NEXTBACKDOOR|淫堕するフィクサー

第1章 Cross-Border〜越境〜

3.

『あいつ、おれのことはもういいって』
 広希が颯天に云ってきたのは祐仁に相談した翌々日だった。
 相談した日も広希は呼びだされていたが、その次の日は電話がなく、呼びだしのあるなしは単なる段田の都合だろうと思っていた。それが、また次の日に電話が入ったとき広希は覚悟をしたものの、段田は放免だと云ったという。
 半信半疑だったが一週間たっても音沙汰がない。そこではじめて颯天は、有力者に伝手があるという祐仁に相談したすえ解決を引き受けてもらったことを広希に話した。広希が最後の二日間に何をされていたのか、やつれた様子だったがそれが消えてやっと安堵(あんど)していた。
 逆に、颯天は心配事が広希のことから自分のことに変わっただけで、心境は変わらない。いや、ますます不安が募っているかもしれない。
『明日、EAが終わったあと時間を空けておいてくれ』
 昨夜、祐仁からそんな連絡が来て、それ以降ずっと落ち着かない。
 EAの活動が終わって、『颯天、ちょっと残ってくれ』とあえてみんなの前で云われて、緊張はピークに達したかもしれない。はい、とたったひと言の返事が上ずった。
 颯天を置いてメンバーはぞろぞろと帰り始めた。祐仁は颯天に向かってかすかにうなずくと資料室に行き、そのあとを二年の工藤春馬(くどうはるま)が当然のようについていく。通り様、春馬はちらりと颯天を一瞥した。
「颯天」
 いきなり耳もとにだれかの気配がしたかと思うと、囁き声で呼ばれた。耳にかかった吐息にぞくっとして首をすくめる。その呼吸を避けるように躰を遠ざけながら、颯天は声のしたほうを振り向く。
「時生か。なんだよ」
「気をつけろよ」
「何を」
「工藤さんだよ。わかってるだろ、おまえが朔間さんにえこひいきされてること。工藤さん、シンパ以上に朔間さんに心酔してるからさ、ヘンに絡まれないように注意したほうがいい」
 春馬は確かに何かと祐仁についてまわる。先回りして祐仁の手間を補助したり省いたり、至れり尽くせりだ。祐仁から感謝されれば気取ったふうに大したことじゃないとすましているが、その実、内心では小躍りしているかもしれない。そんな執着が感じられる。
「取り越し苦労だろ。朔間さんは先輩だし、嫌だとは云えない。けど、刺激しないようにはするさ」
「女の嫉妬も怖いけどさ、それって男も一緒だからな」
 時生は知ったふうに云い、じゃあな、と軽く手を上げて帰っていった。
 男をめぐって男が男に嫉妬?
 と、颯天はそんな状況があるのかと疑問に思いながら、ふとエアコンの風でテーブルの上に無造作に置かれた紙が舞うのを目で追った。引きだしたままの椅子の上に落ちると、ちょうどそこで何があったのかを嫌でも思いだした。
 男と女の組み合わせが当然とは限らないのだ。いまになるとあれは夢だったのかもしれないと思わなくはない。男からキスをされるなど考えたこともない。祐仁への憧(あこが)れは否めない。ただし、いくらなんでも憧れが妄想に発展するまでの、例えば春馬ほど執着はしていない。
『……なぜですか』
 椅子の上の紙を拾ってテーブルにのせ、飛ばないよう計算機を重石(おもし)にしたところで、資料室からこもった声を聞きとった。颯天は無意識に耳をすます。
『いつものことだ』
 最初の声が春馬で、いま応えたのが祐仁だった。
『本当に?』
『何を疑ってる?』
『あなたがいつもと違うからです』
『勘繰りすぎだ』
『ブレーンU、明らかに違います!』
 そのあとわずかに沈黙がはびこった。颯天まで息を呑んで次を待つ。
『春馬、場所をわきまえろ。おれのためにおれに付く気なら、常に夷然(いぜん)としていられるよう努めるべきだな。それができなければ、すべてを知るまえに抜けろ。命取りだ』
 再び隣の資料室は沈黙に満ちた。
 そうしたなか、つと聞き耳を立てられているのは颯天のほうではないかと思いだした。独り言を喋るわけにもいかず、必然的に聞こえるだけのことだが盗み聞きをしていると知られるのもばつが悪い。
 颯天は足音を立てずにもといた場所に戻ると、スマホを手にしてゲーム画面にした。直後――
『戸締まりを頼む』
 そう云って祐仁がさきに出てきた。
 颯天は素知らぬふりでスマホから顔を上げて祐仁を見やる。ばれなかっただろうか。ちょっとした不安は見抜かれたのか、無視されたのか、そもそも気づかれなかったのか、その判断はつかない。
「颯天、行くぞ」
 ここでまたふたりきりになるかと思いきや、祐仁はちらりと颯天を見ると素っ気ないほどさっさと部室を出ていった。
「はい!」
 焦って返事をすると、目の隅に資料室から出てくる春馬を捉えた。
「工藤さん、おさきに失礼します。お疲れさまでした」
 颯天は雑にならない程度に一礼をすると、祐仁のあとを追った。
 祐仁は歩くのが早く、颯天が部室を出た頃にはもう屋上の出入り口近くまで進んでいた。気配を察したのか、ドアにたどり着く寸前で祐仁が足を止めて振り向く。
 躰が急に汗ばんだのは、クーラーのきいた場所から蓄熱したコンクリート上に出て、温度差に対応しきれないせいか。まっすぐ見返せば、不自然なほど祐仁からじっくりと見られているように感じた。
