NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第1章 恋は悪夢の始まり

4.融合する熱  act. 1

 靴を脱いで廊下に上がると、古尾が先導していき、正面にあったドアを開けた。
 入ってみると、だだっ広いというほかないほど、リビングには必要最低限のものしか備えられていない。きれい好きなのか、散らかっていることもなかった。
 一面の壁は窓になっていて、すっきりと遠くまで一望できる。二十二階にもなると、木々も見えないし、閉めきられているせいか地上の雑音も届かない。そんなふうに視界に雑然としたものが感じられないから、よけいに部屋のなかも無味乾燥といった雰囲気になるのだろう。
 唯一、生活感が見られるのは巨大なクッションだ。躰に添って包みこむような、ひょっとしたらクッションというよりもソファかもしれない。いかにも使っていたという、へこみがある。
「コーヒーメーカーはどこですか」
「向こうだ」
 古尾が指差したところにはコの字型の仕切り壁があって、空いたところから見るとそこがキッチンだとわかった。
 まわりこんでキッチンに入ると、生活感を出したモデルハウスよりも物がない。
 ……というより、コーヒーメーカーの横に出しっぱなしのコーヒーカップしか見当たらない。
 食器棚がないし、コーヒー粉を置いてから、ずうずうしくも流し台の引き出しをいくつか覗いてみても空っぽだ。
「古尾先生って、家で食べることないんですか」
 フィルターをコーヒーメーカーにセットしながら声をかけてみた。すぐに返事はなく、キッチン台に身を乗りだしてリビングを覗いた。
「もともと食べないって云っただろう」
 姿が見えなくて首をかしげたそのとき、突然、ほんの傍で答えられて、凪乃羽は飛びあがりそうに驚いた。
 声のしたほうをパッと振り向くと、いつの間にキッチンに入っていたのか、古尾が立っていた。
「なんだか……古尾先生、魔法使いみたい、ですね。全然、気づきませんでした」
 びっくりしすぎて少し痞えた。
 古尾はおもしろがってにやりとする。
「魔法使いか。少し違うが」
「え、少しって……」
「そのことはあとでいい。それよりも……」
 もったいぶった様子で言葉を切り、それから古尾はふいに身をかがめた。その顔がおもむろに近づいてくる。
「古尾先生?」
「万生だ。ヴァンと呼べ」
「……あの……」
「おまえはおまえの気持ちに決着をつけたのだろう。なら迷うな。おまえ自身の気持ちを信じるしかない」
 古尾の面持ちはいつになく真摯(しんし)に見え、目を通してその意思が凪乃羽の心底に潜りこんでくるような錯覚に陥(おちい)る。
 さらに古尾の顔が近づいてきた。
 ぼやけるほど身近に迫った刹那、古尾は顔を斜め向けると、下からすくうようなしぐさで凪乃羽のくちびるをふさいだ。
 ふわりとくっついたかと思うと、ゆっくりと顔を離していき、わずかに接したくちびるの裏側の粘膜が惜しむように離れていった。
 無自覚に目をつむっていた凪乃羽だったが、薄らと目を開くと、古尾は不意打ちを狙って再び口づけた。
 今度は離れていくことなく、少し浮かしたり、ぺたりと押しつけたり、そんなキスが繰り返される。まるで餌付けをするようにいざない、あやすようでもあった。くちびるが熱を孕(はら)み、それが腫れぼったいと感じるのは気のせいか。
 そうしてくちびるが浮く以上に離れていく瞬間、凪乃羽の口が自然と開いた。そのタイミングを逃さず、古尾は三度、凪乃羽のくちびるを襲った。舌が口内に忍びこみ、凪乃羽の舌をすくい、絡めた。逃げ惑うのは本能なのか、けれどそれはかなわず、逆に舌を絡み合わせるようなしぐさになり、キスがもたらす感覚に凪乃羽はのぼせていく。口の中に蜜が溢(あふ)れる。甘いという味覚を感じながら、アルコールを含んでいるように酔う。血液の中に新たな栄養を与えられ、躰が熱く疼(うず)いていくようだった。
 んふっ。
 古尾の口の中にこもった喘ぎ声を吐く。
 古尾は顔を離して間近で荒く呼吸を繰り返し、それは凪乃羽の乱れた呼吸と入り混じる。
「睦(むつ)ぶ頃合いだ」
 古尾はささやき、凪乃羽はのぼせた頭で聞いたことのない言葉を把握した。
「むつぶ?」
「これ以上にないほど親(ちか)しくなる、という意だろうな。拒むな。受け容(い)れなくてはならない」
 凪乃羽の返事を聞くこともなく――それ以前に関係ないといったふうに、古尾は自身の意思のまますぐ傍で身をかがめ、直後、凪乃羽の躰がふわりと浮いた。
 反射的に古尾の首にしがみつく。
 背中越しにくっくと笑う気配がして――
「それでいい」
