禁断CLOSER#138 第4部 アイのカタチ-close-

5.Incestuous Love -3-


 病院のなかで暮らしていると時間も季節も感覚が狂ってくる。
 昼間、雨が窓を叩く音が多くなって、雨ばっかり、と文句を云うと、和惟からいまが六月の末で梅雨に入っていることを知らされた。今日も、激しくはないが朝から雨が絶えない。
 テレビをつければ三十分とか一時間とかのサイクルで時間が動いていることはわかるし、朝と夜の区別もつく。それが日にちの単位になったとたん、曖昧になるのだ。
 那桜の時間は少しも進んでいない気がする。

「……和惟、まだマンションに帰れない?」
 ベッドの足もとのほうにある、ソファ付きのテーブルでパソコンを扱っていた和惟が顔を上げた。こういうとき、おおよそにおいて那桜に向けてくる、おもしろがった表情は見られない。
「マンションもここも大して変わらないだろ」
「ここは退屈」
 那桜は即座に反論した。そんな一言がどんな影響を及ぼしたのか、和惟はふと表情を止めた。
 返事を待っていると、どこかこわばっていた顔が急にふっと緩んだ。
「退屈?」
 笑った顔は、おもしろがっていると表現するにはちょっとずれていた。笑顔というより微笑と例えるのが似合う。那桜の記憶に刻まれた和惟の笑い方とは違っている。
「そ。看護師さんとか、お母さんとか、うるさくて窮屈だから」

 看護師はともかく、詩乃といると窮屈でたまらない。毎日訪れるわけではないけれど、詩乃と目が合えば、のどの奥に言葉を溜めこんでいるような眼差しで那桜を見る。いつそれが吐きだされるのか、それを思うとぞっとする。離れたい気持ちが破裂しそうなほどふくらんでいた。
 隼斗ともそうだ。那桜を訪ねてくるというよりは和惟と話すために来ているようだが、具合はどうだ、と聞かれるたびに、声は何気なく聞こえても、何かを見抜こうとするような気配を感じる。

「わかった」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった。……和惟が応じてくれないなら発狂してみようかって思ってた」
 半分は本気でも、あとの半分はふざけたつもりが、和惟は冗談に取らなかったようで、物云いたげに首をひねった。
 那桜はベッドをおりると和惟のところへ向かう。
「仕事、ずっと行ってないけど、行かなくていいの?」
「当面、デスクワークで間に合わせる」
 ほんの傍まで行くと、和惟はまえのめりにしていた躰を起こす。和惟の腿のすぐ横に膝をついて跨ると、那桜は向かい合って座った。

「キスしていい?」
「どう答えてもするんだろ」
「そう。憶えてる? 始めたのはわたし。中学生の下手くそなファーストキスに参ったのは……和惟」
 和惟は機嫌を損なったようにわずかに眉をひそめる。
 首をかしげて「違う?」と問いかけてみると、和惟はいったん目を逸らしたあとすぐに戻して、睨めつけるような眼差しで那桜を捕らえた。直後、くちびるが襲われた。咬みつくようなキスは、和惟とのセカンドキスを思いださせた。懲らしめるようにきつい。
 那桜がのけ反ってキスから逃れると、時間が止まったように視線を交差させる。少しだけ顔を近づけると、和惟もそうした。触れ合う寸前、ちょっとだけ顔を引いて、そしてくちびるを合わせた。押しつけるように口のなかを這いまわって、舌を絡めとるという攻めるやり方はさっきと変わらず、ぐったりするキスに那桜は上気しながらも、くちびるが離れるとほんのり和惟を睨む。
「なんだ」
「もっとやさしくできない? 拓兄みたいなキス! わたしは和惟のキスが欲しいの」
「どう違う」
 キスでなくても咬みつくようだ。
「しばらくやってなかったから忘れちゃった? ……和惟が怒ることじゃないと思うけど。説明できないし。わたしはうまくないから」
 那桜は顔を近づけると、和惟の下くちびるに歯を立てて咬みつき返した。呻き声が漏れるのと一緒に、つんとした鉄の味が那桜の舌先にのる。
「ほら。下手っぴいなキス!」
 和惟は傷ついたくちびるを気にもかけず、量るように見つめるだけで、怒ればいいのに、という意味もない那桜の挑戦はあえなく無視された。
 和惟の上からおりると、那桜は上半身を折ってまたくちびるを合わせた。上下のくちびるの間に舌を忍ばせてから、ゆっくりと離れる。

