禁断CLOSER#144 第4部 アイのカタチ-close-

5.Incestuous Love -9-


 かつて、その瞳が那桜から逸れることはなかった。
 あの事故で、『眠る』と云った和惟はそのときに那桜を閉めだしたのだろうか。
 なぜ?
 少なくとも大人になってから和惟の寝顔を見たのは事故の日がはじめてだったが、いま階段をのぼっていく背中を見つめながら、那桜は和惟の背中すらそう見たことがないと気づく。
 和惟がその意思を持って那桜に背中を向けていたのは、ふたりの気持ちがすれ違っていた間、そして、厭わしい拉致事件のあと。
 いまになって思う。その日、篤生会病院に運ばれてから、夜中近くになって『何も、なくさないでいいように』守ってほしいと那桜が求めるまでの和惟は、治してあげるからおいでと手を差し伸べているのに傷ついた野生の動物みたいに近づくのをためらう――そんなふうにしていた。
 有吏一族に在っても、どこにも属していない、だれの命令も受けない。本家を敬いながら和惟には常にそんな一線が見える。
 その和惟が、背中の傷に那桜を刻み、いま那桜に背中を向ける。
 立矢が云ったように、グラスを粉々にするほど感情をあらわにする理由は、那桜にあるということにほかならない。

 和惟は二階に消えた。
 拓斗を振り向く。
「拓兄、どういういうこと……?」
 訊きたいことは次から次にあって、けれど、何から訊いていいか頭はまわらず、那桜は曖昧な問いを拓斗に向けた。
「和惟のケガは、ろっ骨の骨折、打撲、擦過傷、口のなかと頭に裂傷、そして軽度の脳しんとうを起こした。今月の初めに骨折が完治宣言されて、事故の後遺症はまったくない」
「それなのに……立矢先輩たち、お墓参りしたって」
「戸籍上もそうなってる」
 那桜は目を見開いて息を呑んだ。
「そう、って死んだってことになってるの? どうして?」
 那桜は訊ねながら、一方で『頼む』というキーワードを見いだす。和惟が拓斗にゆだねたのは、このことだったのだろうか。

「那桜。もし、兄妹に戻るなら……そうしても、おまえには和惟という居場所がある」
 那桜の問いには答えず、拓斗はまったく別のことを云いだした。瞳がじっと那桜に注がれる。
 たったいまのことがありながら、和惟が本当に那桜の居場所になるのだろうか。
 那桜は、海でも森でも、それしか見渡せない場所に取り残されて行き場を失い、立ち尽くしているような感覚に陥る。
 兄妹に戻るなら。いざ、拓斗の口からこぼれると、その腕からもはぐれた気がした。あまつさえ、那桜を放りだすために云ったのではなく、拓斗をもひどく孤独に晒している。そんな響きを感じた。
「拓兄を置いて、そんなことできない!」
 口走った言葉は、妹に戻ると云ったことと矛盾しているかもしれない。けれど、背中を押すことと押しやることは全然違う。

 拓斗は那桜の言葉をどう捉えたのか、少しだけ顔を斜めにうつむけると笑った。いや、嗤った、のかもしれない。そこにどんな意味があるのか。
 こんなに近くにいるのに、三人ともがばらばらの方向に走りかけている。それで、だれが安らいでいるだろう。
 ずっと――拓斗とこうなるまえは、自分ひとりが孤独だと思っていた。けれど、那桜には果歩がいたし、いまは郁美や翔流たちがいる。素直にわがままを押し通せる人も、和惟、戒斗、そして拓斗、そんなふうに那桜にはだれかしらずっといた。それなのに、拓斗にも和惟にもそんな存在はない。独りでさみしくないの? と、和惟に訊いたことがある。
 守る人間をただひとりと決し、だれも近づけない、だれにも近づかない。そんなふたりこそが孤独の人だ。

 拓斗はうつむけた顔を上げる。何かを決した瞳が那桜をまっすぐに射貫く。
「那桜、一生涯、おまえは有吏家の娘だ。そして、おれの妹だ。子供だった頃、漠然と守ることしか考えていなかった気持ちは妹に対するものだったと思う。いまは――傷つくなら一緒に――おれのわがままがおまえを傷つけて、これからもそうすることがあるかもしれない。けど、おまえを傷けることを怖れるよりも、傷つけても一緒にいられるようにする。それが、おれの覚悟だ」

