NEXTBACKDOOR|皇子は愛を秘匿できない〜抱き溺れる愚者〜

第1章 恋は悪夢の始まり

3.人間界最大の発見

 決着は自分でつけろ。
 古尾の言葉の意味がなんとなくわかってきたのは三日後だ。
 週一回の講義は木曜日と決まっていて、講演会があった土曜日から水曜日の今日まで、一切、古尾からの連絡はない。
 土曜日はレストランを出ると、凪乃羽だけタクシーに乗せて帰らせた。古尾の会社は仕事柄、土日が休みというわけではない。タクシーのドアが閉まる間際、バイトは明日からだ、と云われていたが、日曜日、凪乃羽が会社に顔を出さなければ電話をして行かないと連絡することもしなかった。催促の電話が来るわけでもなく、古尾は仕事を手伝えと云ったくせに、それを放っておく。
 つまり、来るか来ないか――もっと云えば、古尾と親(ちか)しくなるか否か、その結論を凪乃羽にゆだねているのだ。
「お母さん、この人、知ってる?」
 夕食を取りながら、向かい合って座った母の知未(ともみ)にチラシを差しだした。
 講演会のチラシには、わずかに斜めを向いた古尾が写っている。知未はダイニングテーブルに身を乗りだすようにしてチラシを覗きこんだ。
「知らないわ」
 と、首をかしげた知未は嘘を吐(つ)いているふうではない。夢はやっぱり夢なのか。知未はチラシを手に取ってしげしげと見つめると。
「ずいぶんと見栄えのいい人。一度会ったら忘れない感じだし、芸能人じゃないのよね?」
「そこに書いてあるでしょ。イベントプロデューサー。芸能界との繋がりはあるけど、芸能人じゃない。三年になって、新しい講義を受けてるって云ったのを憶えてる? その特別講師の人」
「そうなの? ラッキーね」
 チラシから顔を上げた知未は能天気な様子でおもしろがっている。
「古尾先生の会社でアルバイトしないかって云われてる」
「あら、目をかけられてるの?」
「それはよくわかんないけど」
 知未に云われて気づいた。ひょっとしたら古尾は誰彼かまわず声をかけて、いわゆる軟派な人で、凪乃羽はそのうちの一人にすぎない。だから電話もよこさないで凪乃羽が決着をつけるのを待っている。
「いいんじゃない?」
 やっぱり無視しておこう。そう思った矢先、知未が勧めた。
「大学の講師に呼ばれるくらいだから身持ちもしっかりした人だろうし、就職前にいい社会勉強になるんじゃない?」
 いま疑ったばかりだったが、確かに知未の云うことのほうが真っ当で、古尾が立場を考慮せずに軽薄に振る舞うはずがない。
「そうだよね」
 少し心が軽くなったような気になって、凪乃羽は自ずと決着をつけていた。
 知未はさすがに母親で、迷いとか悩みとか、凪乃羽が口にすればかけてくれる言葉が自然と解決したり導いたり、後押ししてくれる。
 父親は凪乃羽の記憶がない頃に亡くなっていて、飾ってある写真の中の姿しかわからない。そんな確かなものがあっても、凪乃羽は父親の姿を一向に憶えられない。夢の中の人は憶えているのに。
 一方で、知未は女手ひとつで凪乃羽を育てた。それなりに苦労はあったけれど、父の死は仕事中の自動車事故に因り、補償があって金銭的な苦労はなかったという。そのせいか、どこかのんびりとかまえていて、楽観的なイメージがある。だからこそ、父親がいなくてもさみしいと感じることがないのだろう。
「あ、お母さん、美味しいコーヒー豆のストックある?」
「あるけど……美味しいってどういうこと? お母さんがストックしてるのに美味しくないのはないはずだけど」
 知未は顔をしかめた。カフェの裏方で働く知未には侮辱的な言葉に聞こえたかもしれない。
 そうじゃなくって、と即座に凪乃羽はなだめた。
「古尾先生がかなりのコーヒー好きみたいだから。人間界最大の発見て云ってたよ」
 知未もまた無類のコーヒー好きで、凪乃羽が伝えた言葉に笑いだした。
「それは本物ね。今度いつ会うの?」
「明日」
「じゃあ、挽(ひ)いておくから明日、持っていっていいわ」
「そうする。ありがとう」