 成り行きのしぐさにもかかわらず、古尾は満足至極に横柄に放つと方向転換をしてキッチンを出た。
 キスが打ちきられて、いま抱きあげられ、そのあとに何が続くのか、察せられないほど幼くはない。ただ、経験がないだけで。そのうえ、どこか急ぎ足で進んでいるような気がしてならない。
 悪夢の正体はなんだろう。古尾は恋と称して、それから、その答えが正解だと裏づけるようにどきどきして凪乃羽は落ち着かない。
 レストランで遭った行為は、それが恋でなければセクハラにすぎず、凪乃羽はうだうだと考えることも迷うこともなく古尾には近寄らなかったはずだ。それなのに母親のひと言で簡単に踏みだした。
 もしも、悪夢が潜在願望だとして、それを打ち明けてしまったことは古尾にとっては付けこむ隙にもなっている。まして、いまのせっかちさに及んでいる原因かもしれない。そうも考えたけれど、古尾をずるいと思うよりも凪乃羽には恥ずかしさがこみあげてくる。
 リビングをあとにして連れていかれたのは、きっとそこしかない。古尾の背中越しにドアが閉まるのを見届けると、密室に閉じこめられたように感じた。
 古尾がかがんで、凪乃羽の背中がふわりと弾力のある場所におろされる。いかにも手馴れていて、大勢のうちの一人にすぎないとも思う。そうだとしても、古尾への疑惑よりも、羞恥心のほうが上回る。凪乃羽は古尾に無理な体勢を強いたまま、しがみついた手を放せなかった。
「抵抗する気か」
 古尾の腕が躰の下から抜けだし、その手は自分の首の後ろにまわった。凪乃羽の手首をそれぞれにつかむと放しにかかった。
「こうなること、ちょっと早い気がするんです!」
「うるさい。叫ばなくても聞こえる」
 叫ぶというほどでもない。ほんの耳もとで大声を出したのは確かで、ごめんなさい、と凪乃羽は謝った。
「でも……」
「おれは待ちくたびれるくらい、今日まで待った。早いなどという感覚は皆無だ。さっき云っただろう、限界が来ている、と。おまえを守るためだ」
「わたしを守る? 何から?」
 凪乃羽は無意識にそんなふうに問い返してしまう。古尾の云い方は、ただの口説き文句などではなく、ちゃんと理由があるように聞こえた。
 凪乃羽の手をほどき、古尾は焦点が合うくらいまで顔を上げて彼女を見下ろした。
「なんの限界が来てるんですか」
 さらに疑問を付け加えたのは答えるとは思えなかったからで、一つ聞きたいことを増やしたからといって答えてはくれないだろう。果たして凪乃羽のその判断は合っていた。
「いまはどうだっていい」
 古尾は自分で云いだしておきながら自分の都合で答えを避け、そしてベッドにのってくると凪乃羽の躰を跨(また)がった。
 古尾には自敬が見えて、人を心底からは寄せつけないような雰囲気がある。そんな異質さもあってか、こんなふうに見上げた古尾は尊大に大きく見える。
 古尾の手がブラウスにかかり、ハイウエストのワイドパンツから引きだした。
「古尾先生!」
 嫌なわけでもなく、わかっていようが止めようとするのは恥じらいのせいだ。
「ヴァン、だ」
 古尾は眉をひそめて訂正を促し、一方で、被るタイプのブラウスをたくし上げていく。
 キャミソールの下に潜った手がじかに凪乃羽の肌に触れると、ぴくっと躰が反応した。大きな手は躰の脇を添うようにしながら這いあがり、次には腕を這う。必然的に万歳をする恰好(かっこう)になった。
「古尾……」
「なんだと?」
 さえぎった言葉は、独裁の王様並みにこれまでになく横柄な口ぶりで、抵抗するつもりか、と脅しをかけるようだ。
「ヴァン……でいいんですか」
 古尾はわずかに首をひねった。そうだ、と云っているつもりだろうと解釈して凪乃羽は続けた。
「あの、恥ずかしいんです。自分がどう見えるか不安で……その、はじめてなので……」
「そうあるべきだ」
 その言葉が指しているのは『はじめて』という言葉だろうか。
 ブラウスとキャミソールが頭をくぐり抜けて手首まで来ると、古尾は凪乃羽の両手を持ちあげる。手首に巻きついた服を二重にして、そうされた理由がわかならにうちに、凪乃羽の手は頭上に上げられ、その途中で何かに引っかかったように止まった。
 凪乃羽は首を斜めにしながらのけ反らせてそこを見た。ベッドはアンティークなもので、真鍮(しんちゅう)のベッドヘッドには支柱が両端と真ん中にある。その真ん中の支柱に服が引っかけられていた。自ずと、両手の自由がきかなくなる。
「先生っ?」
「隠そうとする手間も、その恥ずかしいとやらのせいで抵抗する手間も省けるだろう。おまえは受け容れるだけでよくなる」
 古尾はワイドパンツのベルトをほどいた。ボタンを外して下へとずらしていく。凪乃羽は反射的に躰をよじった。