「ごめんなさい。仕事続けて」
「那桜」
 那桜が背を向けたとたん、和惟が呼びとめた。振り向くと、云いたいことがあるなら云えばいいというような気配に合う。那桜はおどけた様で肩をすくめてみせた。
「暇潰し。刺激がほしいだけ。帰ったら服を買いに連れてって。“GIRLsFirst”っていう店。まえに無理やり連れていってくれたところ。憶えてる?」
 和惟はうんともすんとも云わず、うなずくこともなく首をひねった。那桜は反応のなさにため息をつく。
「いつ帰れる?」
「明日でもいい」
「じゃあ、そうして! でも、買い物はあとでいいの。……和惟とやりたいことがあるから。あ、マンションはもしかして(ほこり)被ってる?」
「鳥井さんと町田さんに――」
「ううん。躰を動かしたいし……和惟とふたりでやれたら楽しそう」
 ヘルパーの名が出たと同時に那桜が提案すると、和惟は肩をそびやかした。



 翌日の午後になって那桜は久しぶりに外に出た。清々しいというには、いまにも降りだしそうな雨模様が邪魔をする。それでも完璧に空調設備された病棟よりは空気が新鮮に感じられる。
 迎えにきたのは惟均で、後部座席に座ってまもなく、和惟を助手席に、詩乃をその後ろに乗せて車は病院をあとにした。
 車窓から外を眺めると、街の風景も変わることなく、那桜もようやく時間のなかに加われた気がした。

「那桜、大丈夫なの?」
「なんともない。由梨先生にもそう聞いたでしょ。病院にずっといたら躰にカビが生えちゃいそう」
 詩乃の強引すぎる心配にはうんざりする。退院の支度も自分でできると云ったのに、世話やきは止められなかった。
「うちに来ればいいのに」
 そんなことをしたら、酸素不足で那桜は息絶える。よっぽど云おうかと思ったが、ますます心配したうえ干渉させることになりそうで、どうにか留めておいた。
「戒兄と叶多ちゃんがいれば充分でしょ。叶多ちゃんに云っておくよ、わたしのぶんまで大騒ぎしてって」
「心置きなく、拓……和惟くんが仕事に出られたらと思っただけよ」
 詩乃はこうやって時々名を云い間違える。自らで云い直すまえに必ずため息が混じる。それを責められているように感じるのは那桜の思いすごしだろうか。
「おれがそうしていることです」
 和惟が即座にかばう。
「わたしはもう独りでもかまわない。蘇我との決着はついたんでしょ。わたしも自由行動していいと思うの。ね、惟均くん」
「それでも護衛するのが衛守家だ」
 惟均に話を振るのは間違いだった。おもしろくもない、傍迷惑な答えが返ってきた。
「……和惟が二十四時間そうする必要はないよ。それに、護衛なんて出かけるときだけでいいと思うし」
 那桜の云い分に賛同した答えはなく、車内の空気は重く淀んだ。

 途中、食料品の買い出しをして、それからマンションに帰りついた。雨が降りだしている。
 窓を叩く雨は憂うつだが、雷が伴うと逸った気分になる。雨の下に入れば、わくわくしてくる。もう少ししたら――そんなうれしい気持ちが集うのだ。
「いまの雨は躰によくない」
 空を見上げて雨に打たれてみると、まさに、というべきか、和惟は水を差して那桜の手を引いた。

 エントランスをくぐり、マンションの最上階に行くと、檻もどきの柵は設置されたままだったが施錠はされていなくて、通り抜けたあとも施錠はしなかった。厳重に厳重を重ねた警備というのは解除されているようだ。
 そうあっても特に不安は感じていない。怖い目に遭ったことは憶えている。けれど、映画のようにスクリーンの向こうの出来事といった感覚がして、確かにあった恐怖さえ薄れかけていた。
 家のなかは予め空気の入れ換えがなされているように感じた。梅雨時期の湿気もなく、人が長く不在でいると感じる、かび臭さみたいな雰囲気もない。有吏本家の戒斗が使っていた部屋は、戒斗が家を出て以来、そこだけ時間が止まったまま世界から取り残されたようにひっそりとしていた。
 あの建物と同じだ。金属の冷たさは、そのまま取り残されたさみしさを主張していたのかもしれない。温もりがほしくて、温もりのなかにいた赤ちゃんを引きずりだした。もしかしたら、ぬくぬくと守られている那桜への制裁だったかもしれない。なぜなら、那桜を守る拓斗さえも奪った。
 いま自分のなかからさみしいとか悲しいとかいう感情が見いだせないのは、そう泣き喚いたすえに甘えて、また奪われるのが怖いから――そんなふうに思っている。

