禁断CLOSER#143 第4部 アイのカタチ-close-
5.Incestuous Love -8-
それは、おれにできること、ではなかったかもしれない。
復讐とか報復、目には目を――そんな言葉とは違う。ただ。
許さない。
何もなくさないでいいように。
その訴えを聞き遂げる。
奪いたくない。けれど、その一心は、結局、否定したことになるかもしれない。
感触が染みついて心底から抹殺することがかなわないのなら、それは、おれにできること、ではなかったのだろう。
街中より遙かに高い山中にいるせいとするのは安易だろうか、陽が近く、爛れそうになるほど肌を突き刺す。流れる汗にかまわず雑草を取り除いていると、ふと風を感じて、桜の花が躰を纏い、薫る。真夏に桜の花など見当たらず、だが、そんな気配を感じた矢先。
わずかな人の気を感じ、土を踏む足音を気取った。
「立矢! あとで案内するって云ったはずだ」
荒げた声が届く。背を向けたまま立ち去るか、と迷ったのはたまゆら、ゆっくりと振り向いた。
「フレビューのご令嗣自ら取引先の農園偵察か?」
「ここだったんですね」
ほんの傍に来た立矢は驚きも見せず、一方で追ってきた隆大が焦った様で頭を下げる。
「すみません」
「もういい。香堂、よけいなことはしないだろう?」
「那桜ちゃんに対してはわきまえているつもりです。何があってこうなっているのか、さっぱりですが……。那桜ちゃんの記憶が混乱していることをご存知ですか」
「……那桜が?」
「正確に云えば、ジェスチャーでした」
薄く笑い、ひまわり畑のほうを臨む。それから立矢に向き直った。
「何しにきた」
「おっしゃったとおり、オーガニック食材の抜き打ち偵察ですよ。薬剤使っての除草じゃないと確認できました。ついでに、せっかく会えたんだから云わせてください。事情がわからないからこそ、遠慮のない、ありのままの意見と捉えてもらいたいんです」
「なんだ?」
「NOBLE・BLOODのボトルグリーンは深い森をイメージしてること、那桜ちゃんから聞いてますよね。森林がなくなると生態のバランスがとれなくなる。深海も影響を受ける。けど、たとえば地球は、森と海があれば、終わりだと思えても自浄して再生する。桜の木はそう弱くないけど、栄養たっぷり、ちゃんと管理してやらないと花は咲かないし、傷ができたら枯れやすい。まさか“桜を切るばか”じゃないですよね」
何を云い返す間もなく立矢は背を向けて引き返していった。
遠ざかって、それをあたりまえにしてきたはずが、ほんの少しつつかれただけで揺らぐ。所詮“つもり”止まりで、様子だけでも把握しておきたいと思うのはあまりにもお粗末すぎるだろうか。
「隆大、拓斗から事情を訊いてほしい」
「はい、わかりました」
「隆大、雑草は取り除くべきなのか」
唐突に訊ねると、隆大は推し量った眼差しを向けてくる。
「放っておいていいことはありません。雑草は、極々稀少ですが、優れたものに変化したり変化させたりすることがあります。その時点で、それはもう雑草じゃなくなる。けど、関与した大本の雑草はどう足掻いても雑草のままです」
「雑草とそうじゃないものと、どうやって見分ける?」
「ほかの成長を阻むか否か、でどうですか」
「なるほど」
雑草に桜の木を枯らせてはならない。
そんななぐさめを必要とする自分を嗤った。
立矢の車が東堂家の管理している別荘地帯のゲートに着く直前、後部座席に移っていた那桜は、身を潜めて立矢の身元確認が終わるのを待った。そうはいえ、フレビューは自然食品を扱う場合、東堂家の農園と提携しているから、立矢は顔パスですむだろう。