 この二カ月、嫌われてもしかたがないことをしてきた。嫌ってくれたらいいのに、そんなふうに、離別を拓斗任せにして、そして傷つけてきた。
 拓斗のキスは、乱暴なときも、少しも下手じゃない。躰中へのキスがなくても、体内で交わすキスは那桜を泣きたくさせるくらい狂おしくて、たまらなくうれしい。

「……拓兄」
「和惟がいないことでおれから離れていくのなら、離れないためにおれは和惟を傍に置く。いまはそれだけだ。何があったか、和惟に訊けばいい」
 那桜がうまく言葉を返せないでいるうちに拓斗は近づいてきた。那桜の背中を押して、階段へと促す。
 拓斗は、ここに来たときに決まってふたりが使う、和惟の部屋に入った。

「なんで連れてくるんだ」
 出窓の天板に腰掛けた和惟は目を外に向けたままこぼす。最初とほぼ同じ言葉だったが、今度は力尽きたような声だった。
「だれもおまえがそうしているのを望まないからだ」
 那桜は和惟のほうへと歩いていく。明確な拒否はなく、那桜は和惟のまえに立った。眼差しはそっぽを向いたままだ。いつになく日に焼けた上半身は裸で、那桜は素早く目を走らせて傷がないことだけ確認すると、少し安堵する。
「和惟」
「触らないでくれ」
 顔をうつむけて和惟は力なくつぶやく。窓枠のところに頭を預けていて、その横顔からは覇気が欠けていた。

「和惟、那桜におまえが覚悟したことを話してやれ」
 和惟はぱっと顔を起こして拓斗を見やった。その目は一気に鋭くなる。
「よけいなことを知る必要はない!」
「隠したすえに傷つけても何も生まない。時間が無駄になるだけだ。傷つけるまでの時間を引き延ばして怖れているより、那桜を幸せにしてやりたいんなら、そういう時間を多くつくってやったほうがいい。おれとおまえが那桜を傷つけるとしても、傷つけるためにやってるわけじゃないことを那桜は知っている」
 拓斗は和惟から那桜へと視線を移して、「那桜」と呼びかけた。
 ほんの数分まえに拓斗からもらった言葉を疑うなんて愚かすぎる。何も拓斗に返せていない那桜にできるのは、すぐさまうなずくことだ。
「うん。ちゃんとわかってる」
 なんでだ、と和惟は囁くような声で吐き捨てた。

 和惟は拓斗からも那桜からも顔を背けて窓側に寄せ、わずかに伏せた。何かを堪えるように目を閉じる。
 無造作に伸ばした髪も、何日か手入れしていないあごひげも口ひげも、間近で見ても和惟の美を損ねてはいない。むしろ、プラスティックさをなくし、いままでの和惟よりずっと人間らしく、“動”という美を見せている。
 触るな。そんな気持ちはどこから出てくるのだろう。那桜は考えてみるが、常にと云っていいくらい触れてほしいと思っている那桜にとって、答えを見いだすのは難しい。ただ、反対側から考えるとなんとなく答えは出てくる。
 きれいにしてやる。忌まわしいことは拓斗がそう云って浄化してくれる。触れてほしいと欲するのではなく願うとき、拓斗がそうしてくれると那桜は救われる。
 それなら、和惟も触るなという言葉の裏できっと救いを探している。

「和惟」
 語ろうとしない和惟に呼びかけると、ため息の返事がきた。
「その名は捨てた。おれには名がない」
「それでも和惟としか呼べない」
「人を殺した」
 衝撃的な言葉だった。単なる比喩だろうと思ったのはつかの間、和惟がここまで荒むのなら、それは真実かもしれない。
 簡単な言葉なのに理解できず、息を呑んだまま、那桜は拓斗を振り返る。
「そいつはとっくに死んだことにして、でき得るかぎりで記録を抹消した。その後の生きていた痕跡は、その男に接触した人間の記憶にしかない。人の記憶はあやふやだ。はじめからいなかったと否定されるうちに、だれだったかは曖昧になって、人の記憶のなかからも消える」
 拓斗はあっさりと和惟の告白を裏づけた。
 そうまでして――
「……だれを?」
 那桜の問いに答えが返るまで、また時間を要した。少し開いた窓から鳥のさえずりと風が紛れこんでくる。三人の間に潜む影とは場違いなほど、のどかな音響だ。

