禁断CLOSER#137 第4部 アイのカタチ-close-
5.Incestuous Love -2-
躰を抱く腕はますますきつくなる。頭を抱えこまれて視界は閉ざされる。地上から酸素が奪われたように息苦しい。
「拓、にぃ……」
「大丈夫だ」
絞りだすような声が頭上でこもった。
何が、大丈夫、なのだろう。
ふいに腕が緩むと――
「拓斗、和惟が呼んでる」
そう呼びかける声が届く。
「那桜」
肩をつかんで躰を引き離された。温もりが消えて小刻みに躰がふるえだす。
「すぐ戻る。いいな」
見開いた目を射貫く瞳は厳しく、そして、なんらかの感傷で猛っている。返事ができないでいると、「頼む」とだれに云ったのだろう、拓斗は那桜を置いて、認めたくない有様に向かう。
その行く先には投げだした脚だけが見え、その主とは別の背中が群がっている。まるで、死肉とそれを漁るハイエナのようだと思うのは、すぐやってくる将来をそこに見ているからだろうか。
違う。拓兄は……大丈夫だって……。
脚からくずおれそうになった那桜は、すぐさま両腕を取られて支えられた。
「那桜」
さっきとは違う声が那桜を呼んだ。「聞いたのか」と続いた声のもとをたどり、見上げた。拓斗と似た眼差しで見据えられる。
のどに綿を詰めこまれたような窒息感に襲われ、那桜は無意識で首を横に振った。
「那桜、おまえは私の娘だ。私はおまえの父親だ。一度も、そうでなかったことはない」
意味もなく、また首を横に振る。
「わたし……のせい……和惟……は……」
「大丈夫だ」
父親だと云い張る口から、拓斗と同じ言葉が発せられる。
父親だ、そして、大丈夫だ。それは、嘘と嘘、本物と本物――答えはそのどちらかのような気がした。
躰を支える手を離れ、那桜は頼りない脚を一歩ずつ進めた。答えを知りたくなくて尻込みする気持ちと、もしもこのときが和惟の結末なら看取らなければならないという怖くてたまらない気持ちが、区別がつかないほど混乱して絡み合う。
歩道のすぐ傍で、車道には頑丈なはずの躰が力なく横たわり、左の頬が傷ついているのが目に入った。顔の下のコンクリートには、口から流れる血だろう、わずかに赤黒い水たまりができて淀んでいる。躰がねじれているわけでもなく、それならどこが傷ついたから和惟は起きることが叶わないのか。重篤なことを暗示していると思えた。
和惟を見守っていた拓斗が顔を上げると同時に、向かい側で那桜は崩れるように座りこんだ。
「和惟……」
ふるえる手を伸ばして傷ついた頬にそっと触れた。
「……那桜……。那桜?」
ぼんやりした声が、二回め、はっきりと届いた。和惟は目を開けかけて、また閉じた。
「那桜」
「和惟……ごめんなさ――」
「那桜……何をやってる。那桜……那桜は幸せでなければ……ならない。那桜がそうならないと……おれも幸せには……なれない。忘れるな、那桜……一心同体だ」
そこまで云って和惟は深く揺れる息をついた。そして。
「那桜……聞いてるのか?」
息切れしながらもからかうような響きだった。のどがふさがった感覚があって、那桜は答えることができず、そのかわりに和惟が上げようとしてそうできなかった右手を取る。力が込められて、大丈夫だと云われているように感じた。
それなのに。
「拓斗……頼めるだろう?」
「わかった」
その会話がどういうことなのか、和惟は薄く笑った。
「少し……眠る。那桜、愛、してる――」
大きくて、いつも優雅なしぐさで動く手が那桜の手から逸れた。その意味が理解できなかった。
和惟の躰をまわって傍に来た拓斗が那桜の躰を抱き寄せる。
「大丈夫だ」
和惟が自分で云うことのなかった言葉を拓斗が口にする。拓斗は嘘を吐かない。そう信じる気持ちが薄らいでいく。
遠くからやってくるサイレンの音が何重にもなって聞こえた。耳を突き抜けるほど大きくなったかと思うとぴたりとやんだ。麻痺した聴覚にまた別のサイレン音が届く。
那桜は拓斗から抱き起こされて和惟から引き離された。それまで囲んでいた有吏の男たちのかわりに救急隊員が和惟にたかる。様子を見つつ、救急隊員は隼斗といくつかの問答を交わしたあと、意思をなくした躰をストレッチャーに移した。
「拓斗、ここはいい。和惟に付き添っていけ。那桜を頼む」
「ああ」
もつれるように歩きながら、和惟のあとを追い、拓斗から抱えられて救急車に乗った。
「篤生会と伺いましたが」
「はい、お願いします」
ドアが閉められると、再びサイレン音がこもる。スピードを出した車は不快に揺れた。救急隊員は、パルスオキシメーターで指を挟み、瞳孔を見たり、躰を触れたりしながら記録紙に書き留めていく。
「この方の名まえと年齢を教えてください」