「那桜」
 買い物袋を持ってキッチンに入った和惟が、問うようなイントネーションで呼びかける。部屋を見渡していた那桜は振り向いた。
「何?」
 そう訊ねても和惟は首を傾けるだけで何も云わない。那桜も首をかしげ、それからふと思い至った。
「……和惟、そこじゃなくて向こう。和惟の家はあっちだよ。こっちは使わないし。よく考えればこっちから入らなくても和惟の部屋の玄関から入ればよかったのに」
「……そうだな。こっちから入るのが癖になってる」
 一拍置いて和惟は首を振りつつそう云った。
「これも兄さんのほうなのか?」
 惟均はリビングのソファに置いたばかりの荷物を指差した。詩乃の視線を感じてそっちを見ると、那桜は何か思いつめた眼差しに合う。
「うん」
 詩乃から目を逸らしながら答えるなか、「わかった」と答えた惟均は(おもんぱか)ったように和惟を見やった。
「那桜がああ云うんなら、様子見て、衛守家からつけることにしたらどうですか」
 思いがけず惟均は那桜の援護にまわった。が。
「それはおれが判断する」
 和惟は愛想なく惟均に云い渡した。
「はい」
 惟均は粘ることなく和惟に従ってしまい、那桜の期待はあえなく散った。密かにため息をつき、今度は逃げずに詩乃を見つめた。

「お母さん、あとは大丈夫。惟均くんと帰って」
「でも――」
「わたしは五歳でも十五歳でもない。自分のことは自分でできる。本当にそうなりたいって思ってるのに、いっつも邪魔してきたのはお母さんたち。しばらく放っておいてくれたらうれしいかも」
 和惟のリビングから戻ってきた惟均の足音だけが響き、ぴりぴりと尖った空気がはびこった。足音が止まると、呼吸をしているのは那桜だけかもしれないと思うほど静かだ。
 やがて、和惟がキッチンから出ようと歩き始めたところで停滞した空気が動きだす。
「惟均、こっちは大丈夫だ」
「わかりました。おばさん、行きましょう」
 詩乃の訴えるような眼差しを避けるべく、那桜は傍に来た和惟から買い物袋を受けとると、和惟の領域に向かう。
「お母さん、じゃあね。今日はありがとう。何かあったら電話する」
 振り向いて云うと、境界にあるドアを閉めた。

 和惟の部屋は変わらず家具に乏しく、だだっ広さが強調されている。
 隣の部屋でそうしたように見渡していると、ローテーブルの上にある鳳仙花の鉢が目に入る。事件まえ、種を蒔いたばかりだったが、自動水やり器のおかげで命は絶えなかったらしい。いまにも花開きそうな蕾ができている。つんとつついてみても、いまはまだ弾けることもない。
 わたしに触れないで。
 何気なく、つぶやいてからキッチンに戻った。
 一枚のドアを隔てた向こうで何を話していたのか、那桜が食品を冷蔵庫にしまい終わった頃、和惟がやってきた。

「お母さんは帰った?」
「ああ」
 那桜があからさまにほっとすると、和惟までもが詩乃と同じ雰囲気を放つ。
「小言はいらないから。遅まきながら自立しようって思ってるだけ。だめ?」
「何が不安だ?」
 和惟は見抜くような質問をしてくる。
「不安じゃない。自由っていう意味で、独りの時間がほしいだけ。和惟とは一心同体だから、ふたりでいても独りって思ってる」
 和惟は一度、目を逸らしてから深く息をつき――
「何からやる?」
 と、那桜を促した。気持ちを切り替えるように、目を背ける、というしぐさはここ最近になって和惟についた癖だ。伴って、返事するまでに一拍の間が空く。
「モップがけ。わたしは洋服を取ってくる。移さなくちゃ。それに、飾り物も。和惟の部屋は殺風景だからつまんないし、これからにぎやかにしてあげる」

 それから始めた掃除は、無駄に広いぶん手間もかかって、終わった頃にはすっかり疲れてしまった。床掃除も風呂掃除も、体力を使うことは和惟がみんなやってくれて、那桜は動きまわったわけでもない。入院している間に、かなり体力が落ちたという証拠だ。
 それだけ、大事にされている、ということでもあるのだろう。詩乃にとって、那桜の云い分はきつく聞こえていたかもしれないと、少しだけ後悔を覚えた。
 夕ご飯はつくるのをやめて、瀬尾家の店から出前を取った。入浴をすませた直後という、ちょうどいいタイミングで届き、ローテーブルの上に食材を広げた。洋食コースだ。
 パイ包みのスープは好物で、それを知っている和惟は自分の分を那桜のほうに押しやった。かわりに、那桜はステーキのほとんどを和惟に渡した。

「よかった」
 空腹感が解消された頃、那桜が唐突につぶやくと、斜め向かいから和惟は問うように片方だけ眉を上げた。
「もしかしたら、無理やり家に帰らされるかもって思ってたから。わたしは拓兄がいなくても和惟といたいの」
 そう云うと、和惟はまた癖を出す。
「……ああ」
 うれしそうにはまったく見えなくて、不満よりは意地悪に似た気持ちが湧く。那桜は和惟の横に移動した。和惟のあぐらを掻いた腿に手をつくと、目の高さが同じになる。
「和惟、云って。愛してる、って」

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