「那桜の父親は首領だ。ほかのどんな事実も不要だ。首領から“娘”を奪いたくない。那桜から、ただひとりの父親を奪いたくない」
 やがてもらった遠回しの答え――その意味は嫌でもわかる。
「……和惟は……憶えてたの?」
「憶えてるんじゃない。焼きついてる。あの男に、父親だという自覚すらさせてたまるか――。……いまは知らなくても、いずれ知るかもしれない。それなら、そうなるまえに抹殺する。そうせずにはいられなかった。けど」
 和惟は嗤いながら、「人の腕を折るのとは違った」と自分の手のひらを見て、そして拳を握った。
「和惟……後悔してるの?」
「わからない。感触が残っている。那桜を冒涜(ぼうとく)したんじゃないかと思っている」
「わたしを冒涜?」
「那桜の存在を否定したわけじゃない」
 どういうことかがわかった。

 どこのだれともわからない父親。那桜はいずれ探したいと思うようになっただろうか。那桜が遭遇した恐怖と似た状況のなかで那桜は生まれたのだから、何もいいことはないとわかっていても。むしろ、向こうからそう名乗り出てこられることのほうが怖い気がした。逃げても何もならないけれど、本当に穢されてしまう気がする。那桜だけではなく、有吏の家のだれをも。

「お父さんは、わたしが娘じゃなかったことは一度もないって。その気持ちはもう疑ってない」
 桜の木の下を描いた絵がそう教えてくれている。劣等感を持つことがあるかもしれない。そんなときがあっても、絵が癒やしてくれそうな気がした。
「だから、冒涜なんかされてない」
 和惟はやるせないような息をつく。
「和惟は汚くなんかない」
 那桜は和惟のざらざらした頬に触れ、それから首に巻きついた。
「那桜」
「大丈夫」
 引きとめる和惟をなだめた。
 割れたグラスに入っていたのはビールなのか、和惟からは感じたことのないお酒の香りがして、那桜の鼻を突く。ほどほど以上に飲んでいるようだ。
「……苦しい。そう思うのは……正しかったとは云いきれないからだとわかっている。有吏の名も汚した」
 耳もとで和惟は呻くように云う。
「でも、戻ってきて。わたしといるかぎり、和惟はその人を忘れられない。わたしといることで和惟は傷ついてる。それは、和惟への断罪なの。一心同体は和惟が云いだしたことだから。わたしが死ぬまでそれを守って。拓兄が死んだときはわたしを殺して。和惟が死ぬときもわたしを殺して。和惟に死が許されるのは、わたしが死んだあとだけ。わたしは独りにはなりたくないから」
 那桜を払いのけることはなく、和惟は力尽きたように躰のこわばりを解いた。

 いまは和惟の答えが聞けなくても、いずれ、戻ってきてくれる。きっと。
 那桜は和惟の首から右手だけほどいて下に滑らせた。指先に集中して、広い背中をたどっていく。すると、少しだけ盛りあがった皮膚に触れた。和惟がぴくりと反応する。そこを手のひらで覆う。こんなことで和惟を癒やせるとは思わないけれど、和惟のことも守るよ、そんな気持ちを込めた。
 やがて、深いため息が那桜の髪を揺らす。

「那桜は……わがままだな」
 呆れつつからかっているような響きは、以前の和惟が発していたものに近づいていた。
「そう。だから戻ってきて」
「少し時間がほしい」
 明確な答えではなかったものの、マイナスの返事じゃない。
「うん」
 和惟の手が那桜の背中に触れたかと思うと、子供を促すようなしぐさで二回だけ軽く叩く。
「風呂入ってきたらどうなんだ。冷たいし、下は泥だらけだ。床掃除するのはおれだけどな」
「和惟もひげくらい剃ったら? チクチクして痛いんだけど。お酒臭いし」
 からかった和惟に合わせて云い返してみると、耳もとに可笑しそうな吐息が触れる。
「拓斗が妬く」
 和惟がこっそり囁く。那桜は腕をほどいて拓斗を振り返った。妬く、といった表情は微塵もないが、首をひねった様が不満そうに見えなくはない。

「拓兄、着替えないけど」
「和惟のシャツを借りれば足りるだろ」
「拓兄も」
「ああ。さきに行ってろ。着替えはおれが持ってくる」
「はい」
 拓斗と和惟、互いに話がしたいのだろうと察する。那桜はふたりを残して、二階の隅の浴室に向かった。



