禁断CLOSER#140 第4部 アイのカタチ-close-

5.Incestuous Love -5-


 ココアのスポンジケーキは、食べれば美味しいのだが見た目が色黒で味気ない。それが詩乃の手によってホワイトニングされていく。回転台がなくてもホワイトクリームはきれいに伸びている。
 器用な詩乃に比べて、同じ“専業主婦”でも那桜は怠慢極まりなく、見ていて感心はするけれど自分でしようとまでは思わない。スタート地点に立つまえに失格だ。

 那桜の誕生日をすぎて四日たった土曜日の今日、午後になると、突然ケーキの土台を持参して詩乃が訪ねてきた。しかも、隼斗付きだ。
 和惟がもし仕事で不在だったら那桜もいないふりをするところだったが、あいにくと和惟はいて、インターホンに出たのも和惟だった。
 和惟は、どうする? というふうに那桜を見やったが、和惟が家にいて那桜がいないとは考えないだろうから、那桜は渋々、かまわないというかわりに肩をすくめた。

 和惟と隼斗はローテーブルをまえに、床に座って何やら語り合っている。ふたりとも声が低く、だれも見ていないテレビの音が邪魔して聞きとれない。とはいえ、テレビは息苦しさを緩和してくれる。
 実をいえば、誕生日の二十四日には、詩乃から誕生祝いがしたいと電話があった。ちょっと迷ったすえ、郁美たちと約束があると嘘を吐いて断った。退院してから詩乃は週一のペースで訪れる。窮屈なのは少しも変わらない。

「あとはわたしにやらせて」
 クリームを塗り終わり、次に苺を取りかけた詩乃を止めた。
「子供の頃から変わらないわね」
 呆れているのか、からかっているのか、いや、それらとはかけ離れて懐かしがっているのかもしれない。詩乃はかすかに笑った。
 那桜がケーキの円周に添って苺をのせている間に、いったんキッチンを出た詩乃は四角い包みを持って戻ってきた。
「誕生日のプレゼントよ」
 那桜は手を洗って詩乃から受けとった。
「ありがとう。何?」
「なんの価値もないけど。開けてみて」

 A3サイズくらいあるだろうか、包装紙を剥がして、流しと反対側の作業台の上に段ボール箱を置いた。
 那桜はなんだろうと思いながら、平べったい箱のふたを開けた。時間が制止したように、中途半端な位置で箱を持った手が止まる。
 なかに入っていたのは、白い額縁に入った絵だった。ふたを脇に置いて額縁を手にした。
「お母さんが描いたの?」
 なんの価値もない、とそう前置きされた以上、訊かなくてもわかっていることをあえて口にした。
「そう。まったく素人の絵だけど」

 那桜が家を出てから三年を越え、つまり、詩乃の画歴もそれだけある。風景や静物画ばかりだったが、時折見せてもらうと上達はしていると素人目なりにも感じる。
 そして、プレゼントという絵は、はじめて見る人物画だった。
 赤ちゃんがだれかの胸に抱かれている絵だ。
 背景の木は桜だろうか。淡いピンクの花びらが花飾りのように赤ちゃんの頭にのり、赤ちゃんを抱く腕にも数枚重なるようにしてのっている。赤ちゃんも桜の木も、不自然なくらいクローズアップされていて、赤ちゃんを抱く人は首から下の上半身しかわからない。

「……だれ?」
「二十五年まえの那桜よ」
 すでにわかっていた答えが詩乃の口から発せられた。
 赤ん坊の那桜を抱く腕は太く、明らかに大人の男のもので、それなら――
「……一歳まえくらい? 抱いてるのはお父さん?」
「……そう」
 一言ともいえない相づちのなかに見えた詩乃の想いとは、やはり懐かしさなのか。顔に浮かべた微笑に潜んでいるのは、愛おしさなのか。
 那桜にはわからない。
「……お母さん、わたしの名まえ、夏生まれなのに桜って字にしたのは、桜が好きだからって云ったよね」
「そう。正しく云うなら……那桜が生まれた年の桜がとてもきれいだったの。その桜を忘れたくなかったわ」
「……いつ見てもきれいなのは変わらないと思うけど」
 那桜の受け答えに詩乃はため息をついた。落胆したように見える。
「そうね。いま、いろんなこと思いだそうとしてるんだけど……。このとき、お父さんの笑った顔は桜に似てたかもしれない」
「お父さんが……笑ってる?」
 信じられない気持ちで那桜は詩乃を見つめた。それから絵を眺める。けれど、やはり首から上は見えない。
 拓斗が笑わないのは父親譲りだと自然に思いこんでいるほど、隼斗が笑うのを見た憶えはない。穏やかな雰囲気を感じるときはあっても笑顔まではなく、それが父親の姿だと思ってきた。
 詩乃はため息交じりで可笑しそうに微笑んだ。

