禁断CLOSER#136 第4部 アイのカタチ-close-
5.Incestuous Love -1-
このさきは何も聞かないほうがいいと本能が自分に警告している。それなのに那桜の足は一歩も動かなかった。
たったドア一枚を隔てた向こうで何が起きているのだろう。隼斗は口を閉ざして答えない。皮肉にも、何も聞こえてこないことが、隼斗が父親ではないという拓斗の云い分を確実に示した。
だれもの家庭がそうであるように、離れ離れで暮らそうとけんかをしようと――何があろうとそれだけはだれも否定できない、とあたりまえのように感じて然るべき根本が奪われた。立ち尽くしたいまの那桜のように、心はどこにも行けないで途方に暮れる。
おれは――隼斗の答えを待たず、そう云い始めた拓斗の声に無意識で耳をすますのは、拓斗が、答えないことはあっても嘘は吐かないと知っているから。それも皮肉だろうか。
『那桜を妹だと思ったことはない』
それが例えば、恋いしているから、という理由から飛びだした言葉だったらよかったのに、いまはまったく逆説を意味しているように聞こえる。
『まえにそう云った。生まれたばかりの那桜を抱かされたとき、どこから連れてきたんだ――おれはたぶん、最初にそう思った。その思いこみがあって、あの夜、おれは聞き逃した……いや、聞き間違ったんだ』
『……行方不明になった夜のことか』
『母さんは、父さんの子じゃないとは云っても、自分の子じゃないとは一言も云わなかった。那桜が子供をなくして時々見せる顔は、那桜を生むまえ大雀家に帰っていた母さんとそっくりだ。和惟から二十六年まえの一族狩りのことは漠然と状況だけ聞いた。二度めの日、母さんが犠牲者だったことを聞いたときは何も疑わなかった。けど、違う』
『何が違う?』
『那桜を連れてくるまえ、母さんが長い間、大雀家に帰っていたのは普通に病気だからと思っていた。実際は、那桜の出生をごまかすためだ。那桜の本当の誕生日はいつなんだ?』
一カ月まえの那桜に降りかかった同じことがすでに二十六年まえにあって、それは詩乃に起きたこと。そして、それが那桜の出生と一緒くたにされて、隼斗が那桜の父親ではないのなら。那桜の思考力でも自ずと答えは出てくる。
『三月二十四日だ。予定は五月の初めだった』
しばらくして聞こえてきたのは、云いたくないことを云わされた、そんな歯がみしたような声音だった。
『間に、合わなかった……のか』
わかっていようが、自分が切りだしたことであろうが、聞きたくなかった。不自然な言葉の区切りに、そんな拓斗の気持ちが見え隠れしている。その真意はどこにあるのだろう。
那桜がかろうじて逃れたことが詩乃には間に合わなかった。
わたしの父親はだれ?
忘れろ。その拓斗の言葉が、いつ、どこで、なぜ、発せられたのか。襖の向こうから聞こえてきた、詩乃の悲鳴と隼斗の叱る声。わくわくした悪戯心は一瞬で泣きだしたい気持ちに変わった。
思いだしたのはそれだけじゃなく。
念のため、と那桜に用意された血液は――
固有ラベル、“衛守和惟”。麻酔で眠りに入る間際、由梨はそう指示を飛ばした。
おれはB型だ。和惟はあの前日、そう云った。
A型の隼斗とO型の詩乃からB型の子は生まれない。
『何かが間違っていたのかもしれない。だが……だれも悪くない』
『かもしれない、じゃない。父さんは一つだけ、確実に間違っていたことがある』
『そのとおりだ。約定で那桜を犠牲にしかけた』
――有吏の子じゃないからって那桜を追いだすの!?
