Cry for the Moon 〜届かぬ祈り〜

メロディ5.


鈴亜(レア)、お父さんの転勤が決まったの」
 いつものように母と妹と三人で夕食を取っていると、とうとつに母が告げた。レアは伏せていた顔を上げた。
「いつ?」
「十月から広島へ行くの。九月の終わりには引っ越さなくちゃね」
 母はなんでもないことのように淡々としている。

「……ここに……残っちゃだめ?」
 目を見開いて、母は露骨に驚いた。隣に座った妹、香奈の視線も感じる。
 これまで云われるがままに従ってきたので、当然といえば当然の反応だった。

「未成年なんだから無理よ。それに、いまの学校には行く気ないんでしょう? 転校すればあなたが嫌がっているあの先生とも会うことないし、ちょうどいいわ」
「あたしは……」
「鈴亜、あなたがここのところ毎日、男の人と一緒にいるのは知ってるわ。お隣の奥さんが見かけたって教えてくれたの。学校も行かずになにをやってるの? まだ早すぎるのよ」
 口調は静かだったが、母の目は責め立てるようにレアを見つめる。

「それと学校に行かないことは関係ない。あたしが学校に行かない理由は知ってるでしょ? 勉強がしたくないからなんかじゃない。あの先生、どこかおかしいのよ? わからないの?」
 すぐには答えてくれなかった。けれど、そのさきの答えは見当がついた。
「……普通に生徒を心配している先生にしか見えないわ」

 またどこかに移り住むのならそれまで我慢すればいい。
 そうやって何事も穏便にすませようとする母はちゃんと見ようとしない。
 いざとなったらレアの話を無視する母をまえに、抵抗する気力を奪われてしまう。

 レアは食べかけたまま、席を立って部屋にこもった。
 椅子に掛けた祐真のジャケットを手に取って抱く。

 そのとき、ノックもされないまま部屋のドアが開いた。
「お姉ちゃんはヘンなことを気にしすぎなのよ。適当にやっておけばいいのに」
「適当にやれるあんたにはわからないのよ。あたしは香奈みたいになれない。香奈があたしになれないように。ほっといて」
 レアの背中に向かって、香奈は大げさにため息をつき、部屋を出て行った。

 一つしか違わない香奈は、レアよりもずっと早く大人に近づいている。自分だけがいつも取り残されているような気がした。



 約束をすることも確認をすることもなく、ふたりにとって午後の時間をともに過ごすことは日課となっていた。
 祐真は始終レアに触れている。そうされることに慣れてきたレアは安心しきって躰を任せてくる。

 けれど、今日のレアはともさえすれば泣きそうに顔を僅かに(ゆが)める。

「どうした?」
「え?」
 堤防に腰掛けたレアの足の間に立った祐真は、彼女の腰に置いていた手を上げてその首もとに回し、伏せがちな顔を持ち上げた。
「いつもと違う」
「ううん」
「話して」
 レアは言葉を失くし、怯え、心許ない表情になった。
「大丈夫。話して」
「……来月……また転勤が決まったって。引っ越さなくちゃ……」
 くちびるが震えている。
「わかった」
「いつものことだから平気」
 レアは無理やりの笑顔をつくった。
「レアが平気って云うときは平気じゃないってことだ。おれも平気じゃない」
「すぐに忘れて平気になるよ」
「どうしてそんなことを云う?」
「いままでもそうだったから。祐真にはここに世界がある。いつも手の届く同じ場所に家族がいて、友達がいて。あたしはどこの世界にも繋がっていない」

「レア」
 (たしな)めるようにその名を呼んだ。
「おれはそんなに薄情な人間に見える?」
「……わからない」

 互いを手に入れようという矢先にふたりは試しの場を与えられた。

「おれが同じくらいの畏れを持ってるってわからない?」
「……わからない」
 同じ言葉を繰り返すレアの、別れを幾度となく経験し傷ついてきた痛みが(あら)わになる。
(あきら)めるな。誓いは絶対に守りたい」
 レアの瞳が確かめるように見つめ返してくる。信じたい希望と信じない頑なさが交差し、絶望がかいま見える。

 出会ったことで、おれはさらにレアの傷を深くしてしまったのかもしれない。

 けれど今度こそは信じたい。
 きみといると強くなれそうな気がしている。


 祐真がレアを抱き寄せようとしたその時、耳を(つんざ)くような急ブレーキ音を出しながら、車がふたりの横を通り過ぎて少し先に止まった。エンジンを切るか切らないかのうちにドアが開く。

「柏木、学校サボってこんなところでなにやってるんだ?!」

 その必要以上に大きな声を聞くなり、レアの躰がビクッと震えた。祐真の手に早くなった鼓動が伝わってくる。
「だれだ?」
 振り向くことなく祐真はレアを(うかが)った。
「……先生」
「……あの?」
 怯えたレアが微かに頷いた。
 祐真はレアを堤防から下ろした。

「おまえのおかげでおれの立場がどうなってるかわかってるのか?!」
 男は祐真の存在が目に入っていないかのように、怒鳴り散らす。平常心ではあり得ない発言だった。

 祐真は険しく表情を変える。レアが怯えている理由が見えた。

「待てよ。あんた、学校の先生だよな。そんな云い方はないだろ。しかも自分の生徒に向かって」
「なんだ、おまえは? おまえには関係ないことだ」
「あんたのほうがよっぽど他人、部外者」
 祐真とさほど変わらないくらいの年の教師と称する男は、ガードを越えて威圧しながら近寄ってくる。
「柏木、おまえについては妙に大人みたいに冷めた目をしてやがると思ってたが、男をつくるのも早いな」

 レアが一歩後退(あとずさ)る。
 祐真は両手を握り締めた。
 武道を心得ているような体格から男は有利に見えるが、祐真のほうが立っ端(たっぱ)は勝る。微塵の躊躇(ちゅうちょ)も感じない。

「その目だ。気にくわねぇんだよ!」
 叫ぶと同時に、男の腕がレアに向かって上がった。

 その狂った行為にレアの足が竦む。
「レア、下がれ!」
 祐真が叫ぶと同時にその(こぶし)が、腕を上げて隙だらけの男の腹部に入った。

 うっ。
 男が呻いて前屈みになる。
 そこへ容赦なく、祐真は膝蹴りを入れた。
 うはっ。
 男は膝をついて腹部を(かば)うように手を回した。

「祐真! だめ!」
 レアが悲鳴に近い声で制止する。
 その声に祐真がレアを振り返る。一層怯えた顔がそこにあった。

「レア……」
「祐真!」
「このやろうっ」

 三人の声が重なった。
 すぐさま立ち上がった男が背後から祐真を襲おうとしている。
 その手が、庇おうと間に入ったレアのこめかみを(はた)いた。

「レア!」
 咄嗟(とっさ)に動いた祐真が、倒れるまえに彼女を支える。痛む左のこめかみを手で押さえた彼女を座らせ、男に向き直った。

「てめぇ……!」

 祐真の中で一切の歯止めがなくなる。

 この二カ月、抑えていた破壊的な衝動が(つい)に祐真を覆い尽くしていった。

― The story will be continued in the next time. ―

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