Cry for the Moon 〜届かぬ祈り〜

メロディ8.


 英国ホテルのロビーに入ったとたん、気後れしたようにレアの足が止まった。
「大丈夫。ここはおれの家みたいなもんだから」
 ――?
「おれも家出中。理由はわかるだろ?」
 レアの瞳が少し翳った。

 祐真を信頼しかけていたところまで取り戻し、レアの中の畏れを払拭するにはまだ時間が掛かるだろう。

「祐真さま、お帰りなさいませ」
 声のした方を振り向くと、ホテルマネージャーの大井が立っていた。
「大井さん、ちょうどよかった。しばらく彼女を泊まらせます。食事はこれから二人分、用意していただけますか」
 大井がレアに視線を移した。少し驚きが顔に表れたがすぐにプロ意識を復活させ、大井は了承の意を祐真に伝えた。
「お荷物を」
「これくらい、いいですよ」

 スイートルームに連れてくると、見知らぬ家に連れてこられた猫のようにレアが部屋の中を見渡す。
「すごい、豪華」
 ホテルに入っての第一声は年相応さを感じさせ、祐真は笑った。
「全部見てきたら?」
 緊張を解いたレアは好奇心を瞳に宿して頷いた。
 レアが落ち着くのを待っている間、祐真は冷蔵庫からボトルコーヒーを出してコップに注いだ。

 けれど、しばらくしてもレアが戻ってくることはなく、奥のベッドルームへと行くと、彼女は窓際に立って外を眺めていた。
 薄暗くなってきた地はだんだんと人工の灯りを散りばめはじめている。
「どうした?」
「ううん。ここから見ると人が小さいなと思って」
 レアに近づき、祐真は出窓の枠に腰掛けて彼女を見上げた。

「あたし、親と離れたことないの。ずっと転校してるせいで修学旅行も行かなかったから、外泊ははじめて。友だちができてもやっと仲良くなれたなって頃に別れちゃうし、お気に入りの本とか大切にしている物も、引っ越すたびに邪魔になるからって捨てられた。いろんなことが面倒臭くなった。妹は器用で、(うらや)ましいくらい切り替えをうまくやれてるのに、どうしてあたしはできないのかな。そういうことをお母さんに云ってもどうにもならないし。お父さんは我関せず。けっこうこれでも良い子やってると思わない? いまははじめての反抗期なの」

 レアが首を傾げて笑った。
「無理して笑わなくていい。両親にとってみればおれは誘拐犯だ」
「引っ越すまでって云ってるから」
「それでいいのか?」
「うん。それ以上やったらほんとに祐真は犯罪者になっちゃう。あと二週間くらいだけど……また……会えるよね?」
「会えるというよりは、会いに行かずにはいられなくなるよ」
「そう思ってくれるようにベタベタしていい?」
「はは。あまり挑発するなよ」

 こっちの都合にお構いなしのレアの言動は、どうしてこうも衝動を揺さぶるのか。わかってやっているわけではないからこそ始末に負えない。
 だからといって、その挑発に乗って再び失態をするわけにもいかない。

「レア、一つ話しておきたい」
 これまでになく祐真の真剣な声に、レアは頷いて応えた。

「ここはおれと妹の逃げ場所だったんだ。妹に()かれている奴がいる。おれがそう仕向けた。血の繋がった妹だと知ってから。けど、やっぱりだれにも譲りたくなくてここに妹を閉じ込めた。二カ月前に別れる決心をして……妹は捨てられたと思ってる。おれは道標を示してやらないといけない。わかってるのに諦めがつかずに、いままで引きずってきた。レアと出会って、やっと漠然としていた答えがはっきり見えたんだ。気持ち的に消化できた気がする。けど、ここには妹の痕跡がある。それが気になるなら別の場所に移ってもいい」

「祐真はケンカが強いのね」
「……中学んときはダチとつるんで、いろいろ羽目を外してたこともあるんだ」
「祐真は気にならないの?」
「はは。話がめちゃくちゃだ」
 苦笑混じりで云った祐真は手を上げ、横に立つレアの耳もとに添えると真顔に戻った。

「気にならないと云ったら嘘になる。けど、(こだわ)りはこの部屋からもう消すべきだと思ってる」

 レアが動いて祐真と正面から向き合った。交差する互いの瞳に嘘偽りは欠片も見えない。

「レアに出会った日はピークだったかもしれない。なにもかも捨てたくなった。すべて壊したくなった。だからレアを怖がらせて酷いことをしたし、今日のことも鬱積(うっせき)を晴らすために必要だった。自分を優先して、レアを傷つけて……後悔してる」

