に鳴りだした。思わずスマホを放りだしてしまいそうになるくらいひどい音だ。
 そして、それは凪乃羽のスマホだけではない。遠くからも聞こえてくる。
 渓谷一体から発生し、響くアラーム音に圧倒されて息を呑んでいたのはだれもがそうだった。
「な、なんですか」
「あれ、見てくださいよっ」
 慌てた声が響くと同時に、『あれ』という言葉が何をさすのか思考が結論へと導くまえに、凪乃羽は無意識に空を見上げていた。
 灰色の雲は真っ黒に変わり猛スピードで空を侵食している。直後、唸り声が轟いた。それが風の音だと察したのは、風からの体当たりを喰らったときだった。悲鳴をあげる間もなく見開いた凪乃羽の目に、高い岩場の上で躰が浮き、鳥のように吹き飛ばされていく案内人が映った。
 竜巻とはまた違う。ただ地上を一掃していくような横殴りの風だ。
 それらを認識しながら、一瞬は意外に長いと思う。けれど、凪乃羽が考えられたのはそこまでで、風に体当たりされたまま凪乃羽の躰もまた浮いた。周りの高い岩が風をさえぎったせいだろう、案内人のように飛んでいくことはなく、凪乃羽はすぐそこの滝つぼに落ちていった。
 このまま、きっと死ぬのだ。
 落下しながら、絶望よりもさみしさを覚えた。その理由は、もう会えない、と思ったからだろう。
 お母さん……、……ヴァン……っ。
「おれを呼べと云っただろう」
 滝つぼに背中を打ちつけた瞬間、いきなり間近に聞こえたのはヴァンの声だった。
 こんな状況下にからかうようで、閉じていた目を開けると、真上にヴァンが浮いていた。凪乃羽のように落ちているのではない。凪乃羽と向き合うような恰好のまま浮いている。そして、時間はスローモード化したように凪乃羽の躰は背中からゆっくりと水の中に沈んでいた。
 風に飛ばされたとき躰はおなかから持っていかれ、必然的に伸ばした形になった手は助けを求めるようでもある。その手にヴァンが手を差し伸べる。けれど、凪乃羽の手を取ることはなく――
「おれと一緒に来るか」
 そんな言葉がかけられた。
 考える必要などなかった。助かりたい、そんな気持ちよりは、また会いたい、とその気持ちに圧倒された。
 うなずいた刹那、ヴァンの手が凪乃羽の手をしっかりとつかむ。
 水の中から引きあげるのではなく、ヴァンは水の中に飛びこみ、凪乃羽ごと水底へと沈んでいった。
 息ができない!
 もがいた凪乃羽を逃すまいとするかのようにヴァンが躰に絡みついてくる。首もとと腰もとに腕がまわり、足先が絡めとられて身動きができなくなる。
 怖れるな。
 その声は耳で聴きとったのか脳内で聞きとったのか。
 滝つぼはこんなに深かったのか、もしくは底なしだったのかと思うほど沈んでいく。いや、沈んでいるのか浮いているのかももう区別がつかない。
 ヴァンにくちびるを奪われたとたん、はじめて抱かれたときのように躰中が火照りだした。熱い。呼吸のできない苦しさを忘れるほどその感覚に占められ、凪乃羽の意識は遮断された。

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