立矢が隆大の父親に案内されて車を離れたと同時に、那桜は辺りを見回し、車をそっと飛びだしてきた。年に何度か来ているから、方向は迷うこともない。人や車が通らないか、耳をすましながらひまわり畑を目指している。
暑いうえに坂道とあって、すぐに疲れてしまう。思考力が鈍り、何かを考えることもままならない。那桜はただ足を進めた。
別荘地帯はゲートからそう遠いわけではなく、いくつか別荘を経てまもなく平坦な場所に出た。いちばん奥にある衛守家の別荘が見え始める。近くまで行くと、なんとなく那桜は別荘の階段をのぼった。そして、ノック用の木の棒で戸を叩いてみる。あたりまえだが、だれも応答することはない。
しばらく佇み、それから一歩下がると、那桜はくるっと身をひるがえしてまた通り道に沿う。
へとへとになりそうだったが、だいぶ躰が暑さに慣れてきた。天を見る余裕も出てきて見上げると、空は少し陰りを見せている。また夕立がやってくるだろうか。わくわくした気持ちが湧いて、覚悟という憂うつをわずかに吹き飛ばした。
ひまわり畑へと続くこの道を通るたびに駆けだしたくなる衝動。それは、ずっと幼い日に強く願った結果だった。
黙っていなくなっても、拓斗なら那桜がいる場所を探せる。
だって、約束してるんだから!
そんな独り言を思いだす。独りで歩く心細さは欠片もなく、森が押し寄せてくるような怖さもなく、さわさわと忍び笑う木の葉たちに覗かれているような不気味さもなく、ただ浮き立って歩いた。
他人の集まりのようで普通とは違う、けれど、有吏家に普通にあった家族の構図。何をしても許される、そんな場所は当然だと思っていた。
秘密を抱えた家族。秘密をなくして傷だらけの家族。気が休まることはなくて、いつもだれかが傷口を舐めている。いまはきっとみんながそうなのだろう。
詩乃に絶えず感じていた、ためらうような一線は、そのまま、那桜を産むということへの迷いを引きずっていたのかもしれない。
ありがとう、とそう云った詩乃に、生んでくれてありがとう――その言葉は返せなかった。
那桜が心底からそう思うときがきたとしても、それを口にすることは、きっと一生ない。詩乃がそれを求めているとは思わないし、そう云うことでまた傷つけそうな気がするから。
風の音を感じとりながら進み続けると、やがて木々が自ら道を空けてくれたように視界が広がっていく。
黄色いひまわりはごく一部で、様々な色合いが並ぶ光景は、まるでコンテストのごとく、ひまわりたちが、いちばんはわたしでしょ、そんな言葉を発して見てほしがっている、そんなふうに見えた。
いちばんは選べない。けれど、惹かれるのはやはりココアひまわりだ。
那桜は畑のなかに入っていく。少し風が強くなったようで、もしかしたら嵐の前触れかもしれない。汗ばんだ剥きだしの腕にひまわりの葉の先が触れてチクチクする。それは那桜の深層までつついた。
あの日も、ひまわり畑に出るまで空はブルーが占めていた。雨が降るとは思わなくて、降りだしても楽しくてたまらなかった。
雨に打たれることはめったになかったから。かばおうとしかしないと不満そうに云った詩乃と同じように、那桜にも傘が欠けることはなかった。拓斗を待ち始めて、立ちっぱなしがすぐにつらくなるくらい守られていた。
踏みしめている土は、いつ降った雨のせいなのか、ひまわりの陰になって乾く暇がないようで、やわらかく湿っている。かがんだ那桜は土に汚れようがかまわず、地面にお尻をついた。スキニーパンツ越しに、ひんやりした感触がじわじわお尻へと伝わってくる。