「会ったことを後悔してる?」
「おれが訊きたいくらいだ」
「あたしのこと、好き?」
「その言葉では足りない」
「触れていい?」
「わかってるだろ?」

 レアは微笑(わら)って両手を祐真の肩に置くと、顔を下ろして祐真とくちびるを合わせた。
 すぐに顔を上げると、
「足りない」
と祐真はレアの顔を引き寄せた。

 互いを確かめるように優しく触れる。
 レアの長い髪が秘め事を守るかのごとく、ふたりを包み込む。
 レアのくちびるに心を感じたとたんに祐真を抑制するものがなくなった。彼女のくちびるを割り、思いのままに探る。
 レアが呻く。力が抜けていく彼女を抱きとめた。腕を取った瞬間、
「いやっ!」
とレアは躰を離して悲鳴を上げながら座り込んだ。

「レア?!」
「……大丈夫。打ったところに当たってちょっと痛かっただけ……」
 そう云って蒼ざめた彼女は左の腕を庇っている。
「見せて」
 袖を上げるとそこに痛々しい青痣(あおあざ)()り傷があった。
「おれがやったんだ。医者を呼ぶ」
 思い詰めたように祐真が云った。
「祐真、いいの。すぐに治るから」
「おれの気がすまない」
 祐真はデスク上に置いてあった電話のところへ行き、受話器を取り上げると早速だれかと話している。
「あいつがやったところも見せて」
 祐真はレアのこめかみの髪を払った。少し腫れているのを見ると、祐真は後悔したように顔を歪める。
「大丈夫だ。ホテルのドクターだからおれもよく知ってる」
 不安そうにしているレアに伝えると、いくらかホッとしたように彼女は微笑(わら)った。

 応接ルームに戻ってぬるくなったコーヒーを飲んでいるところへドクターがやってきた。
 どちらの傷も単なる打ち身とわかって、祐真はやっと安堵(あんど)する。
「ね、大丈夫って云ったでしょ?」

 祐真は応えず、しばらくなにかを考え込んでいた。
 レアを傷つけ、怪我を負わせたという後悔は祐真を冷静にさせた。

「ちょっと出てくる」
「祐真?」

 祐真はまっすぐにレアを見つめる。

「……おれを産んだ母親は出産直後に父が死んで、精神的なことでおれを育てることができなかったんだ。育ててくれた両親は中学のときに自動車事故で死んで、おれも一緒に乗ってたけど、おれだけが生き残って産んだ母親のところで暮らすことになった。産んだ母親の再婚相手と育ててくれた父が兄弟なんだ。そういう生い立ちを知ったのは二年前だった。で、この(ざま)だ。親のせいにするつもりはない。けど、一人になっても育てようっていう準備ができるまえに、子供を産むべきじゃないと思ってる」

 とうとつに語られた祐真の言葉の端々に痛みを感じた。

「レアを抱きたい。けど子供は早すぎる。そういう経験をしてきたおれ自身が、レアに痛みや不安を与えるわけにはいかない。まずはふたりではじめたいんだ。わかる?」

 祐真のあからさまな宣言はレアの顔を少し赤くさせた。
「すぐ戻ってくるよ。夕食が来るから開けてやって。部屋は自由に使っていいから」
 心細い様子のレアを少しきつく抱いて放すと、祐真は出て行った。

 まもなくドアがノックされ、祐真が云ったように給仕がワゴンを押して夕食を持ってきた。一通り準備をしてくれるのを、レアはめずらしそうに部屋の隅で見守った。この部屋と同じく、豪華な料理が所狭しと並んでいる。

 なんとなくこの場に自分がそぐわないような気がして、レアはせめて身綺麗にしたいと思った。
 入ったバスルームも自分には贅沢(ぜいたく)な気がした。
 今更ながら、レアは祐真と自分の世界の差に気づく。

 この部屋から見た地上の人間と同じように、自分がとてもちっぽけな存在であることを再認識する。
 そのちっぽけな自分を祐真は見出し、大事な存在であるかのように扱う。
 願わずにはいられない。

 この瞬間(とき)がどうか永遠であるように。
 この祈りがどうか聴き届けられますように――。

― The story will be continued in the next time. ―

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