    *

 木曜日、午後からあった“想像と創造学”の講義を受けたあと、凪乃羽はテキストを片付けつつ、入れ替わりにバッグの中からコーヒー粉を取りだすのももどかしいほど焦りながら教室を出た。
「古尾先生!」
 呼びかけても古尾は振り向きもしない。古尾の向こうに見える学生が振り返るくらいだから声は届いているはず。
 古尾は教室に入ってきたとき、いつもならちらりと全体を見まわすのに今日はそうすることなく、そのくせ、凪乃羽がどこに座っているか先刻承知のように講義の間もその方向だけ避けていた。
 あからさまだ。古尾が子供っぽいのか、凪乃羽がアルバイトをすっぽかして呆れさせたのか。それとも、アルバイトに行かなかったことで、それが凪乃羽の決着だと結論づけたのか。
 凪乃羽は小走りになって、歩幅の広い古尾に追いつき、追い越してから正面にまわりこんだ。
「古尾先生、これ、いりませんか」
 コーヒー粉の入った袋をかかげると、古尾の足が止まる。
 よほどコーヒーが好きらしい。わかっていたことだけれど、凪乃羽ではなくコーヒーが優先されているようで納得がいかない。
 やはり、凪乃羽ではなくてもかまわず、次から次に獲物を探しているのか。ひょっとしたら、古尾にとって凪乃羽がレストランでなびかなかったことのほうがめずらしいパターンで、プライドが傷ついた結果、無視しているのか。
 古尾はコーヒー粉から目線を上げて、ようやく凪乃羽を視界におさめる。意識せずにはいられないほど鼓動がせわしくなる。不安からくるものではない。
 それなら?
「これがおまえの決着のしるしか」
 凪乃羽が自分になした疑問と同時に古尾が訊ねた。
 じっとしていられないような気分でどきどきしながら、凪乃羽はこっくりとうなずいた。
「キャンセルはなしだ」
 云いながら、古尾はふたりの距離を詰めて、土曜日のときのように凪乃羽の背中に手を当てて方向転換させた。
「まずは、そのコーヒーを飲ませろ」