 和惟は那桜の背中を追い、ドアが閉まると拓斗を見やった。

「拓斗、おれはどうすべきだ」
「最初に云ったとおりだ。何よりも、那桜も云っただろ」
「夢にうなされる。ひどいと自分の叫び声で目が覚めるときがある。那桜を怖がらせてしまう」
「那桜が云ったとおり、那桜といるかぎり、おまえが忘れることはない。起きてるときに苦しめばいい。そのうちゆっくり眠れるようになるだろ」
 いかにも冷静な拓斗の云い分に、和惟は苦々しく笑う。
「拓斗、おまえは、本当にそれでいいのか」
「那桜にはどんな権利もある。和惟、おまえには借りがある」
「借り?」
「おまえがやらなかったら……」
 拓斗は半端なところで区切り、「おれはずるい」と肩をすくめた。

 拓斗ほど何事もまっすぐひたむきに向かう人間をほかには知らない。幼かった秋の初め、感情を閉ざした拓斗のスタンスは見せかけであり、けして心底はゼロではなかった。冷淡に見えてその実、和惟に対してそうであったように、人の意思を無にはせず、むしろ尊重し、結果を否定することなく、ときに昇華への手立てさえ示す。それだけ常に思考を働かせられる拓斗は、那桜を中心に置きながら四方に注意を払う。拓斗がいるかぎり、那桜が幸せになれないはずがない。
 ならば、那桜が望むように、おれは少しでも長く拓斗との時間をつくってやろう。

「分家は……おれはそのために在るんだ。それでいい」
「衛守和惟の生涯は三十二歳で終わった。これからさき、おまえの痕跡はどこにも記されない。新たにつくる――」
 拓斗をさえぎるように和惟は首を横に振った。
「名を残すことにこだわってはいない」
「ああ。和惟、おまえは那桜だけにこだわっていけばいい。これからさき、那桜にむちゃをさせることがないようにしろ」

 和惟は薄く笑い、それから腰を上げて姿勢を正したあと――

「御意」

 拓斗に対してはじめて発した言葉とともに深く頭を下げた。



 六年まえと同じように、着替えがないことを唯一の理由にして、帰るのは明日にして別荘に泊まることにした。
 那桜のリクエストにより、隆大が持ってきたカレーを食べ終えると、拓斗はソファに座ったまま、キッチンで片づけを始めた那桜と和惟を眺めた。割れたグラスは、拓斗たちが風呂に入っている間に片づけられ、床についた足跡とともに整然としている。

「ひげ、剃らなかったの?」
 那桜は顔をしかめて和惟を問いただす。
「日焼け予防だ」
「日焼けって?」
「東堂の農園を手伝ってる。夏場、農作業のあとのビールは最高だ」
 那桜は目を丸くして和惟を見やった。和惟は可笑しそうに口もとに笑みを浮かべる。
 ここに残ることにしたのは、この光景を見たかったからかもしれない。

『おれには、やらなければならないことがある』
 あの日、けがを負いながら和惟は切りだした。
『あの男を抹消したい。あのとき、那桜をつかんでいた男だ。血液鑑定を――確かめてくれ』
『何をするつもりだ』
 その拓斗の問いには答えず。
『おれは死んだ。そうしてほしい。那桜にも……頼む』
 直接に答えは返ってこなかったものの、拓斗は感づいた。そして、引き受けた。

 和惟の決断が正しかったのかも、拓斗の承諾が正しかったのかも、結論は曖昧だ。和惟と同じように、曖昧という時点で正しいとは胸を張れないことなのだろう。

「拓兄もビール飲まない? 三人で飲むのってはじめてだし、拓兄の誕生日だから」
 返事をするまえにカウンターにはビール瓶とグラスが並ぶ。拓斗は、ああ、と返事しながら取りにいった。

 那桜が云うように、三人で酒を飲むのははじめてのことだ。それだけのことに感傷を覚えるのは、妹に戻るという那桜の決意の結果が、覚悟していても衝撃が避けられなかったからかもしれない。

 那桜の記憶が至って正常にあると気づかされたのは、和惟と呼ばれるのに慣れた頃で、ふと遠くを見るような眼差しからだった。
 拓斗を和惟と呼び、そうしながら“和惟”を素通りする瞳。何かを決意した気配さえ感じるようになり、それがいつなのかと待つなかで、今日――。
 那桜が探してと云った場所にここを選んだことで、那桜の決意がなんなのかわかった気がした。

 ひまわり畑に来るたびに駆けだしたくなる衝動は、三十というこの年になっても変わらない。それと同じように、那桜を求める気持ちに終止符を打つことはできない。

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