すると、ぽつりと頬を水滴がかすめる。見上げると、まだ青空が覗いているにもかかわらず、また一つ、鼻の天辺で水滴が弾けた。
あのとき、那桜を狙っているんじゃないかという、雨粒とかくれんぼをしているみたいな可笑しさ、そして拓斗を待つ期待感、それらに那桜ははしゃいでいた。そんな単純なときめきとリンクして、いままた那桜は独り笑う。
次第に雨足は強まっていく。考えていたことまで雨粒と一緒に流されそうだと思うのは、そうなってほしいという那桜の心底の願望なのか、けれど、那桜は必死にせき止めた。
記憶を失えば、拓斗を守れない。
那桜。
ふと、呼び覚ますような声が聞こえた。六年まえのように、今度は応えることなく、姿が現れるのを待つ。目印は、灰色の空をますます暗く見せるような、赤黒いひまわりの下だ。わかっているはず。
雨音しか聞こえなかったところに、水を跳ねながら土を踏む音が混じる。いつにない足音が立つのは、水分を含んだ地のせいか、それとも心の表れなのか。影がちらつき始め、姿が鮮明に、そしてだんだんと存在をあらわにしていった。
那桜が視界に入ったからか、近くとはいえない場所で拓斗はいったん立ち止まる。しばらく待ってみたが一向に近寄ってこない。那桜は理由に気づく。
「拓兄」
呼びかけたとたん、拓斗はやはり歩きだした。
抱きしめて。
幼い頃、ねだっていたように目のまえに立つ拓斗に両手を伸ばした。
「待ってたの」
十九年越しに大好きな兄と会えた。ひざまずいた拓斗の首に巻きつき、そんな感傷を覚える。
「遅いよ!」
駄々をこねてみると――
「那桜」
きつく那桜を抱き、拓斗自身までもが締めつけられたような声で天を仰ぐ。
「拓兄」
「ああ」
互いの声は互いの耳もとで、うるさい雨音を掻き分けて響く。いや、いまはうるさくなんかなくて、大丈夫――そう励まして踊るような足音に聞こえる。
「拓兄、誕生日おめでとう」
「ああ」
「拓兄、プレゼントは」
那桜はそのさきを口にするまえに、もう一度、自分を納得させる。落ち着くためにひと呼吸置いたはずが、いざ口を開いたとき、自分でも声がふるえていると感じた。
「わたし、妹に戻る。それがプレゼント。このひまわり畑から兄妹っていう続き、始めるの。思いだしてみたら……ここから時間が止まってる気がするの。だから」
「おれを疑うな。そう云った」
拓斗の声は雨音を掻き消しそうなほど静かだった。
「和惟は、わたしを拓兄に譲れた。ほんとは『託した』って云ったけど……同じ。拓兄は、和惟から奪うことはなかった、って……。拓兄も和惟に譲れた。お父さんはだれだかわからなくて……。わたしはずっと宙ぶらりん。それが似合ってる。いいかげんで気ままでわがままだし。だから、今日って決めたの。拓兄に、妹じゃなかったわたしのことを憶えててほしいっていう、身勝手なわがまま。誕生日だったら忘れることないよね」
疑うのはただ愛してほしいから。どんな理由をつけても、離れることに決心なんてつけられない。けれど、覚悟をした。那桜がはじめてだれかのために誓ったこと。
「拓兄、いつか拓兄の赤ちゃん、抱かせてね」
「そうしたければ、おまえが生めばいい」
けっして無責任に告げられたわけではない。けれど、それは夢で終わらせなければならないこと。
「拓兄、生まれない権利を、わたしは、自分の赤ちゃんから奪いたくない。知らないでいい権利は簡単に放棄させられるから」
「那桜」
何かを堪え、咬みしめるような拓斗の声がくぐもる。
「おれは、後継ぎが欲しいと思ったことはない。夢を見たんだ」
「……夢?」
拓斗と夢という言葉は、平行線のように対極にあって不似合いに思えた。
「おまえがおれたちの子供を抱いている――そんな光景を……夢見た」