「お父さんも人よ。大雀の家のすぐ近くに桜の木があるの。那桜を抱いて桜を見上げてた。儚さを抱えて、でも潔くて、そして温かい。那桜がうらやましかったわ」
「わたしがうらやましい?」
「あのひとが何も隠さずに素直に気持ちを曝した瞬間だったかもしれない。わたしのことはかばおうとしかしなくて、わたしのまえではいつも強くあらなければならない。お父さんはそう思ってるから」
 隼斗のその顔はけれど、那桜の記憶にはなくて、絵にあるのは胸と腕だけだ。
「でも、お母さんしか見てない顔じゃない?」
「そうよね。那桜が生まれなければ、わたしはあのひとを一生誤解していたかもしれない。ありがとう」
 目を見開いた那桜を見て、詩乃は小さく笑みを漏らす。そこに潜んでいるのは、笑顔がもたらす感情とは正反対の慟哭――と、那桜はそんなふうに感じた。
「飾っておかなくてもいいのよ。郁美さんたちに見られたら恥ずかしいから」

 そのあとのティタイムでは、ケーキを食べるのに渋々といった和惟と違い、隼斗は美味しいと云うことはなくても抵抗なく、むしろ進んで食べている。会話といえば、普段は自分からあまり話すことのない詩乃が率先して話題を挙げる。那桜には通じない思い出話ばかりだ。

「那桜が三歳の夏のこと、貴方、憶えてる?」
 隼斗は首を横に振った。否定ではなく、触れてほしくないといったふうで、詩乃はそれをわかって笑う。そして、和惟に目を向けた。
「憶えてる?」
「ああ」
「何?」
 那桜が問いながら隣を覗きこむと、和惟もまた首を振る。
 詩乃は一度首をかしげたあと話しだした。

「お昼寝させようと思ったら、家のなかのどこにもいなくて。居間にみんなでいたはずなんだけど、拓斗に訊いても和惟くんに訊いても、いつの間にかいなくなってたって云って、だれも行方を知らなかった。そしたら、自分でお昼寝してたの」
「……それが何かおかしいの?」
「どこでお昼寝してたかが問題よ」
「どこ?」
「応接間の向こうにあった池のなか。小さな置き石を枕にして」
 那桜が目を丸くすると、ようやく隼斗が口を開く。
「浅い池だったが、転んで頭を打って死んでいるのかと思った」
 呆れ半分、苦悶といった感情が見え隠れするような云い方だ。
「慌てた?」
 隼斗のそんなところは想像ができない。
「娘は一人で充分だと思った」
 けれど、その言葉にもやはりなんらかの感情が見えた。

 なんだろう。拓斗が銀杏の木の下でそうし始めたように、もしかしたら隼斗もやっといまになって心中を曝すことを自分に許し始めている。そんなふうに感じる一方で、息をひそめたような気配に遭う。
「――心配しすぎて?」
 那桜がからかうように訊くと、詩乃が答えるまでもまた、不自然な一拍ほどの間があった。
「笑い事じゃないわ。遊んでて眠くなったんでしょうけど、夏だって水に浸かっていれば躰は冷えるし、溺れないとしても危ないことにはかわりないのよ」
「そういえばわたし、六歳のとき死にそうな目に遭ったんだよね。そのときは雨のせいだったっていうけど、水と相性悪いのかな」
「その話はもういい」
 和惟が逸早くさえぎった。

 那桜はため息を押し殺した。何気ない思い出話を聞くのは心地よかったのに、それはしばらくのことで、和惟がさえぎった瞬間に狭苦しい箱に閉じこめられた空気に晒される。
 それからしばらくすると、那桜が煙たがっているのを知っているかのように、詩乃たちは長居せずに帰った。



『那桜ちゃんの誕生会しようって話になって電話したんだけど、明日どうかな』
 ちょうど和惟が浴室から出てきたとき、那桜にかかってきた電話は立矢からだった。那桜は笑う。
「誕生日は和惟とお祝いして、今日はお母さんたちがお祝いに来てくれたの。今度は立矢先輩たち? 二十五歳ってそんなに特別な誕生日だった?」
『口実ってわかってるだろう? 社会人になると、大げさな口実がないとなかなかそろわないからね』
「わたしはいつでもいいけど」
『だから、みんな都合つけさせて決定事項を連絡してるんだよ』
「どこに何時?」
『那桜ちゃんのところに持ちこみで、十一時っていうのは?』
「うち?」
『そう。衛守さんも一緒に。しばらく一緒に飲み会やってないし』
「和惟も? ちょっと待ってくれる?」

