Cry for the Moon 〜届かぬ祈り〜

メロディ3.


 彼女を待ち続けて三日目。
 今日は雲が地上を這うように低く垂れ込めている。

 彼女が、もう会わない、と選択することはわかっていた。彼女の恐れは痛いほどに理解できる。

 けれど、感じたものが自分と同じなら、彼女は現れる。
 さえぎるものなど無に等しい。
 限界が近い。
 恐らく彼女も同じ想いでいるはず。
 そう信じた。


 〜〜〜〜〜♪ 〜〜〜〜〜♪


 風が聴き覚えのある微かな音を運んできた。
 振り向きたいのを(こら)える。瞳が合ったとたんに彼女が逃げていきそうな気がした。

「あたしを抱えて座らせてくれる? ここは高くて登れないの」
 葛藤(かっとう)など微塵(みじん)もなかったようにレアはやってきて、祐真に声をかけた。
 祐真はようやく振り向き、堤防から下りた。
「なら、いつもはどうやって座ってるんだ?」
「駐車場の柵を乗り越えれば簡単」
 祐真の視線が距離を計算するように駐車場へと向かい、それから顔をしかめてレアへと戻ると、彼女は笑って返す。
「平均台の練習」
「危ない」
「……そうね」

 祐真はレアの腰をつかむと少し屈んだ。
「手を回して」
 レアが祐真の首に手を回すと、抱き上げて座らせた。
 そして、しばらくそのままでいた。
 逆らうことなく寄り添うレアの髪が風に吹かれて祐真の頬を撫でる。

「どうして来た?」

 来てほしいと思う一方で、このまま会わないほうがいいとも思った。レアをめちゃめちゃに壊してしまいそうな気がした。

「雨が降りそうだったから。雨に濡れるのって好きなの」

 レアは自分が駆け引きをはじめていることに気づいているのだろうか。

 祐真が身を引くと、首に回されていたレアの腕が解けて力なく落ちた。
「……来ないほうがよかった?」
 レアが呟いた。
 それはレア自身への問いでもあった。
 再び会ってしまったら引き返せないような予感を払拭(ふっしょく)できなかった。

「来てほしかった」
「……ありがとう」

 自分の感情に翻弄(ほんろう)されて、泣きそうな顔でレアは笑う。
 祐真は幼いレアを引きずり込んでしまった自責の念に駆られる。
 けれど、もう引き返したくない。
 この手がレアに触れたがる。

「来なかったら、団地を一件一件訪ねていこうかと思ってた」
「嘘!」

 祐真は真剣に云ったつもりが、レアはクスッと吹き出し、戸惑いのない純粋な笑みを見せた。

「限界。キスさせて」

 笑みの残るそのくちびるを塞いだ。無意識のうちに繋がりを求めてレアの口が開き、祐真は待っていたように探った。ふたりは互いに存在を刻みつけるように深く絡み合う。

 ふたりの激情と同じように、堪りかねた空の雲から雨が落ちはじめる。

 躰を離した。
「濡れてしまう。行こう」
 レアの躰を抱き下ろすと、祐真は駐車場へと向かった。
 手を引いていきながら、だんだんとレアの足取りが重くなっていくのを感じた。

「どうした?」
 振り返りつつ訊ねた祐真の足が止まる。
 迷い、困惑、(おそ)れを見せつけ、レアが深く(うつむ)いている。
「怖いの」
 ポツリと呟いた声は雨音にかき消されそうなくらいにかぼそかった。