「だから、拓兄のために喜んでそうしてくれる人が――」
「那桜。ほかのだれとも、おれが夢を見ることはない。夢は夢のままでいい。夢のなかなら、子供が“知らないでいい権利”を脅かされることはない」
拓斗はどこまでも守ろうとする。そうじゃなく。
「拓兄、わたしに拓兄を守らせてほしいの」
「なら、那桜。おまえを守りたいと思うおれの気持ちごと守れ」
「だから、わたしは自分を守るの。和惟みたいに、わたしのまえから消えてほしくない。拓兄がいるって、そう思っていられるだけでいい。つらくないとか苦しくないとか、そんな嘘は云わない。でも、やっていけるよ。だって、わたしは拓兄の妹だから。その繋がりが奪われることは絶対なくて、だから拓兄はわたしを守らないといけなくなってる」
拓斗がふるえているように感じるのは気のせいか、いや、もしかしたらふるえているのは那桜かもしれない。境がわからないくらい、ふたりの躰は密着している。
「風邪をひく」
拓斗は明確な結論を出すことなく、拓斗流の気遣い言葉で打ちきろうとする。いまを逃せばまた揺らぐ。
「拓兄!」
立ちあがる拓斗を責めた声で呼ぶ。と――
「黙って来い」
拓斗の声には、刺々しさすれすれで思い定めた響きがあった。
頬に纏わりつく髪を払うようにしながら那桜の顔が仰向けられる。拓斗はすっと顔をおろして斜めに傾けると、那桜のくちびるに喰らいついた。
思いやりの欠片もないキスに傷ついているのは那桜のはずなのに、拓斗の痛みを感じるのはなぜだろう。ふたりのくちびるの間で天水が蒸発してまた天へと還っていく。
拓斗は呻きながら唐突にキスを終わらせた。那桜の腕を取り、強引に立たせる。立ちあがったとたんに手を引かれて、那桜は転びそうになりながら拓斗についていった。
黙っていったさきに何があるのか。少しもやさしさはなく、拓斗はぐいぐいと那桜を引っ張っていった。
雨はやまず、ふたりともとうにずぶ濡れで、一歩まえを行く拓斗のYシャツは躰に貼りついている。少し斜めから見る背中は強靱で、那桜がすべてをゆだねようがびくともしないように見える。
妹として。それくらいは甘えても見逃してもらえるだろうか。けれど、どこまでが妹として許されることなのか、いまやあやふやで那桜は途方にくれる。
森のなかを通り抜け、開けるとすぐ衛守家の別荘が現れた。車庫の手前に止めた車に乗るのかと思いきや、拓斗は別荘の階段をのぼり始める。
「拓兄」
「鍵は持ってる」
声は雨に紛れたかと思ったが、拓斗は那桜に応える。そして、戸を解錠した。
汚れた服を着替えるために寄ったのか――
「拓兄、着替えなんてない――」
「なんで連れてきた!?」
那桜の言葉は、あるはずのない声がさえぎった。
拓斗が躰をずらすと同時に、鋭く、まるで手負いの猛獣のように吠えたその姿が那桜の目に入った。その瞬間、自分が何を思ったのかよくわからない。
髪は肩を越して、無精ひげを生やした顔は、輪郭とともに表情もぼかしていた。いつも柔靱だった気配は消え、その声と同じように荒んだ印象を受けた。
「那桜のことが知りたいって聞いた。自分の目で確かめたほうが早いだろ」
「おれは、頼んだはずだ。おまえは受けた。なぜ連れてくる。帰れっ」
何があって、こんなふうに――。
手にあったグラスがカウンターの下の壁に叩きつけられた。
グラスの破片は凶器に変わり、飛び散る音に那桜は身をすくめた。その間に、那桜をひと目も見ることなく、身をひるがえして二階に消えようとする。
考える間もなく那桜の躰が動いた。
「和た――」
「触るな」
猛獣はためらいもなく那桜を拒んだ。