Cry for the Moon 〜届かぬ祈り〜

メロディ7.


 祐真は少し腫れた手を強く握り締めて、レアの後ろ姿を見送った。

 こんな想いのまま帰したくない。
 あんな想いをさせたまま別れたくない。
 後悔させない、とそう誓った。

「レア」
 その名を小さく呼んだ。

 聞こえるはずがないのに、祈りが届いたようにレアの足が止まった。

 これまでその日のさよならをする度に、レアの姿が視界から消えるまで見送ることを繰り返してきたが、けっして、振り返ることはもちろん、立ち止まることもなかった。
「レア!」
 今度は届くように呼んだ。

「祐真、あたしは妹さんの代わりなの?!」
 レアがはじめて振り返り、責めるように叫んだ。
「違う」
「失うものはないって……!」
「いま、レアを失いかけてる。おれは……怖いよ」
「祐真、だったらあたしを(さら)って。離れたくない。忘れられたくない! せめて引っ越すまででいいから連れに来てよっ」

 突き動かされるように祐真は一歩を踏み出した。

「レアをめちゃくちゃに傷つけてしまうかもしれない」
「祐真に触れるのが好き」
「本当に引き返せなくなる」
「祐真に触れられるのはもっと好き」
 レアの目の前まで来た。

 (うる)んだレアの瞳が、祐真に向かって計算のない純粋な欲望を訴える。
「おれが云ってることを聞いてる?」
「触って」
 祐真はクッと可笑しそうに笑った。

「意味がわかってるのか?」
 レアの耳もとから風になびく髪の中に手を差し込んだ。祐真の手を柔らかな温かさが包む。

「おれは犯罪者だな」
「それでも……?」
「ああ、それでも連れ去りたい」
 レアの腕が祐真の背に巻きついた。祐真はレアの頭を抱え込み、しっかりと手を回した。

 出会ってから僅か。
 出会ったその日に、こうやってふたりは互いの鼓動を逢わせた。

 レアが躰を離す。
「帰らないって云ってくる」
 そこに育ちのよさが表れ、祐真は笑った。
「おれが預かりますって云おうか」
「はいどうぞってお母さんが云うわけないから」

 レアは笑みを残して団地の中に駆けていく。

 祐真の中にあったざらついた感覚が消え、入れ替わるように淡い輝きが宿った。



 レアは家に入ると、母がいるキッチンへ行った。
「お母さん、あたし、これから祐真のところへ行く。しばらく帰ってこないから」
 いきなり告げると、夕食の準備をしていた母が驚いて顔を上げる。
「……祐真ってあの男の人?」
 レアは頷いて、母の返事も待たずに部屋へ行った。

 洋服タンスから服を取り出し、スポーツバッグに詰め込んでいく。
 まもなく部屋のドアが開いた。
「どういうことなの? そんなことを許せるわけないでしょう。あなたは(だま)されてるのよ!」
「祐真はそんな人間じゃない」
「あなたはまだ中学生なのよ。信用できるかどうかなんて判断がつくわけないでしょう! お父さんになんて云うの? 相手の人を訴えることもできるのよ!」
「どうしたの?」
 めずらしく感情を顕わにしている母の声に驚いた香奈が部屋へ入ってきた。荷造りをしているレアを見ると、香奈はさらに驚く。
「お姉ちゃん……?」

「そんなことをしたら一生許さない。お母さん、いままでずっと云われる通りにしてきたよね。でも、これだけは譲れない。引っ越すまでには帰ってくるから、いまは……これだけはあたしの思う通りにさせてよ」

 信じたい。
 その気持ちを確信に変えることができたら、素直に生きていけそうな気がしている。
 レアには、祐真がそれに応えてくれる唯一の存在だと思えた。



 祐真が煙草を一本も吸い終わらないうちに、レアはバッグを一つ持って団地内から出てきた。

 その向こうにレアを追ってきた大人の女性と少女が立ち尽くしている。
 祐真の視線を追ってレアも振り返った。
「大丈夫」
 祐真がレアを窺うように見下ろすと、彼女は迷いなく答えた。
「あたしのはじめてのわがままなの。妹はあたしよりうまくやってる。お母さんはそれを知ってる。だからあたしを止められない」
「それでも、心配するのが親だろ。なんて云われたのかは想像つくけど……」
 祐真は車のドアを開けて、ダッシュボードのボックスから紙とペンを取り、なにかを書き取ってレアにその紙を渡した。手にした五線譜の紙には、祐真の住所と名前と携帯番号が書かれている。
「お母さんに渡してきて」
「でも……」
「挨拶に行ったほうが早いけど……」
「だめ。祐真の顔、妹が見たらバレちゃう」
 祐真はおもしろがった表情を浮かべる。
「バレたら都合悪い?」
「あたしじゃない。祐真のため!」
 レアが困ったように抗議した。
 祐真は微笑()んで、レアの頬に手を添える。
「わかってる。本名は公開してないから大丈夫。これくらいの良識は見せておかないと。捜索願い出されるより、親に乗り込んでこられたほうがマシだろ。早く行ってきて」
 祐真はからかうように云った。

 息を切らして戻ってきたレアは、祐真の右腕に絡みついた。
「大丈夫」
 半ば自分に云い聞かせるように再び同じ言葉でレアは報告した。
「ああ…行こう」
 ドアを開け、助手席に乗るようにレアを促す。

 見送る女性に向かって祐真は軽く頭を下げた。


 もし出会うことがなかったら――。
 レアを手に入れたいま、そう思うだけで苦しい。
 ならば、ふたりが出会ったのは必然でしかあり得ない。

 この未来(さき)になにがあるかもわからないのに、祐真と同じように不器用にしか生きられないレアが自分を選んだことを胸に刻みつける。

 その期待を絶対に守りたい。

― The story will be continued in the next time. ―

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