禁断CLOSER#142 第4部 アイのカタチ-close-

5.Incestuous Love -7-


「ヘッドスパ、フェイシャルマッサージ、ボディトリートメント、それからフェイス&ヘアのメイク。オーガニックのヘルシーランチ付き。丸一日かかるコースだ。どう?」
 カウンセリングルームのなか、明らかにこの場所にそぐわない黒ずくめの男をちらりと見やり、立矢は那桜に目を戻して、スケジュールを立てたカルテを見せた。
「すてき。全然大丈夫」
 那桜は二つ返事をしながら、窮屈な部屋の入り口に立つ衛守家の又従兄(またいとこ)成臣(なりおみ)を見上げた。那桜が首をかしげて承認を求めると、ひと呼吸置いて、片方だけ肩をそびやかすというしぐさで許可が示される。

 那桜と年齢がひとまわり違う成臣は、年を重ねているぶんだけ惟均をぐっと渋くさせた感じだ。拓斗がいなくなって、和惟がその仕事を継いで、その和惟のかわりにずっと那桜をガードしているのがこの成臣だが、彼にとって那桜は前科者だ。拓斗の送迎が始まった日の逃亡で――電車で登校をしてみただけなのだが、那桜から云いくるめられたすえに騙され、惟臣からは咎めを受けるという迷惑をかけた。
 反省したし、だから彼を再び裏切るようなことはできないと思って那桜もおとなしくしている。それを知ってか知らずか、もしくは復讐、あるいは懲らしめか、成臣はほとんど無言のまま会話を終わらせて那桜を制御する。

 スケジュールどおり、ヘッドスパから入ると、朝起きてからまだ四時間くらいしかたっていないのにうとうとするほど心地がよかった。
 誕生会からこの十日間、これからのこと、いろんなことを考えてきて、那桜は憂うつさを押し隠してきた。脳内にはびこったもやが少し晴れた気がした。

 ヘッドスパの専用ルームを出ると、営業妨害しているんじゃないかと不安になるくらい、物騒な置物っぽく成臣が廊下に待機していた。ケーキ店“シュークルカンディ”での和惟を思いだす。
 成臣と違って、和惟を困らせても、和惟に対して悪かったと反省したことはない。それほど那桜は和惟を当てにしている。
 スタッフから別の部屋へと連れられていくと、成臣も当然ながらついてくる。
「待合室で待ってれば充分だと思うけど」
 部屋に入る間際、そう云ってみると。
「それはこっちで判断する」
 にべもない返事が来た。那桜はよほど信用をなくしているらしい。
 那桜は首をすくめて部屋に入った。個室のはずの部屋には先客がいた。

「那桜さん、ほんとに大丈夫かしら。叱られない?」
 頭はターバン風、身に纏ったのはスタニングビュー専用のガウンと、那桜と同じ恰好をした美鶴が不安そうにつぶやく。
「大丈夫。顔と躰で二時間くらいかかるんだから。それまでには成臣くんに連絡が行くようにしておく。万が一、突入してきたとしてもだれかがベッドにいるとわかれば、わたしだと思ってすぐに引きさがるよ。今日のエステはわたしからの身代わりのお礼。メイクまでちゃんとやってもらって」
 美鶴は大げさに肩をすくめた。
「何をするつもりか知らないけど、那桜さん、あとで教えてくれる? 知る権利はあると思わない?」
「わかってる。無事にすんだら話すから」
「おれはまた要注意人物に戻るんだろうな」
 那桜にコースの説明をしたあと帰ったことになっている立矢が奥のドアから現れた。「下手すれば立ち入り禁止(オフリミット)を喰らう」とため息混じりで続けた。その実、深刻そうではない。
「ごめんなさい。立矢先輩しか頼れなくて」
「そう云ってくれるかぎり強行するしかないけど」
 立矢は口もとに笑みを浮かべて云い、スタッフに向かって「頼みます」と軽く一礼した。スタッフが応じるのを待って那桜に向き直る。
「早く行こう。ボディガードに知れるまえに着かないとまずいだろう」
「うん。じゃあ美鶴さん、楽しんでね」
「あとで連絡だから!」

 美鶴の声を背中に聞きながら、立矢が出てきたほうに向かった。
 那桜は立矢が用意してくれていた服に着替えて、髪に手っ取り早くドライヤーをかける。そして、非常口からスタニングビューを出た。



 二階にある会議室の一室でテーブルを挟んで惟均と向かい、書類を眺めながら模索していると、拓斗の携帯音が鳴り始める。
「どうした」
『香堂立矢が那桜さんを連れて出ました。弟に追わせています』
 成臣は端的に報告した。
「わかった。監視は続けろ。よほどの事態がないかぎり、おれに知らせる必要はない。那桜から連絡が入る」
 ――はずだ、という省略した言葉は、希望か確信か、拓斗は自分でも区別がついていない。“今日”であることの意味をひたすらに考える。
『了解しました。のち、私も弟と合流します』