 那桜は送話口をふさいだ。キッチンを振り向くと、ミネラル水の入ったペットボトルのふたを開けながら和惟が近づいてくる。
「和惟、明日、立矢先輩たちがうちに来たいって。わたしの誕生会」
「聞いてた。かまわない」
 和惟はほんの隣に座ると、ローテーブルの上に置いた絵に手を伸ばす。詩乃たちが帰ってからはじめて絵を見た和惟は、何度もそうして眺める。那桜は那桜で、そんな和惟を眺めながら携帯電話を耳に当てた。
「立矢先輩、和惟も大丈夫って」
『よかった。じゃあ、明日。おやすみ』
「はい。おやすみなさい」

 携帯電話をテーブルに置くと、那桜は和惟のまえに移動して、いつものようにその胸に背中からもたれた。こんなふうに甘えられるのは、ソファがないことの最大の利点だ。
 那桜は和惟の手から絵を奪い、両手で持って眺めた。

「和惟」
「なんだ」
「これって、生まれたばかりの赤ちゃんだと思わない? 一歳まえ、もっと正確に云うと九カ月くらいのはずだけど」
 和惟はすぐに答えず、その間に那桜の額を大きな手のひらがかすめた。
「絵のなかでは時間は無効だ。桜の木にしろ、おまえを抱いた姿とはバランスが悪いし、わざと遠近感を無視して書いてるみたいだ」
「そうなんだ」
 しげしげと見入ると、ふと那桜は訊いてみたくなった。
「和惟。わたしが生まれたとき、どんな気持ちだった? 衛守家は一緒に住んでたんだし、本当に家族みたいにしてたんだよね?」
 訪ねた瞬間に、那桜をくるむ躰がこわばったように感じて、和惟が答えるまでには時間が要った。
「忘れられないくらい、突然、だった。それを超えるものはない」
 那桜は斜めに首をのけ反らせて和惟を見上げる。合わせて和惟が見下ろしてきて、ふたりの目がぶつかり合う。
「突然? いい意味?」
「……どんな悪い意味がある?」
「わからないけど……。……拓兄は、“よっぽど”のことじゃないから憶えてないって云ったの」
 口を尖らせて云うと、和惟までもが怒ったように口を結ぶ。そして、和惟はいきなり那桜のくちびるをふさいだ。

 荒っぽく、仰向いているぶん飲み下せないふたりの蜜が溢れて、口の端からこぼれた。のどを伝ってパジャマの襟もとへと潜り、胸の谷間をくすぐる。パジャマの裾がたくしあげられると、蜜の流れとは逆行して和惟の手が這いあがってくる。ふくらみがそれぞれ手のひらにくるまれた。
 ん、ふっ。
 こねるようにしながら親指が胸先を弾く。数えられないほど触られているのに感覚が鈍ることはなく、那桜は躰をびくつかせながら背中を反らした。和惟は突きだした胸をしぼるようにしてつかみ、硬くした胸先を摘んで擦る。
 んんんっ。
 和惟の口のなかに嬌声を吐きだした。のどから胸へと、そして、躰の中心も、那桜はだらしないほど自分を蜜塗れにしていった。
 いつ片方の手が離れたのか、気づかないうちに和惟の手が脚の間を掻き分けるようにして潜ってくる。かと思うと、最大の弱点に触れ、それだけで躰がひどくふるえた。
 ぅんんっふっ。
 入り口から蜜をすくい、ぬめった指先が這い上る。充血した突起をくるりと囲むように舞う。那桜が抵抗を忘れてしまう場所で、和惟はそこを集中して攻めた。加えて左の胸先を摩擦されたとたん、反射的にぴくぴくする躰が痙攣しだす。
 酸素不足で頭がまわらなくなっている。ぼんやりとしたなか、快楽だけが浮かびあがった。意識が遠のきそうになったとき、くちびるが解放された。大きく呼吸した刹那。酸素を得たことさえ快楽になったかもしれない。胸と躰の中心、その両方のふくらんだ突起がこねられて、時間が間延びした感覚に堕ちる。
「あ、だめ――――っ」
 息を呑んだあと、腰を激しく揺らしながら、那桜は果てに身をゆだねた。
 ぅくっあ、ぁ、あ、あああ――っ。

 かすんだ視界の向こうにいるのはだれだろう。

 和惟に応えるのは躰だけ?
 疑問に思っていたときでさえ、拒絶の言葉を吐きながらも那桜は和惟を受け入れていた。
 拒絶することに意味はなくなっている。
 拒まなくていいなら。

「和惟、あい、してる」

 そう返し続ける。もうもらえなくても。

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