救急隊員は顔を上げ、拓斗に訊ねた。
「衛守和惟。三十二歳」
「持病とか、身体的に気をつけることはありますか。薬を服用しているとか」
「いえ」
「血液型は? 病院でも調べますが」
「B型です。篤生会ならすぐ把握できます。二カ月まえに採血したばかりで、冷凍したものもあるはずです」
「そうですか。身長と体重はわかりますか」
「はい。身長は一八八センチ、体重は……」
質問と応答はほんの間近で繰り返されているのに耳を素通りして、那桜は何も考えられないで和惟の寝顔を見つめた。目を閉じた、そんな和惟の顔は那桜の記憶になく、それならはじめてかもしれない。けっして躰を繋ぐことはない、触れるだけというセックスのあと、抱かれたまま眠ることも多かったけれど、微睡んでいたのは那桜だけかもしれなかった。起きたときはいつも――それがプラスティックであっても、笑った顔に見返されたから。
それが守りたいということの延長なら、そこにどれだけの意思が込められていたのだろう。
那桜は和惟に何も返せていない。
微動だにしない躰におそるおそる手を伸ばして、和惟の手の甲に触れると温かい。ただ、手のひらに忍びこませても、那桜の手を握り返してくれることはなかった。
病院に到着して、和惟が救急処置室に運びこまれて、待合のための個室に入ってもサイレンが耳から離れず、おかしくなりそうな気がした。
「那桜、どこか痛むところはないか」
ソファに座った那桜の正面で拓斗がかがむ。
「わから、ない」
わずかに見下ろした瞳はいつもと変わらず那桜を見つめる。どうしてこんなに冷静でいられるのだろう。和惟が大丈夫なのか、そうじゃないのか、その答えをそこに見ることはできない。ただ、那桜を抱きとめた拓斗の胸の奥は、荒々しく脈動を掻き鳴らしていた。簡単にはびくともしない躰からふるえさえ感じた。だとしたら――悪夢のシナリオが浮かぶ。嘘を吐く拓斗を見たくなくて、訊くのも怖い。
「那桜、どこまで聞いた?」
「わからない」
「那桜」
「……拓兄がわたしを抱けたのは妹じゃなかったから? 赤ちゃんくれたのも妹じゃなかったから?」
「そう思いこんでいたことは否定しない。妹という罪悪感はなかった。そういう面で、おれはおまえよりラクだったかもしれない」
「いまはつらいの? ばれたら引き離されるって、わたしがいつもびくびくしてたように……!」
「いまは、おまえが傷ついていることがつらい。おれがいちばんそうしたくなかったことだ。これからさき、おれが自分を許すことはない」
それが本心だとはわかる。けれど、根本にあるのはなんだろう。道路を隔て、和惟を傍にして、拓斗の気持ちを確かめたと思ったのに、やはりどこかずれている。
「わたしは拓兄のために何もできてない。わたしができるのは妹に戻ることだけ?」
「おまえが望んでいないことは、おれも望んでいない」
「違う。拓兄は、和惟から奪うことはなかった……って! でも、和惟は――!」
そのさきはそうすることで本当になったらと思うと、言葉にすることがはばかられた。口を噤んだ那桜を拓斗がじっと見据え、それから手を伸ばして頬をくるんだ。
「那桜。おまえに対して、これまで云ってきたこともやってきたことも、おれには何も嘘はない。おまえを独りにすることはない。必要なら、おれは和惟にもなる」
どういう意味だろう。まるで、和惟がいないことを前提にした云い方に聞こえた。ウルトラマリンの海に沈んで見つめているように、拓斗の顔が滲んでいく。
「拓兄、わたしもわたしを許さない。和惟は……わたしのかわり……わたしが……。赤ちゃんは死んだの。わたしも生まれないほうがよかったの。汚い犯罪で生まれて――」
「那桜」
鋭くさえぎった声は怒りに触れたように聞こえた。
「拓にぃ、眠らせて。銀杏の木の下で……そうしてくれたように眠らせて」
「那桜」
「忘れて……いい?」
「那桜」
一つ一つ、那桜を呼ぶ声は違っていて、けれど、いまの那桜にその意味を読みとることはかなわない。拓斗の手のひらのなかでうつむくと、ひまわりがぼんやりと目に入って、ずっと握りしめたままだったことを知った。瞬きすると、花びらが水滴を弾く。
「拓にぃ、それがだめなら……ひまわり畑のときみたいにして……わたしの息を止めて」
「那桜」
息苦しそうな、そして、祈るような声が那桜を呼び、拓斗は立ちあがった。隣に座って那桜をすくうと、銀杏の木の下でそうしていたように横向きに掻き抱いた。那桜は拓斗の首もとにすり寄る。拓斗もまた首を傾けて那桜の首もとに顔をうずめた。
互いの呼吸が互いの血脈を温める。
そう、こんなふうにしてわたしは――。
「拓にぃ、云って」
呻くような気吹が漏れ――
「忘れろ」