 電話を切ると、惟均の窺うような眼差しと合う。
「那桜がどうかしたんですか」
「しばらくしたら仕事をふける」
 間接的に応じると、惟均は顔をしかめた。
「僕は深い事情を知らないけど、那桜の現状を考えれば、間違っていると思えてなりません。価値のない命はないなんて詭弁(きべん)だ。だから拓斗さんは承知したんでしょう。この世界から名は奪われた。代償は払ってる。それとも、弟の僕にはこう云う資格がありませんか」
「おれこそが何も云う資格はない。止めなかったのはおれだ。そこにおれの都合がなかったとは云いきれない。ただ、那桜ごと守る覚悟はしてる。それでいいか」
「差し出がましくすみません」
 惟均はうなずきながら云い、書類に目を落とした。

 拓斗もそうしながら、その実、書類の文字は目に映らない。
 同じ有刺鉄線を渡っているつもりで、もう一本横に添う有刺鉄線を見逃していた。
 どちらも傷つき痛めつけるのなら、せめて同じ有刺鉄線上を歩く。
 そんな気持ちをどうやって那桜にわからせられる?
 拓斗は強く目をつむり、虚をつかんだような気色の悪さを閉めだした。かわりに、途切れそうな息づかいが口もとに薫ったようで、天を仰いだ瞬間の気持ちに曝された。



 午後一時まえ、立矢がまもなく中央道をおりると知らせてくれて、那桜はバッグから携帯電話を取りだした。画面に番号を呼びだして通話に切り替えると耳に当てた。
 一回の呼びだし音が鳴り終わると同時に。
『那桜』
 疑問詞がついたような声が応じた。めずらしく“なんだ”から始まらず、『那桜』と呼ぶことにどんな意味があるのだろう。
「拓兄」
 そう呼びかけても、驚いた気配は感じとれない。
『なんだ』
 いつもの返事。やはり、拓斗は知っていたのだ。拓斗は那桜の意思さえも見抜いているのかもしれない。それなら。
「わたしをつけてる?」
『おれはつけてない』
「ここに来て」
『どこだ』
「拓兄なら成臣くんに訊かなくても探せるはずだから」
 那桜は唐突に電話を切った。

 ずっとまえ、探したのは那桜だった。銀杏の木を探し当てた日のように、探したさきになんらかの結論が待っていることを拓斗は承知している。しばらく携帯電話を持ったままでいても折り返しの電話はなかった。

「やっぱり那桜ちゃんは記憶が曖昧になってたわけじゃなかったんだね」
 拓斗と同じように驚かなかった立矢は、ちらりと那桜を見やった。那桜のほうが『やっぱり』という言葉にびっくりさせられ、目を丸くして立矢の横顔を見つめる。
「気づいてた?」
「気づいたのは、このまえの誕生会。拓斗さんを見る那桜ちゃんの表情は、衛守さんに向かうのとはやっぱり違ってるよ」
「拓兄も気づいてた」
 那桜がぽつりと漏らすと、立矢は「だろうね」と相づちを打った。
「那桜ちゃんと衛守さんのことを拓斗さんから聞かされたときは、何がなんだかわからなかったけどね。いまでも何があったかは知らないけど、那桜ちゃんが衛守さんの死に責任を感じてるってことだけはしばらくして気づいた」
「責任、だったら、まだわたしも救われるんだけど。そんなきれい事じゃないの。拓兄に……わたしは復讐してるのかもしれない」
「復讐?」

「立矢先輩、立矢先輩は本当に有沙さんのことが吹っきれてる? わたし、立矢先輩はまだ有沙さんのことが忘れられないんだと思う。一線を引いてるだけで、有沙さんのことはいつも気にかけてるの。立矢先輩は拓兄になって、わたしを見てるだけ。違う?」
 立矢はふっと笑みを漏らしただけで答えなかった。それが答えになることも立矢は知っているはずだ。
「有沙さんの子供、可愛い?」
 話題がずれたことを怪訝に思ったのか、立矢は那桜に目を向けたあと、正面に戻って首をひねった。
「……可愛いと思うよ。ちょっとおれに似てるって父たちは云うけどね」
 立矢は何気なくしているけれど、お利口さんの意見に思えた。