那桜の将来にあった約定は、そんな隼斗の意向のもとにあったのだろうか。
聞くたびに一つ一つ土台が崩れる一方で別のことが繋がっていく。
息をするのが怖いほど、静かな時間が続いた。そして。
『おれは、妹という存在がよくわからない。那桜のことを正確に知っていたら』
拓斗は不自然に言葉を切る。
那桜の出生にまつわる真実を知っていたら――そのあとに続くのはきっと拓斗の真意だ。
『和惟は二十六年まえの一族狩りも目の当たりにしてる。母さんを救えなかったと云った。和惟は那桜のことをすべて知っている。それでも和惟は……。知っていたらおれは、和惟から那桜を奪うことはなかったかもしれない』
『……和惟が?』
和惟が?
疑問の中身は違えども、隼斗の一拍置いた問いかけと、那桜の疑問が重なり合う。
詩乃を救えなかった和惟にある、守るべきものを刻んだ傷。それは、そのとき命を刻まれた那桜のこと――。
和惟はずっと真実を知っていて、だとしたら、守るという気持ちは償い?
そして、拓斗が口にした、奪うことはなかった――それは不本意な後悔?
『和惟のことがなくても、知っていたら、那桜を守りたいと思うおれの気持ちが行きすぎることはなかったかもしれない』
拓兄……。
那桜のくちびるが囁く。
動転しているのに、一方では遠くから眺めている。そんな感覚で、泣きわめきたくなる気持ちと冷静に見つめる気持ちがさざめく。
妹と思ったことはない、と、拓斗はそこから派生する“逆説”をくっきりと証明した。
拓斗はどうして簡単に兄妹という間を飛び越えられたのだろう。ずっとそう思っていた。理由がはっきりしたいま、拓斗のなかで何が欠けたのか。
拓斗の那桜に対する気持ちは、すべて虚像のもとに成り立っていた。
兄だとしながらも拓斗を求めて一線を飛びだすことを望んだ那桜と、妹ではないとしながら那桜を犯すほど欲した拓斗。ふたりの気持ちは最初からすれ違っている。
引き返せない、と、そんなことはない。赤ちゃんはいなくなった。引きとどめるものは何も持っていない。妹、そんな理由で那桜は簡単に切り捨てられる。
昨夜、那桜が誘惑を試みるまでセックスをしたがらなかったことは、きっとその裏づけだ。
拓斗の決断次第でふたりの間はどうとでも揺らぐ。確かなものは何もなくなった。
『拓斗』
諭すような隼斗の声が那桜の足を一歩後退させた。その一歩が、凍りついていた那桜の躰を溶かした。
『弱音だ。おれは……』
後退するほど拓斗の声はしぼんでいき、それ以上は聞こえなかった。くるりと躰の向きを変えたとたん、階段を目のまえにして危うく落ちそうになった。
いっそのこと落ちてしまえば。
これくらいの高さだから死ぬことはなくても、『忘れろ』という拓斗の言葉にゆだねたように、頭を打ったショックでまた忘れられたかもしれない。
そんなふうに、ばかげたことを冷静に考えられる那桜は、どこか感情が麻痺しているのだろう。踊り場から方向を変えたところで、階段をのぼりかけていた和惟が目についても、逃げることも隠れることもせず対面した。
「まだ話し中か?」
「うん。和惟……」
「那桜?」
自分でも何を云いかけたのか、よくわからない。ためらった那桜を促した和惟の声は怪訝そうで、那桜は階段をおりながらごまかすように笑った。なんでもない、そう云いそうになったとき、奥にあるカウンターの上に空っぽの花瓶を見つけた。
「すぐそこのお花屋さん、行きたいんだけど。お花、なくなってるから」
那桜に背後を指差されて和惟は振り返る。那桜はその間に下にたどり着いて、向き直った和惟の腕を取った。
「オーケー」
和惟はまだ怪訝に思っているのか首をひねったものの、寛容に了解した。
「ヘンなところに気が行くな。のんびりしてる」
惟均は聞き耳を立てていたらしい。口を挟んだ。