 表情まで見分けられるほど距離が近くなるにつれ、粘りつくような視線が全身を覆っているような気がして、颯天は嫌でも十日前の信じられない出来事を思いだしてしまう。
 本格的に夏に入って日が沈む時間も遅くなったが、それでも暗くなるまで集う活動が早く切りあげられたのは祐仁の都合――即(すなわ)ち、颯天との時間をつくるためだろうか。そんなことを勘繰ればますます焦る。足がすくみそうになるのをこらえて、颯天はなんとか祐仁のもとにたどり着いた。
「どこに行くんですか」
「邪魔の入らないところだ。聞きたいことがあるだろう?」
「……弟の話なら聞きたいです」
「ほかに何がある?」
 祐仁は愚問だとばかりに薄らと笑い、ついてこいと云うかわりに顎をしゃくった。
 祐仁に先導されながら、半歩どころか五歩くらい間を空けて階段をおり、校舎の外に出たとたん、祐仁は歩きながら振り返って颯天に一瞥を投げた。ふっと漏らした笑みは、颯天の臆病さに気づいて呆れたのか。臆病ではない。そんなプライドがもたげて、颯天は半歩後ろまで追いついた。
 会話ができる距離でありながら話すわけでもなく、大学構内を出るとタイミングを計ったように車が歩道沿いに止まった。
 洗車してきたばかりかと思うほど黒光りした、いかにも高級車だったが、後部座席のドアが開いたとき颯天は一瞬、誘拐かと思った。段田に連れていかれたときの広希のことが脳裡をよぎったのだ。
 車からはだれも降りてくる気配がなく、祐仁は自ら歩み寄った。
「乗れよ」
 祐仁は客を迎えるようにドアを支えて、颯天を促した。
 何者だ。
 そんな疑問を持ちながら、颯天は招かれるまま車の後部座席に乗りこんで奥に行った。祐仁が続いて颯天の隣に座ると、車のドアはタクシーのように自動で閉まり発進した。
 ダークスーツ姿の運転手の男は、乗るときにちらりと見ただけだがおそらく二十代半ばだろう。颯天が乗るとき無反応だった男は、祐仁が乗る際、かすかに会釈をしていた。臨時雇いの運転手ではない、阿吽(あうん)の呼吸が感じられる。以降、車中は暗黙の了解のように互いに言葉を交わすこともなく静かだ。
 颯天は、呼吸音を立てることすら気づまりで、ゆったりと座席にもたれかかっている祐仁を横目で見、居心地の悪さを紛らせるように時生から聞かされたことに思考を馳(は)せた。
 祐仁の噂について最初に聞いたのは、バックに大物がいてその愛人だということだった。それが、次には大物はどうやら裏社会に通じた人らしいとなって、さらにその次には裏社会の要人だとまで発展した。
 その噂話を聞かなければ、広希のことで祐仁を頼ることはなかったかもしれない。
 実際に、内装が革張りだったり、艶を出した木製のパネルが嵌めこまれていたりするこの高級車が祐仁を主(あるじ)としているのは明らかだ。祐仁自身の家柄がいいのか、それとも噂どおりで大物から優遇を受けているのか、少なくとも訊くまでもなく、広希のことは祐仁が解決してくれたのだと颯天は確信した。
 そうして都心部に入り、数ある高層ビルの一つ、クラッシックな装いの洒落(しゃれ)たビルの前で車は止まった。
 車を降りてそびえ立つ建物を見上げると、エントランスの上に『Noblesse(ノーブレス)』と凝()こった書体で記された銘板があるだけで、ほかになんの表示もない。建物内に入るとフロントがあり、コンシェルジュから儀礼的な挨拶を受けただけで祐仁は素通りした。
 ホテルのロビーのようにソファもあれば、観葉植物や水槽などの鑑賞物があった。出くわす人は様々で、子供や年寄り、そしてスーツを着た男性や買い物袋を提げた三十前後の女性もいる。
 ホテルではなくマンションだろう。贅沢(ぜいたく)だと思いながら、颯天は祐仁についていった。
 エレベーターは振動を感じないほど静かに上昇し、最上階の二十五階で降りるときには颯天と祐仁のふたりだけになっていた。
「朔間さん、ここ、ホテルじゃなくてマンションですよね。ここに住んでるんですか」
 それまでの沈黙を破り、床の大理石は本物か模造か、そう思ったとたん颯天は訊ねていた。
「いまのところ、そうだ」
「いまのところ、って……」
「そのうち教えたくなったら教える」
 つまり、よけいなことは訊くなということだ。
 大学生の祐仁は頼りがいのある先輩というイメージを醸(かも)しだしているが、大学を一歩出たとたん、独裁者のようなイメージを纏い、そしていま、颯天に対しては権限者であることを示した。
 いくつかドアの前を通りすぎ、まもなく行き止まりになる寸前のドアを祐仁が開ける。車に乗るときと同じで、祐仁がドアを支えてさきに颯天を促した。
 入ると、玄関口は颯天の家よりも格段に広く、天井まで届く収納ボックスがあり、二足だけ男物の革靴が外に並んでいるだけですっきりとしている。
 その二足は光沢のあるビジネスシューズで学生向きではない。祐仁のものだろうかと疑問に思っていると、奥のほうから物音が聞こえた。
「ご家族がいらっしゃるんですか」
 隣に並んで颯天よりも早く靴を脱ぎ始めた祐仁に訊ねた。その声は自分でもほっとして聞こえたが、露骨ではなかったかと恥じ入る。考えたくないことを放置したすえ、いまに至っているわけだが、家族がいるのならあの妖しい出来事が繰り返されることはない、とそう思ったせいだ。
「ファミリーならいる。さっさとあがれ」
 ファミリー?