 古尾はタクシーに乗りこむと、運転手に会社ではない住所を告げた。
 思わず隣を振り仰ぐと、凪乃羽に挑みかかっているような眼差しが注がれる。逃げることを恥だと思わせ、戦闘心を煽る眼差しだ。
 それにどう反応していいかわからず――
「あの……古尾先生、車は持ってないんですか? このまえは社用車のお迎えだったし」
 凪乃羽はどうにか雰囲気を変えようと、思い立った質問をしてみた。すると。
「不便なものをわざわざ持つ必要があるか」
 車については好きなときに自由にできる移動手段だと思っていた。凪乃羽には理解しにくい答えだ。
「不便て……渋滞だったり駐車場を確保するのがたいへんだったりってことですか?」
 思考力をフルに動かして理由を探しだしたのに、古尾は、見当外れだな、とくちびるを歪める。
「おまえにその理由はわからないだろう。この世界にいるかぎり」
 古尾の言葉のチョイスはいちいち大げさだ。
「教えてもらえないんですか」
「いつかわかる」
 そんな言葉で、おそらくはこの話は打ち切りだとばかりにあしらわれた。
 それから車中は専ら、凪乃羽から今日の講義の内容について質問するという、復習を兼ねた話題で占めていた。最初は丁寧に応じていた古尾だったが、途中で気分を害したのか、単に面倒になったのか、講義を聞いていなかったのか、という言葉でまた打ち切られる。
 古尾がお喋り好きでないことははっきりした。
 車中に沈黙がはびこったのもつかの間、やがてタクシーは近未来的な建物の乗降スペースに侵入して止まった。到着したところは、イベント会場でもどこかの会社というわけでもなく、どう見てもハイクラスマンションの佇(たたず)まいだ。
「あの……ここで何かイベントあったりするんですか」
「コーヒーを淹れてもらうのに他人の領域を借りてどうする」
 即ち、ここには古尾のプライベート領域があるということだ。
 セキュリティフル装備といった、エントランス、ロビー、そしてエレベーターに乗ると、古尾は最上階のボタンを押した。
 エレベーターのなかはふたりきりで、そう意識してしまうと凪乃羽はそわそわと落ち着かない。
「こういうマンションに住めるって、イベント会社ってそんなに景気がいいんですか」
 お喋りは嫌いだろうし、質問は不躾かもしれないが、密室で黙りこんでいるより呆れられるほうがましだった。
「さあな。景気がいいかどうかは興味ない」
 意外すぎる返事が来て、凪乃羽は目を丸くして古尾を見つめた。
「興味ないって……古尾先生、社長ですよね」
「必然的に選んだ仕事だ。それが意外に楽しかったってところだな。仕事するっていうことに興味もあったが」
 まるでお気楽で、仕事に懸ける意欲が見られない。そんな印象どおり、古尾は軽く肩をすくめた。
「必然的にって、両親の跡を継いだとかですか」
「いや、人探しをするためだ。イベントは人が集まる」
 ここでも意外な答えが返ってきた。どれだけ驚けばすむのか、古尾のプロフィールは公になっているはずが、その実、謎だらけだ。
「人探しなら探偵に頼んだほうが見つかりやすくないですか」
「名前も顔も知らないでどうやって探す?」
 え? と一瞬唖然としたのち、凪乃羽は古尾の言葉を反すうしなければならなかった。そうしたところで疑問しか出てこない。
「それって……イベント会場に来てるとしてもなおさらわからない気がします。なんの手がかりもないってことでしょう?」
「それがわかるって云ったら?」
「……わかったんですか」
「だから、おまえの大学で講師をしてる」
 どう繋がるのか、凪乃羽は混乱させられた。
「つまり、その……」
 考えつつ口を開きかけると、エレベーターは一度も停止することなく最上階で止まった。
 古尾のあとをついていくと、解錠された音に続いてドアが開かれた。さきに入れといわんばかりに古尾がドアを支えて待つ。
 俄(にわか)に自分が無謀な誘いに乗ってしまった危うさがくっきりとして、レストランであった出来事が甦(よみがえ)る。とにかく、古尾との接点を切らしたくないという気持ちがあって、凪乃羽はそのことを考えないようにしてきた。
 すくんだ理由を察しているに違いなく、古尾は、「つまりその」と凪乃羽のさっきの言葉を復唱した。
「探しものを見つけて、だから大学に入りこんだ。ここまで近づくまでに相応の時間が必要だったが、準備は整った。そうだろう?」
 探しものが見つかってその人が大学にいるというところまでは凪乃羽にも察せられていたが、そのあとに続けられた言葉は簡単に理解できるものではない。
 なぜ、凪乃羽に同意を求めるのだろう。
「……どういうことですか」
「もうそろそろ限界が来ている。入るのか、入らないのか、どっちだ」
 二者択一はともかく、やはり『限界』の意味がわからない。凪乃羽から答えが出ないのを見越してだろう、古尾は短く息をついて、云い換えよう、とすぐさま口を開く。
「おれが好きか嫌いか、おれを手に入れたいか手に入れたくないか、どっちだ。おれはおまえが欲しい」
 凪乃羽に選択権を与えているようで、古尾はずるい言葉を付け加えて、凪乃羽から選択権を奪った。
 嫌いじゃない。手に入れたいというよりは、手に入れてほしい。
 古尾は何よりも凪乃羽が望んだことを発したのだ。
 凪乃羽は覚悟を決めるように一つ息を呑んで玄関に入った。

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