「気が利くって云うべき」
那桜が云い返すと、頭上で和惟の忍び笑いが聞こえた。和惟の懐疑心を払拭しようと、好機を逃さなかったことは無駄にならなくてすんだ。
「行こう」
和惟は率先して那桜を会社から連れだした。
花屋は会社の正面にあるが、横断歩道はそこからずれたところにある。片側二車線の道路を横切って店に行く間中、和惟の手は守るように那桜の背中に添っていた。その手に宿る気持ちがなんなのかもわからない。
「どの花がいいんだ?」
和惟は、切り花やアレンジメントした花で溢れている、華やかな店内を見渡した。
会社を出る理由がほしかっただけで、これといって特別に買いたい花があったはずもない。それでも真っ先に那桜の目を惹く花があった。
『お母さん、拓にー、もうすぐ帰る?』
『もうちょっとしたら、ね。それよりも那桜、ちゃんと寝てなくちゃだめでしょう』
『お出かけしたらダメ?』
『熱があるんだから、おうちのなかにいるの。山のお天気は急に変わるから。那桜のご機嫌と一緒』
そんな会話が漠然と甦る。でも出かけたいの、という那桜のわがままはことごとく却下されて、和惟の母親、咲子にもなだめられた。
「ひまわり」
那桜がガラスケースのなかを指差す。
「やっぱりそれか。好きだな」
和惟は笑みの滲んだ声で云い、それから店員に声をかける。
久しぶりね、と声をかけてきたお馴染みの店員と挨拶言葉を交わしながら、那桜はミニひまわりを受けとった。
和惟が精算し終わるのを待っていると、携帯電話の音が短く鳴って途切れた。メールだと思いながら見ると美鶴からだ。ついでに買い物もどうかという誘いだった。
約束したことすら脳裡から消えていた。そんな気分とは程遠く、那桜は独りで考えたかった。だれかの手助けを当てにしていいとしても、そうしてほしい人は限定的で、あまつさえ、当事者なのだから、助けるどころかバラバラになる。那桜はふるえそうなくちびるを咬んだ。
美鶴には、急用ができたことにしてティタイム自体も断りのメールをした。
もしもわたしがいなければ。そんな仮定が脳裡をよぎる。
「どうした」
「美鶴さんから」
和惟の顔を見たら何もかもをぶつけてしまいそうで、躰の向きを変えるふりをして顔を背けた。
そろって店を出ると、半年しか勤めていなかった会社が見え、温かい場所だったとひどく懐かしく、同時に非現実だったように遠い風景に変わる。
「和惟」
足を止めた那桜に合わせ、和惟も左隣で立ち止まった。
「なんだ?」
「わたしのお父さん、だれか知ってる?」
その瞬間、和惟もまた、ちょっとまえの那桜のように凍りついたかもしれない。和惟が可笑しそうに息をつくまで、ほんのわずか時間が空いた。
「のんびりしすぎて、頭まわってないのか。首領に決ま――っ」
「お母さん、わたしと同じ目に遭ったって。二十六年まえ。和惟の傷はお母さんを助けるためだった。和惟、わたし、頭まわってるでしょ。いろんなこと壊れたかわりに、わたしのこれまでの疑問が全部繋がってる」
「那桜、なんの話をしてるんだ」
惚けたりごまかしたりということではなく、カウントダウンまでの時間稼ぎだろうか――からかった声音は消えて、和惟はただ探るように慎重に疑問を発した。
和惟が那桜を見下ろす気配は感じても、那桜はまっすぐさきに見える会社に目を向けたままでいた。目を合わせればプラスティックスマイルにごまかされそうで、声を聞き分けるほうが和惟の本音を見通せそうな気がした。
「わたしが蘇我に行くこと……。もともと有吏が嫌っている蘇我の血が……もしかしたら、蘇我とも全然関係ない、どこのだれかもわからないっていう些細で汚くて、そんな父親の子だから――」
「那桜、違う」
「違わない。和惟がお母さんを見てた理由もわかった。和惟がわたしと一緒に蘇我に行くのは、お母さんに対する償いなの。後悔してて、だから理不尽な立場を押しつけられても――」