 好きという気持ちは理屈では片づけられなくて、それがたとえ両想いであっても欲しくて欲しくてたまらなくて苦しい。そんな感情を教えたのは、感情をなくしていた拓斗だ。那桜がこの二カ月、感情を麻痺させていたように、拓斗がそうしていたとするのなら、きっと拓斗も血を吐くような傷を抱えている。少年だった拓斗にどんな痛みがのしかかったのだろう。

「一線を越えたキョウダイってダメになったら――そもそもかなうってことはないし、完全には離れられないままもとに戻らなければならなくて、それがひどく苦痛。忘れる日がなくて、だから想い出にもできない」
「那桜ちゃんたちはいまさらダメになる必要ないだろう」
「拓兄とわたしの気持ちは、根本的なところが違ってた。拓兄は和惟になってやるって。わたしに必要ならって云ったけど、そうする必要があったのは拓兄のほう」
 和惟としてなら那桜を受け入れられる。拓斗は妹を愛さない。
「和惟はわたしをかばったの。わたしのほうが消えればよかった。それがずっと正直な気持ち。でも、あの日、拓兄を守りたいってはじめて思ったの」

 那桜が拓斗を和惟にした日。那桜の肩に触れたのは熱い雫。それは拓斗のアイにほかならない。感情が麻痺して、自分から離隔したように感じるなかで、拓斗だけは何があっても守ろうと思った。

「復讐とは矛盾して聞こえるかもしれないけど……。拓兄を傷つけて、それで拓兄がわたしに見切りをつけてくれればいいのに、拓兄はそうしない。今日は拓兄の誕生日なの。だから、最高のプレゼントをあげるつもり」
「最高のプレゼントって?」
「内緒。あげるっていうのはちょっと違ってるかもしれないけど」
 立矢は考えこむように口を一文字に結んだ。
 車は中央道をおりると、スピードを落として国道に合流する。

「立矢先輩、ヘンなことを考えてるわけじゃないから、予定どおりうまくやってくれるよね? だれにも邪魔されたくない、大事な儀式があるの。成臣くんがついてきてるらしいけど、もし何か云ってきても拓兄が来るからそっとしててって伝えてほしいの。拓兄がそう指示してるとは思うけど」
 立矢はルームミラーに目を向け、那桜も釣られて後ろを振り向いたが成臣の車は確認できない。立矢はため息をついた。
「わかった。終わるまで待ってる。どうなるにしろ、那桜ちゃんが無事だってことを確かめないで帰るつもりはないよ」
「無事じゃないことなんてあるわけないけど、ありがとう。立矢先輩も翔流くんも郁美もいるから大丈夫って思ってる。でしょ?」
「じいさんばあさんになってもね」
 那桜は心強くなってくすくすと笑う。

 けれど、山が近くなるにつれ、夏の空と同じで急激に顔に浮かんだ笑みは消えていく。二時間もたてば、山は嵐になって、那桜の哀哭(アイこく)を掻き消してくれるだろうか。

「那桜ちゃん、あまり安易なことは云いたくないけど」
 立矢はためらっているのか、いったん言葉を切った。ちょうど車は赤信号で止まる。
「何?」
「衛守さんは……生きてるんじゃないかってこと」
 思わず立矢を振り向くと、ごく真面目な目と合った。捨て去った希望はいとも簡単に甦る。それも苦しくて、那桜は吹っきるように立矢から顔を背けて正面に戻った。
「……そう思いたいけど、だれもそうは云わない」

「拓斗さんは葬儀は身内ですませたって云うし、おれは翔流くんたちと墓参りはしたけど、衛守さんの死を直に見てないから実感できていない。だから、ちょっと状況を調べてみたんだ。衛守さんが車とぶつかったのは、道路に飛びだした直後じゃなく反対車線のほうだ。一トン車の運転手は、那桜ちゃんが視界に入った時点でブレーキをかけていたけど間に合わなかったって云ってる。それがダンプとかもっと重量の車だったらひどいのもわかるけど……。あのとき――文化祭のとき、和惟さんの闘い方を見た。まえから後ろからとか関係なく、考えているより躰が勝手に反応している感じだった。おれの出番はそうなかったよ。そういう人が、いくら那桜ちゃんを助ける一心だったとはいえ、避けるすべが少しも取れなかったのか疑問だ、ということ」

「……なぜ隠さなくちゃいけないの?」
「拓斗さんもそうだけど、衛守さんはどんな状況下でも那桜ちゃんから意識を離さない人だった。気づいてないとは云わせないよ。それだけ那桜ちゃんを守ろうとしていた人なのに、その那桜ちゃんのまえから消えたんだから、那桜ちゃんに関係があるはずだ」

 立矢の言葉は希望を生む。
 けれど、もう希うことも望むこともしない。何も。
 みたり、ばらばらになっても、どこかで生きている。
 それだけを信じていく。

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