 家族という単語にしては、特殊な響きを持って聞こえた。それを追及する余地は与えられず、祐仁が奥に進んでいくのを見て颯天は急いでスニーカーを脱いであとを追った。
 幅のある廊下を通ってまもなく、ドアを開けて入ったのはLDK一体型の部屋だ。
「おかえりなさい」
「ただいま。ゲストを連れてきた」
「準備はできています」
 それらの短い会話が終わったとき、颯天は祐仁がファミリーという二人と対面した。その瞬間に、安堵した気持ちは頼りなく薄れていく。ファミリーは颯天が云った家族という単純な言葉とは違う。二人を見てなんとなくそう察した。
 クーラーが効いているのだからスーツ姿でも暑いことはないが、一人は室内にいるというのに黒ずくめといったダークスーツを着込んだまま、不似合いにも料理が盛られたプレートをダイニングテーブルに置くところだった。もう一人は対面式のキッチンにいて、カウンター越しに上半身しか見えないものの、ホワイトシャツを着ている。
 まず、家族に対して――それが両親に対してならともかく、黒ずくめの男よりも祐仁のほうが明らかに年下なのにもかかわらず、“です、ます”口調は使わない。
 ホームヘルパーがスーツ姿のはずはなく、それなら執事みたいなものか。きっとそうだ。キッチンにいる男は颯天とかわらない歳に見えて、彼こそは祐仁の弟かもしれない。ふくらむ不安はそんな解釈を見いだして颯天をなぐさめる。
「こんにちは。高井戸颯天です。お邪魔します」
 怯(おび)えてしまうのは本能が何かを察知しているからか、けれどそれをおくびにも出さず、颯天は会釈した。
 即座に反応したのは黒ずくめの男で、いらっしゃいませ、と軽く会釈した応じ方は物静かで穏やかであり、やはり執事だ。日本の家庭にはなかなか執事などいないということは頭の片隅に押しやった。キッチンの男が反応したのかどうかはわからない。
「料理ができたところなので、どうぞおかけになってください」
「はい、ありがとうございます」
 颯天は答えながら、祐仁を問うように見やった。
「いつもよりちょっと早いけどな、夕食の時間だ。付き合ってくれるだろう? それとも腹減ってない?」
「いえ、そんなことはありません」
「だったら座れよ」
 祐仁はダイニングチェアを指差した。
「はい」
 リビングの入り口に立っていた颯天はダイニングのほうに向かう。
 ダイニングテーブルは重厚なブラックウォールナットの天板に脚は大理石だ。椅子は肘掛けも付いていて黒い革が張られている。いちいち自分の家と比べるのは不毛だともうわかっていながら、颯天は格差を感じてしまう。
 バッグをテーブルの脚もとに置いて、颯天はキッチンを背にして椅子に座った。適度に腰もとが包みこまれて座り心地がいい。
 祐仁は背後に消え、キッチンに行ったのだろう、三人の足音が重なったり単独になったりした。後ろを振り返るのはあからさまではばかられ、颯天は必然的にリビングのほうを見渡した。
 リビングはずいぶんと殺風景だった。いちばん奥の壁につけられた大画面のテレビが大きく感じないほど広くて、あとはコの字に置かれたソファがあるだけで棚もない。生活感のなさを奇妙に思いながら、眺(なが)める場所もなくなってテーブルに並んだ料理に目を落とす。
 キッチンにいた若い男が作ったのか、スペアリブの入ったパエリアに、素揚げしたレンコンやカボチャののったサラダと、そしてまたポタージュが運ばれてきた。
「もういい。あとはおれがするから帰ってくれ」
 祐仁が話しかけたのはもちろん黒ずくめの男かキッチンの男のはずだ。
「ですが……」
「大丈夫だと何度云えばいい?」
 祐仁の云い方は、苛立(いらだ)ちはなくとも尊大だった。
「わかりました。では」
「デザートはシャーベットです。パーシャル室に入れてますから。コーヒーもセットしています」
「わかった」
 失礼します、という言葉を最後に男たちはふたりともが帰っていった。

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