「違う」
再び鋭くさえぎった和惟は、踏ん切りをつけるように一つ呼吸を置いて続けた。
「確かに詩乃おばさんに対して、償いができればという気持ちはある。けど、それと那桜を守るというおれの意思は別次元のことだ。少なくとも、あの夏からは、だれもおれの意思も宿命も否定できない。那桜も、だ」
和惟は、那桜が何をしようと、那桜に何があっても、那桜を認める。そんな意思があるから、拓斗がいても和惟を手放せないでいたかもしれない。
「和惟、ずっとまえに云ったことあるよね。和惟と逃避行……できる?」
「那桜……」
和惟はつぶやくように那桜を呼び、すぐにはイエスともノーとも発しなかった。
「……拓斗が追ってくる。許すはずないだろう――」
「わたしは拓兄の赤ちゃんを産めなくて、だったら美鶴さんとか、もしかしたら有沙さんのほうがもっとふさわしいんじゃないかって思うの」
「那桜の躰は正常だ。そう診断してもらってるだろう。いつだって子供はできる。それ以前に、拓斗は子供が欲しくて那桜と――」
「だって、拓兄の気持ちは嘘」
「嘘?」
「拓兄は、わたしが妹だってことを関係ないって云ってた。ずっと。でもそれは、妹じゃないって本気で思ってたから。だから、わたしがいなくなったらほっとするかも――」
「那桜。拓斗と首領が何を話していたにしろ、その話を最後まで聞いたのか」
「でも――」
聞いたこと全部が拓斗のなかにある真意だというのは確かなこと――そんな反論は口にするまえに消えた。
遠く正面に拓斗が現れた。那桜を認めて、駆けだしてきたような足が止まる。遠すぎてそんなはずはないのに、瞳が射貫かれた気がした。
「いまさら引き返せるような気持ちで拓斗がこれまでやってきたと思ってるのか。妹であってもなくても、生まれた気持ちを偽物にはできない。他人だからといって、誰彼かまわずそんな気持ちを持てるわけじゃないだろう。那桜は拓斗を兄だと知っていながら、そういう気持ちになってる。那桜自身が証明してる。おれにとって――それと同じように、拓斗にとっても、那桜だから――そんなふうになぜ思えない」
確かに最後まで聞いていない。
しばらく立ち尽くしたように動かなかった拓斗が歩きだし、ゆっくりした歩調は何かに煽られるように早くなっていく。
それが拓兄の気持ち?
おれを疑うな。そんな言葉が耳に届く。ふたりの間に必要なのは、ただ互いを求める気持ちで、不必要なものは、妹であるか否かという大義名分だ。
「拓にぃ」
無意識に呼びかけたあとは、続いて会社から出てきた隼斗の姿もかすみ、駆けてくる拓斗しか見えなかった。詩乃たちのもとを飛びだし、ひまわり畑を目指したときの気持ちがオーバーラップする。
「那桜!」
背後からと正面から、二つの制止する声を聞いた刹那、その残響をさえぎるようにいくつものタイヤがアスファルトに擦れて悲鳴をあげる。
「拓斗っ」
耳をふさぐ間もなく、背後の叫び声と一緒に那桜の躰は衝撃を受けて投げだされた。
ぶつかり合って、鈍く重くこもる音はそれでも空気を揺さぶる。
そして真逆に、真空のなかに放りだされたように、あるいは、人がすべて消えてしまったように、不気味なほど静寂に取り残された。
それはほんの一瞬だったかもしれない。
「救急車だ」
隼斗の太い声が静寂を突き破る。
それまで呼吸と同じく止まっていたかのように、耳もとでは俄に鼓動が跳ね、大きく動きだした。
きつく縛られたまま、おそるおそる頭を巡らしたさきで受け入れたくない光景が広がる。
その姿は、どうあっても見間違えることはない。
「和惟……」
突き飛ばされた衝撃も、ぶつかるように受けとめられた衝撃も、残酷にもひまわり畑の山をつんざく稻魂のように、自分の悲鳴に掻き消された。