那桜の頬は雫に濡れ、閉じたまぶたの裏に銀杏の葉の陰が映る。
拓斗の呼吸は血脈を通して那桜の全身を温もりでくるんでいく。
好き。
その言葉は口にしない。きっと、云いたくても、拓斗が待っているとしても、云ってはいけない言葉。そうしたら、忘れたいこの気持ちだけが忘れることはできない気がしたから。
「失礼します」
薄らと微睡むような意識のなか、惟均の声が安らぎを切り裂くように現れた。
「拓にぃ」
聞きたくない。拓斗への訴えは届かず。
「入るなと云われているのにすみません。兄さんがたったいま――」
「いまは云うな」
鋭い声が飛ぶ。
刹那。
ウルトラマリンの海が那桜の意識を呑みこみ、底に引きずっていった。
*
気持ちは本物でもけっして正しいとは云えない。
那桜を貫く拓斗の眼差しに戸惑って、付随して無味乾燥な拓斗の感情を刺激したくてむちゃをやった。おふざけだったはずが、拓斗が那桜に無関心じゃないとわかって、もっと見てほしくて、かまってほしくなった。それが、恋するという気持ちだったかというとよくわからない。たぶん、そうじゃなかった。拓斗が一線を越えたときは、確かに罪だと感じたし、ショックだったから。
最初のうちは訳がわからなくて混乱していた。ただ離れられなくて、だから、離れることが怖くなった。
拓斗のすべてでありたい。拓斗のすべてを独占したい。怖さはそんな欲求に変わっていった。わがままな気持ちは、好き、という言葉でしか表せない。
和惟になかったその欲求は、永遠に、どうやっても、手に入らないと知っていたからだろうか。和惟はいつも見ていてくれたから、那桜を通してだれかを見ているときも、それをさみしいとは思っても、怖さを感じることはなかった。
拓斗は闘うと云って、そのとおり闘って、ふたりでいられた。それでも怖さが、もしくは、いつ発火するのかと燻る不安がいつも那桜に付き纏っていた。
それは自分の奥底に封じこめた記憶のせいだったのだ。
おまえの父親は私だ。
――嘘。
だれかが悪いというんだとしたら、それはわたしよ。
生まれても産まなければよかったのに――!
拓斗の子供を産んじゃいけないのは、純血のせいじゃない。那桜が後悔のもとで生まれ、だれをも傷つけるから。
だれも幸せにはできない。
唯一、那桜が幸せにできると云った和惟自身が。いない。
ずっと呼吸を合わせていられたら。そう願ってきたのに。
一緒にいることで拓斗まで穢している気がした。
だから――嫌い。
*
――那桜。
ずっと遠くの森深く、そう呼ぶ声が聞こえる。
いつもなら、愛してる、と続くはずの言葉はない。
――そのときが来たら迎えにくる。それくらい許されるだろう?
からかう声。何もできることがなくて。愛してる。返すまえに。
――幸せになれ。那桜が主張すべき権利だ。そして、那桜のおれに対する義務だ。
信じたいのは一つだけ。たぶん。
――大丈夫だ。
その口から聞きたかった言葉だった。
――那桜。
その声は森を海に変える。
海の底に沈んだ躰が、意思を宿したような水流にすくわれた。
*
まぶたが重くてたまらない。
「那桜」
迷いこんだ場所は深すぎて、海と森、どちらから声が届いているのか区別がつかない。
「那桜」
詩乃が呼ぶ。いつもの押しつけるような云い方ではなく、なんだろう、もしかしたら祈るような響きが潜んでいる。
ふるえるような瞬きを繰り返して、やっと目が開いた。ずいぶん長い時間、眠っていた気がするけれど、篤生会の病院にいるのはすぐわかった。
「那桜」
気づけばいつも那桜を追っている、そんな瞳を見上げた。
「和惟、拓兄がいなくなったの」
訴えると、病室がしんと静まる。さきに静けさを破ったのは詩乃だった。
「那桜! 和惟くんは――」
「いいんだ」
和惟は強く諌める。
「拓――」
「出ていってくれ。しばらくふたりにしてほしい」
再びさえぎった和惟は詩乃と向き合う。ふたりとも無言で、意思をぶつけ合っているかのように見えた。
詩乃は那桜へと目を移し、何かを訴える眼差しを向ける。そして、何も云わないまま、病室を出ていった。
那桜が起きあがろうとすると、和惟が肩を抱いて起こした。そのまま、和惟はベッドの端に腰かけると――
「那桜」
半ば問うように、半ば包むように、名を呼んだ。
「わたしを助けようとしたの。背中に傷を……拓兄は赤ちゃんと一緒にいなくなったの……」
何かがすっぽりと抜け落ちて、それが悲しいことだとわかるのに、悲しいと思う気持ちが欠けている。
「おれがいる。それでいいだろ」
「うん」
那桜の額を摩撫したあと、和惟は窮屈なほどきつく腕を巻きつけて、首もとに顔をうずめた。
肩が潤んでいくのは呼吸のせい?
けれど。ふるえているのは、那桜の躰ではない気がした。