 ふたりの未来を啓示するかのように雨足が強くなっていく。
 雨は涙に姿を変え、いずれはふたりを引き裂いてしまうのかもしれなかった。


 けれど、繋いだままのふたりの手は互いを求めてやまない。

 祐真の中に築かれていく欲望はレアを求めてやまない。

 見下ろしたきみの躰は、雨に濡れた薄く白いTシャツが纏いつき、次第に華奢なラインを露わにしていく。

「おれも怖いって云ったら慰めになる?」
 レアが顔を上げる。雨を避けるように(しばた)いた目が少し赤くなっていた。

 駆け引きなんかじゃない。
 きみが雨に濡れるのが好きなのはその涙を隠すためだったんだ。

「急ぐつもりはない。ただ……」
 どうしたいのか、自分でもこの衝動がなんなのか説明がつかない。けれど。
「一緒にいたいんだ」
 触れていたいんだ。

 求めるものは永遠。
 それがどんなに難しいことかはわかっている。
 たぶん、永遠なんて存在しない。
 ふたりともそれを知っている。
 それでも出会った。
 ふたりは触れてしまった。

「それだけじゃ足りない? 約束がほしい?」
 レアは横に首を振って、途方にくれたように瞳を逸らした。


 海に落ちる雨は飛沫(しぶき)を舞い散らし、果てを白く不透明に濁らせている。


 期待と畏れは相克(そうこく)していつもレアの中に集っている。一つ一つ期待を切り捨てていくたびに畏れは小さくなっていった。
 それなのに、祐真はいとも簡単に再び大きくしてしまった。
 そして、学んできた心はこれまで以上に(おび)えを抱く。

 どうして触れることを許してしまったのだろう。
 自分との約束も守れない。

 祐真の右手が左の頬に触れた。冷たい雨に濡れた躰には一層温かく感じられた。
 ずっと触れていてほしい。そう思う手だった。
 その手に頬を預けて祐真を見上げると、その瞳が深く(かげ)る。

「風邪をひくよ。来て」
 祐真は再びレアの手を引いて歩きはじめた。

 車まで来てドアを開けると、祐真は中から上着を取ってレアの頭から(かぶ)せた。グラスグリーン色の薄手のジャケットからは祐真の香りがした。
「もう意味ないよ。服が濡れちゃう」
 すでに濡れそぼっているレアが上着を取ろうとして上げた手を祐真は制した。
「いいよ。帰るまで襲われないようにお守り」
 ――?
 レアは意味がわからなくて首を傾げた。
「雨に濡れた女性にはそそられるって云ったらわかる?」
 祐真の視線がレアの躰を下り、またその顔に戻ると、彼女は同じように自分の躰を見下ろした。祐真に戻したレアの瞳が困惑している。
 フッと笑って祐真はレアのくちびるに手の甲で触れた。
「これ、おれのお気に入りのジャケットなんだ。返さなくていい。一緒にいられないときも、これを見ておれを感じていて」

 手をレアのうなじに下ろすと、祐真は身を屈めてくちびるを彼女のくちびるに這わせた。
「明日は来る?」
 少し顔を離して祐真は問う。
「後悔したくない」
「後悔させない」
 レアの瞳が開き、間近で祐真の瞳と交わる。
「……約束?」
「違う。誓い」

 レアの声が祐真の琴線に触れたように、祐真の言葉はレアの琴線に触れる。

 レアが誘うように目を伏せた。
 その誘いを退けるには衝動が大きすぎてかなわず、祐真はレアに少しだけ触れた。問うようにレアが見上げる。
 拒む戒めはない。
 けれど、理性を失うまえにレアの無条件の信頼が欲しいと思った。

 たぶん、ふたりに必要なのは、自分と互いを信じ抜くこと。

「セーヴが効かなくなるまえに早く帰って」
 祐真はレアの背中を押した。
 レアの後ろ姿は大きすぎるジャケットを羽織ったせいでより小さく見える。
 今度もレアが振り向くことはなかった。


 なにがそんなに彼女を(かたく)なにさせたのか。
 おそらく理由なんて些細(ささい)なもの。
 自分と同じように。


 感じる心があるかないかという違いで、人は傷つき、絶望さえ覚える。
 それを乗り越えるために、人は人との出会いを繰り返す。


 そう知った。
 きみと廻り合ってから。

― The story will be continued in the next time. ―

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* 文中意 相克 … 二つの矛盾するものが争うこと