「脚も縛られたほうがラクか?」
 そう云われると、逆らうにもためらってしまう。その間に、下半身も下着のみにされてしまった。
 古尾は上体を起こすと、今度は自分の服を脱ぎ始める。
「この国の服は面倒すぎる」
 シャツのボタンを外しながら、古尾は不服そうに云う。
 どこの国で、どんな服装で、古尾は面倒ではない生活をしていたのだろう。そう考えるとつと思い当たる。住まいがシンプルなのはそこだ。古尾はなるべく面倒を省いているのだ。
「ヴァン、ていう呼び方って、先生は外国生まれなんですか?」
「そうだ。どこかという話はいまはいい」
 自分の鼓動のうるささと居心地の悪さにもがきながら、凪乃羽が精いっぱいで持ちだした話題はあっさりと断ちきられた。
 ばつの悪さはけれど、古尾のあらわになった躰を見てそっちのけになった。
 男性の躰を見慣れているわけではなく、むしろ父親も兄弟もいない凪乃羽が男性の裸を見るのはプールに入ったときくらいだ。
 いま目の前にあるような強靭(きょうじん)さとしなやかさを備えた躰を持っている人は、きっとごく稀(まれ)だ。肌はべっこう飴(あめ)のような色合いで艶っぽさが感じられる。顔だけ見て意識したことはなかったけれど、日本人よりは肌の色が濃い。
 見惚(みと)れているなか、古尾がベルトを外して、ボクサーパンツごとスーツパンツを脱ごうとしているのに気づき、凪乃羽はとっさに目をつむった。
 古尾が身動きをしてベッドが揺れ、すると腰もとに指が触れて、凪乃羽はパッと目を開いた。ショーツが脱がされようとしている。目を伏せた瞬間、古尾の躰の中心が見えかけた。裸体を晒している古尾より、凪乃羽のほうが直視できずに恥ずかしいのはどういうことだろう。
 ショーツが剥ぎとられたあと不意を打たれ、無防備になった脚が広げられて、間に古尾がおさまった。身をかがめて凪乃羽の背中の下に手を潜らせると、胸もとの締めつけが緩む。外したブラジャーは腕を通して手首のところに引っかけられた。
 すべてが古尾の目に晒されて、凪乃羽は身をすくめた。古尾の視線がゆっくりと手首から腕へ、そして肩を通って凪乃羽の顔へとたどり着いた。
 おかっぱといっていいくらいの、ぱっつんとした髪に大きめの目がセットになると神秘的に見えるらしく、その意見が気に入って以来二年、髪型を変えていない。鼻はこれといって特徴はないけれど、くちびるは淡い桜色で、ぷるんとしてリップを塗るだけで美味しそうと云われたこともある。
 ただし、同性の意見だ。古尾の目にはどう映るのだろう。玉虫色の瞳はその色によって読みとることが違うのかもしれない。そんなことを思うほど、凪乃羽の顔をつぶさに見ていた。
 その目がすうっと胸もとにおりていく。ただの視線なのに、ふくらみをのぼりつめたとき瞳が濁って見えた。熱線を浴びたようにそこは熱くなっていく。
 胸先に疼くような感覚が集い、不安になって凪乃羽は目を伏せた。仰向けに寝転がっても胸は張りを失うことなく丸くふくらんでいる。ただ、なだらかな桜色の場所が、鳥肌が立つほど寒いときのように、いつになく色濃く尖っている。
「うまそうだな」
 古尾はもともと食べないと云っていたはず。ひょっとして古尾が好んで食するのは、凪乃羽が食物として認識しているものではなく、人間なのかもしれない、そんなばかげたことを思った。
 古尾は身をかがめながら口を開く。そこから舌が覗いた刹那、その感覚を怖れて凪乃羽はできるかぎりで身をすくめた。所詮、なんにもならないしぐさで、古尾はぺろりと胸先を舐めた。
 ん、あっ。
 胸がびくりと跳ねる。
 浮いた背中がベッドに着いたとき、また舐められて背中を浮かした。凪乃羽の反応を楽しんでいるのか、古尾は舌先で片方の胸先だけをなぶり続けた。
 どうにかしてほしい。そんな焦(じ)れったさ自体、凪乃羽がその刺激から快楽を感じている証拠かもしれない。
 限界だ――と何が限界かもわからないまま、そんな意識を持った刹那、胸のトップを舐めるのではなくくちびるで挟まれた。軽く吸いつくようにしながら離れていく。その摩擦がたまらなかった。
「やっ、せんせっ」
 逃れるべくせりあがろうとすると、古尾は素早く凪乃羽の腰をつかんで制した。
「この反応は“嫌”とは違うだろう」
 含み笑いながら古尾は顔を上げ、いったん凪乃羽の目に視線を合わせると、思わせぶりに目を伏せていき――その目的地は自分が今し方までいたぶった場所に違いなく、悦に入った口調でからかった。

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